安く売れ、高く買え 中篇

ここからが本題というわけでもない
前説が長い。これは僕の悪癖だ。
前説が長い理由の一つは前述の解説停止をできるだけ避けたいと考えているからだ。何度も言うがこれは「3歩先の経済学」なので、「1歩先の世界」と「2歩先の世界」を解説しないと誰もついてこれない世界になってしまうからだ。僕はこのブログをせめて「経済学部の大学生ならば理解できないこともない」文章にしたいと考えているので、冗長でしつこいくらいに説明を繰り返したいのだ。
もう一つの理由は「実は前説の部分を書きたかった」からだ。「なぜ他人の文章を知識のベースにするのか」「なぜ他人の文章は信じられないか」ということだ。そしてここから「実際どんなふうに間違ってるのか」「間違っている部分を見つけ出すにはどうすればいいか」を書いていこうと思う。「プレミアムがどのように消費者に認知されているか」というテーマは実はどうでもいいのだ。


プレミアムは嫌われる
「のれん」が信用という価値を持っていること、どのような価値を持っているか、なぜ価値が発生するかについて長らく知られていなかった。正確には「なんとなくは知っていたが、強く意識されなかった」と言うべきかもしれない。
もっとも経済学で扱われている事象はたいてい「なんとなくは知っていたが、強く意識されなかった」ことばかりだ。本当に革新的で衝撃的な概念であるゲーム理論もこの「たいてい」の仲間だ。ゲーム理論が発表される以前から人々はゲーム理論を応用して経済活動を行っていた。それどころか人類が誕生するはるか以前、単細胞生物が出現したころから生物はゲーム理論でしか説明のできないような進化を続けている。経済学はほとんど常に現状の観察結果でしかない。
もっともこの「現状の追認」はどの学問分野でも同じようなものなのかもしれない。量子力学もかなり新しい科学だが、ビッグバンの昔からこの宇宙に存在していたとも言える*1量子力学が発見される以前から量子力学を応用した技術(無線など)も存在していた。しかし量子力学が広く研究されるにつれてそれを応用した技術は急速に精度を高めることができるようになった*2
経済学も同様だ。経済学の原理自体は昔から存在しているが、その原理を人々が知ることでより精密に応用することが可能になる。そしてその原則は「のれん」に関しても当然適用される。
「のれん」はこれまでは(なんとなくの知識では)「継続的な取引を可能にするもの」、つまりは量的拡大の道具だった。しかし「のれん」に関する知識が深化すると、「のれん」によって商品の販売価格を引き上げることができることが分かった。「のれん」は質的拡大の道具になりうるのだ。これがプレミアムだ。
実はプレミアムは昔から存在した。しかし消費者からは嫌われていた。「同じ効用の商品なのにちょっと有名だからってボりやがって」という感覚だ。取引というのは双方の合意によって成り立つものだから、ボろうが投げ売りしようが商売が成り立つのならば文句を言われる筋合いはない。しかし商品をできるだけ安い価格で買いたいと願っている消費者からすれば「足元を見られている」という不信感をどうしても払拭できなかったのだ。
消費者がこのようなわがままな論理で商品を選ぶ以上、「ボるのは商道徳上よくない」という倫理を持っている生産者が消費者に選好されることになる。前回に詳述しているが、倫理などは単なる生理的嫌悪や個々人の利己的意識の言い訳に過ぎない。しかし大多数が信じる倫理は正義として通用し、それを紊乱するプレイヤーは市場から締め出されてしまうのだ*3
しかし「ボるのは商道徳上よくない」という倫理は経済学的合理性を欠いている。その倫理に従って行動すると、生産者・消費者双方の損失につながるからだ。多くの人々が「ボられて(ボって)いるのではない。プレミアムを支払って(受け取って)いるのだ」と気づいたとき、ようやくプレミアムという概念が市場に受け入れられた。これは経済学の「生理的嫌悪にもとづく倫理」に対する勝利だ。人々がプレミアムという経済概念を意識的に理解することで「のれん」というものの利用技術が向上したのだ。
ここに経済学などの社会科学の特徴を見ることができる。社会科学はその名の通り社会現象に関する科学であり、社会は複数の人間が参加している。そのために社会科学を効果的に応用するためには社会の参加者がその社会科学を理解する必要があるのだ。


暴力的手段を忘れるな
そうは言ってもこのプレミアム概念の浸透は経済学の啓蒙だけによるものではない。プレミアム付加行為が生産者・消費者双方にとって、旧来倫理から発生する生理的嫌悪を覆すだけの利益になる素地が社会に存在しなければ倫理の均衡点は移動しない。
その社会基盤(インフラ)は流通業の発達だった。
流通コストの高かった時代において、消費者は生産者を選ぶ自由はなかった。近隣にいる生産者の生産した商品のみが購入可能であり、遠隔地で生産される商品は最初から対象外だった。
その状況では逆に独占的な生産者がいくらでも商品に高値をつけることが可能なように見える。それは貨幣経済のみを対象とした経済学的には正しい見解だ。しかし社会は金銭だけで動いているのではなく、特に閉鎖的な社会では金銭以外の力学が強く働く。つまりは独占で法外(当時の法律的には合法なのだが)な利益をむさぼる業者の倉庫を略奪してしまえばいいのだ。消費者は生産者に暴力という後ろ盾でもって「ボるのは商道徳上よくない」という倫理を押し付け、生産者は自身の身の安全という利益も含めた経済学的合理性によってこの倫理を受け入れた。
時代が進み流通コストが引き下がると消費者は遠隔地から商品を購入することが可能になり、生産者は遠隔地へ販路を拡大させた。これによって誰が一番利益を受けたかというと生産者だと思う。打ちこわしというすべてを台無しにする暴力から解放されたからである。
打ちこわしは消費者にとってもリスクの高い作戦だ。生産者の自衛行動に反撃される可能性もあるし、治安責任者からの司法的懲罰もあるからだ。そんなリスクを選択するよりも遠隔地から輸送された(輸送費を含んで)少しだけ高い商品を購入するほうが割に合う。遠隔地の競争相手がいれば近隣の生産者も独占による高値をつけることは困難になるだろうから余計に打ちこわしは割に合わなくなる。
生産者は自分たちの商品にどのような価格をつけてもかまわなくなった。安値をつけて量を拡大してもいいし、高値をつけて利益率を重視してもいい。自分にとって一番利益が上がるだろう戦略を選べるようになったのだ。


暴力の届かない世界
商品の調達地域が広くなると、今までには強く意識されなかった問題が発生するようになった。それは破滅的品質の商品の流通である。
特に食物が分かりやすい例なのだが*4、毒物が混入していたり腐敗していたりするとそれは低品質どころか破滅的品質の商品と呼ばれるべきだろう。「安物買いの銭失い」とあきらめて購入した商品を廃棄すれば済む問題ではなくなるからだ。調達地域の広域化でこのような破滅的品質の商品が流通するリスクは極端に高くなった。
閉鎖社会において近隣の生産者がこのような商品を販売すると生産者は簡単に特定され、治安責任者からの処罰や消費者による私刑にさらされる。しかし広域経済圏で大量の商品流通にまぎれてしまうと生産者の特定は困難になり、司法的解決はともかく消費者による私刑は現実的でなくなってしまう。
このリスクに対抗する手段は3つある。「消費者が地球の裏まで悪徳生産者を追及しにいく覚悟を持つ」「生産者が『破滅的品質の商品を生産しない』という倫理を持つ」「消費者が信用できない生産者の商品を購入しない*5」だ。しかし前二者は現実的ではない。悪徳行為に利益が発生する以上、悪徳業者の発生をゼロにすることはできない。生産者に倫理を押し付けるためには倫理に反した場合のペナルティーが必要だが、地球の裏まで犯人を捜しに行くことはあまりにも困難だからだ。
結局、消費者は信用、つまりは「のれん」を利用する以外の対処方法は選択不可能だ。そして消費者から「のれん」という追加行為を求められた生産者はその追加コストを価格に上乗せする。この上乗せを前述の倫理が禁じていたが、その倫理はもはや経済学的合理性を失っている。ここでようやく「のれん=プレミアム」という図式が成立するようになったのだ。

*1:ビッグバン以前にはなかったのかもしれない。それどころか宇宙自体がなかったのかもしれない。

*2:半導体の動作原理は量子力学を使わずに説明することはほぼ不可能だ。そしてCPUの内部配線は量子力学の影響が出ないように工夫されている。ネガティブな方向ではあるが、これも量子力学の応用の一形態だと言える。

*3:もっとも貴族社会などのように「ボられること」がステータスとなる市場もある。

*4:ブレーキが壊れる自動車とか発火しやすい家電製品とか食品以外でも多くの破滅的品質商品は存在しうる。

*5:もちろん完璧な信用などは原理的にできるわけがないのでそこそこの信用で我慢するしかない。