ゆずれないものの交渉 その8



今日のまとめ
戦争の是非を問うのは難しいが、世界中のほとんどの人が全面核戦争だけはなんとか回避したいと願っていることは確かだろう。
戦争に関する交渉は最終的に全面核戦争という終着点が見えているために、誰もがどこかでチキンになることを選ぶ。
イラク戦争の場合、戦争反対派が先にチキンになったので開戦が決定した。
イラクは全面核戦争というカードを持っていなかったために、米政府はチキンになる必要がなかった。
戦争に関する交渉は影響が深刻すぎるので大義名分などの倫理は交渉結果に大きな影響を与えることはできない。
今日で完結。


会議は踊り、いつのまにか去っていく
しかし戦争の是非などどうでもいい。ここで解説するべきなのは米政府がA「戦争したい」と言い出したときにそれを止めさせることができるかどうかだ。その交渉においてどのような倫理がルールとなっているか、そしてそれはどのような経済学的(ゲーム理論的)背景があるのかを解明することがこの文章の目的だ。
結論は「Aを止められない」である。現時点で世界が遵守するべき倫理においてはAを止める大義名分を用意することはできない。たしかに「戦争をするべきではない」という大義名分はあるのだが、「戦争をするべきだ」という大義名分もあり、双方ともが公共の福祉に合致している。
もちろんこれは開戦直前の状況での倫理的判断にすぎない。後知恵でよければ「大量破壊兵器はない」から「戦争をするべきだ」という大義名分はあまりにも弱いものになっている。
戦争反対派は違う理屈でもって賛成派を非難するべきだった。「イラク以上に人権侵害を行い、他国の主権を侵害し、大量破壊兵器保有と開発を行っている国を先に攻撃するべきではないのですか?」こう聞かれたとしたら賛成派はどう答えたであろうか。リストの筆頭は北朝鮮だ。影響の大きさを考慮すれば中国やロシアもイラク以上に人類の敵となるはずだ。開戦派はこの質問に対してはぐらかすか答えないかくらいしかできそうにない。「じゃあそっちの国から先に攻めようか」と言った日には第三次世界大戦が勃発してしまう。答えをごまかした時点で開戦理由は正当性を失う。「答えたくありません」はもはや一般に共有される価値観から逸脱している。
これはある屁理屈の矛盾をあぶりだすために原理主義的な解釈を突きつけるという手法だが、多くの屁理屈はしっかりと論理が練りこまれていないためにこういった矛盾をさらけ出しやすい。しかしこの手法には屁理屈が一人歩きして原理主義へと政策が突き進んでしまうリスクがあることだ。そしてそのリスクは人類の歴史上、数え切れないほどに顕在化している。
この交渉はつまるところチキンレース形式のゲームだった。ここでは戦争反対派のほうがチキンだったために開戦派に押し切られてしまったが、逆のパターンになることも十分にありえた。捕鯨問題における日本と違い、どちらも命を賭けてまでチキンになることを拒否するだけの切羽詰った理由がなかったからだ。


私のために争わないで
ぐだぐだに終わったこのチキンレースの裏で、イラクはレースの景品として取引されていた。ここだけを見るとイラクにとっては迷惑千万な話でしかない。しかしイラクもまた米政府とチキンレースを勝負しており、賭け金が高くなりすぎる前にゲームを降りる自由がイラクに与えられていたことを忘れてはならない。
イラクが所属している倫理の一つに「国体*1の維持のためには国民の虐待は許される」というものがある。民主主義国家に住んでいる我々からすればはっきり言ってキモチワルイ倫理なのだが、彼らからすれば我々の倫理もまたキモチワルイのだ。そしてこの倫理はイラクだけが有していたものではなく、他にも多くの国が有している。
この倫理を信奉していることが罪となるならば、多くの国家が断罪される。いや、まったく断罪されない国家など現時点では存在しないだろう。アメリカも日本も自国民である兵士に「国のために死ね」と命令することを否定していないし、内乱罪というものも刑法に存在している。しかし民主主義国家では「罪になること」が明文化されており、国民が望むならその法律を改定することができる。こういった制御機構があるから「他者の自由を奪う倫理」の存在が許容されるのだ。
イラクをはじめとした無法国家は「制御機構を組込むべきだ」という倫理を強く嫌っている。この倫理を受け入れてしまうと国家に寄生している独裁集団の存続が危うくなるからだ。そして独裁者たちは同盟を組んでこの倫理の押し付けに抵抗している。もしもイラクがこの倫理の受け入れを要求されるならば、明日は自分たちが同じ要求を突きつけられることになってしまうからだ。
実はこの同盟がイラク戦争の遠因となった。アメリカの開戦派も戦争反対派も同盟の抵抗を恐れ「この倫理はイラクにだけ押し付けて、他の無法国家には押し付けませんよ」という幕引きに走ってしまったからだ。同盟国も全面戦争を恐れてイラクを切り捨てた。ここでもぐだぐだのチキンレースが展開していたのだ。


信念と死と
イラクは一国だけでアメリカをチキンにさせるだけの力を持っていなかった。イラクがどれだけ抵抗しようとアメリカが自分のキモチワルイを捨てなければならないほどの損害を与えることはできない。そんなイラクアメリカにチキンレースを挑んだとしても勝てるわけがなかったのだ。
もしもイラク核兵器とそれをアメリカ本土上空まで運搬する手段を持っていたとしたらイラクチキンレースに勝つことができただろう。もしもイラクがそういった強力な核戦力を持つ国家(ロシアか中国)の属国だったならばそれもまたチキンレースに勝つ力となっていただろう。しかしイラクは両方とも持っていなかった。イラクの持っているのは古い倫理だけでしかなく、倫理同盟はイラクを裏切った。
我々はこの事例から、全面戦争というカタストロフィーの前では倫理は無視されるという古い教訓がまだ生き残っていることを知った。個人だってそうだ。生きるか死ぬかの瀬戸際に立ったとき、本人自身の倫理ならともかく社会から強制されている倫理を守ろうはずがない。
イラク戦争勃発時において他のすべての国や派閥が倫理を放棄しパワーゲームに身を投じたのに対し、イラクだけは倫理でもって勝利を目指した。イラクだけが倫理を信じ、それゆえに滅びたのだ。

*1:こういった場合の国体は国民を含んだ国家ではなく、国家に寄生する集団の権力維持構造であることが多い。