安く売れ、高く買え 前編

このエントリーへのコメント用に書いていたのだが、あまりにも長いので自分のブログにエントリーすることにしました。
woodさんのエントリー自体はまあまああっていて経済学部の大学生くらいなら十分に合格点がもらえます。でももう少し進歩した解釈を紹介します。


一面的な解釈
ある経済事象(取引)には常に2者以上の主体が関与する。取引の主体が偶然一人の人間である場合(余暇時間をどのようにすごすか決定するなど)もあるが、その場合も与える側と受け取る側の役割を一人の人間が演じているだけだと解釈される。取引に関与しているプレイヤーそれぞれの立場から取引の意味を解釈することで「なぜこのような変化が生じたか」を解明することができるようになる。
このエントリーでは消費者の立場からプレミアムという現象を解釈している。ここでは消費者の意識が変化したからプレミアムのついた財が売れるようになったという結論が引き出されている。しかしこの結論はかなり本質を外しているのだ。
なぜこのような一面的な解釈をしてしまうかというと、一番の原因は知識の不足に行き着くだろう。経済学の知識も足りないし、社会事象を経済学的に解釈したらどうなるかという歴史的知識も足りない。そのためにどこかで書かれている文章(日経新聞とか)を読んで、まあまあ消化された知識を入手してそれを自分の知識のベースにしているのだろう。


「誰か」は踏み台でしかない
この「誰かの書いた文章を基に知識を増やし、教養を作り上げていく」という手法は非常に合理的なやり方だ。人間には限られた時間しか与えられていないし、こういった異分野の知識を修得するにはとっつきのいい誰かの解説を基盤にするのが一番簡単で効果的な方法だ。
しかしこの「誰かの書いた文章」というものを鵜呑みにするのはすごく危険な行為だ。
まず最初の問題点は紙幅の制限のために解説が(著者にとって)完璧ではないということだ。ある解説をするためには別の事象の解説をして、その解説をするためにさらに別の解説が必要になる。この無限の入れ子構造を打破するためにはどこかで解説を打ち切らなければならない。そしてこの解説停止の部分で著者と読者の論理の齟齬が不可避的に発生する。
もちろん著者は「読者がここまでの知識は持っているだろう」というところで解説を停止するわけだが、読者がそこまでの知識を持っているかどうかはなかなか分からない。そして著者自身がその知識を誤解していることさえも十分にありうるリスクなのだ。
次の問題点は著者に「読者を喜ばせよう」という欲求が発生しているということだ。これは僕のようにまったくの趣味で文章を書いている人間ですら逃れられない罠であり、商業誌に寄稿している著者ならばさらに強力な拘束条件となってしまう。ここに「読者に理解したという満足感を与える」と「読者が期待する結論を提示する」という二つの悪文の発生条件が整ってくる。
後者は後段で説明するとして前者の問題点を見てみよう。これは経済学では特に顕著な問題に発展する。経済学はもはやゲーム理論がなければ科学として成り立たない。そしてこのゲーム理論の特徴が「しばしば常識とは正反対の結論が導き出される」というものなのだ。そのために本当に正確な論理を記述するためにはゲーム理論を利用した解説が必要なのだが、多分にこれは冗長な説明を必要とする。
ゲーム理論の冗長な説明を省くとその文章は読者にとって「なんでそんな結論になるか分からない」ものになってしまう。逆に読者におもねって「やっぱりそうなるのか」と思わせるべく「常識に沿った解説」をするとそれは「本当っぽく聞こえるけど全然正反対な解説」となってしまうのだ。*1
三番目の問題がイデオロギーの問題だ。これは先ほどの「読者が期待する結論を提示する」も含まれるのだが、結論ありきの文章が世界には横行している。自分の個人的な正義感が「理論的にも正しい」と証明するために理論をでっち上げる人間は後を絶たない。特に経済学は未熟な科学だからどんな結論でもそれなりに論理的っぽく書くことができる。一番目の問題の解説停止という技法を使えばさらに簡単になるだろう。
このごまかしを看破するためには高度な知識が要求される。知識が未熟なために他者の文章から知識を得ようとしているにもかかわらずだ。これは特に「読者が期待する結論を提示する」罠にはまったときに顕著になる。読者は自分が期待した結論を見ることができた満足感に浸っているときにそれが虚偽であることを疑うことに非情な努力を要求されることだろう。
最後の、そしてどうしても解決不可能な問題は「どんなに誠実な著者であっても知識不足や勘違いからは逃れられない」だ。僕もそうだが誰一人としてこのリスクからは逃れられない。どんな偉大な人間の言った言葉でも絶対に鵜呑みにはできないのだ。


3歩先へようこそ
しかもここは「3歩先」の世界であり、誰かの指標を期待できない。
僕はここで様々な論理を展開するが、そのうちのいくつかは裏の取れない理論である。多くの論文はその論理を補強するために別の論文の存在を利用している。「他の人もこう言っているからこれは正しいのだ」という論法だ。しかし僕は「まだ誰も言っていない」ことを書くことが多いので、僕の言葉を信じるためには僕の言葉そのものを信じる以外にない。
さらに悪いことにゲーム理論の一般原則「しばしば常識とは正反対の結論が導き出される」により、僕はしばしば現在の経済学の常識とは正反対の論理を展開することがある。そのために裏を取ると逆に「僕が間違っている」ことも生じてくる*2。それでも僕は僕を信じて突き進むしかない。3歩先の世界は修羅の道なのだ。
この修羅の道の代わりに僕が手に入れたものがある。それは「既存学説からの自由」だ。僕は既存学説が間違っているかもしれないと考える自由を持っている。もし既存学説が間違っている可能性があるのならば、僕の作った理論も例外ではない。僕は「僕が間違っているかもしれないと考える自由」を持っているのだ。やっぱり修羅の道だ。

*1:この「間違ってるけど分かりやすい文章」を書くことが(一部の著者にとって)合理的な行動となる現象もゲーム理論で解説できるわけだ。

*2:しかも本当に僕が間違っている可能性がある。