安く売れ、高く買え 後編



移行期の混乱
商品の調達範囲の拡大期には調達範囲の拡大とプレミアムの付加のタイミングにギャップが発生する。プレミアムを付加するためには倫理の弱体化が必要だが、倫理を弱らせるためには「倫理が有効でなくなる状況」つまりは商品調達範囲の拡大が必要になる。決してこの順番は逆にはならない。
そのためにこの時期だけの社会状況を観察すると「生産者が倫理を失って金儲けに走り始めた」となり、「生産者=悪、消費者=弱者」という図式を導き出すことができてしまう。分かりやすい構図だし、この時期だけの情報しか与えられないのであればこれ以外の答えはありえないだろう。しかしこの答えは皮相的であり、事態の本質をつかめていないから応用が利かない知識となる。
逆に商品調達範囲拡大の前期だけを見ると正反対の構図が浮かび上がる。「消費者がこれまで誠実に暮らしを支えてくれた地元の生産者を見捨て、価格だけで商品を選ぶようになった」や「生産者は地元消費者からの制裁という脅迫から解放されたにもかかわらず、倫理を失わずに低価格で商品を提供し続けた」となり、ここでは「生産者=善、消費者=恩知らず」という図式が成立する。これも皮相的すぎる。
生産者・消費者ともに善でも悪でもない。彼らはともにその時代々々の状況に合わせて自分自身の利益を最大化しようとしただけのことだ。正義*1の観点から見ても「消費者が理不尽な倫理を押し付けた」「生産者が一方的に倫理を踏みにじった」だから差し引きゼロだ。
しかしこのギャップの期間にも人々は生活を営んでいる。その時期には人々はそれぞれの倫理観でもって自分や相手を評価することになるだろう。移行期の前期に生産者は「俺たちは倫理を守っているぜ」つまりは「ものづくりのプライド」と呼ばれる心理的な優越感を持ち、後期には「プライドを失った生産者」と消費者が生産者を罵倒することで心理的な優越感を持った。
経済学に限らず社会科学全般においてなんらかの原理を見極めようとすれば、その事象が起きた歴史的背景を遡って調査しなければならない。つまりは「太平洋戦争の戦争責任を問うならばペリーを連れて来い(石原莞爾)」*2ということだ。


中国産食品が怖いわけ
「のれん」を信用できるものにする原理は複雑なのだが、どうしても不可欠なものにペナルティーの存在がある。「悪徳行為を働いた場合、ペナルティーを受け入れる覚悟があります」=「ペナルティーが怖いから悪徳行為を働きません」という図式だ。
ペナルティーには二種類が存在する。「今後の利益を放棄させる」と「保有している資産を減少させる」である。穏健な事件においてはペナルティーは前者だけで十分だろう。不買運動や営業停止などがこれの代表格だ。しかし過激な事件、再犯者や初犯でも深刻な被害が発生した場合は後者のペナルティーの適用も必要だ。そうでなければ「やったもん勝ち」になってしまう。
後者のペナルティーは損害賠償や罰金が一般的だが、(未必の故意を含む)悪意には身体的処罰(保有資産には当人の身体も含まれる)を課す必要がある。そうでなければ「大金持ちは多少の犯罪が許される」という拝金主義になってしまうからだ。これも一種の「やったもん勝ち」だ。最悪には死刑を含む身体刑(懲役は身体の自由を奪うという意味で身体刑である)を用意しなければならないのだ。
しかし中国の生産者には悪徳に対する司法ペナルティーを期待できない。中国の司法当局は「のれん」を生成するだけの真剣さを欠いているからだ。毒ギョーザ事件では犯罪の隠蔽をしているとしか思えない。このようなペナルティーの及ばない生産者の商品を消費者は信じることができない。経済学的合理性からすればこの事件を奇貨として、中国司法当局の「のれん」を作り上げるべきだったのだ。
なぜ中国政府は「のれん」を重視できないのか。それは彼らが「『のれん』が重要である」という経済学を理解していないからだ。先述したが、経済学は当事者の全員が理解していなければ効果的にはならない。消費者だけでなく生産者も経済学を理解してようやく社会は次の新しい倫理を身につけることができるのだ。
しかし中国は正しい経済学*3を正しいと認めることはできない。もしも「『のれん』という市場を理解するための経済学」が正しいと認めてしまえば社会主義経済学という今ではとうてい科学と認めようのない経済学が正しくないということをも認めなければならなくなってしまうからだ。


ようやく本題
元記事は経済学の専門家ではないわりにまあまあよく書けている。「のれん」が付加価値となり価格に転嫁できることを見抜いているあたりがよい。しかしいくつかの部分で解説停止の罠と「ゲーム理論による常識の再構築」についていけていない。
このプレミアム常識化の根本には「ボるのは商道徳上よくない」という倫理が変化したこと、そして倫理が変化したのは消費者単独の意識変化によるものではなく流通環境が変化したことによる不可避的なものであるということの二つの原因がある。
ついついこういった問題では「生産者が不道徳になったけど優しい消費者様が許してあげたよ」という耳障りのよい(つまり読者が共感したくなる)論理が語られる。そういった解説を読めば、こういった元記事を書くための基礎知識となるのだろう。しかし経済学は取引の学問であり、取引の主体は生産者であろうと消費者であろうと対等なのだ。


>消費者はようやく「安くていいもの」は稀有だということに気付いた
「耳障りのよい論理」に惑わされている部分を一点だけ指摘しておこう。
この文章は「消費者はようやく『いいものを安く売れ』と生産者に強要できなくなっていることに気がついた」と書くべきだったのだ。


本題終了
なんと最後の一段落だけが本題でした。しかしここだけをコメントするとあまりにも不親切で理解不可能なものになってしまうので長々と前説を書いてしまいました。
ついでなので、もう一点、多くの経済学の解説で抜け落ちている「耳障りの悪い論理」を紹介しておきましょう。それは「社会科学の根本には暴力という解決方法がパワーソースとして用いられている」です。どのような人間関係も(それが他人同士であれば特に)暴力という交渉のための潜在的なパワーが必要だということを忘れてはなりません。しかしこれはものすごく耳障りが悪いので、多くの経済学者はその解説をスルーしてしまいます。そしてそういった教育を受けた新しい経済学者の多くは「暴力というパワーソース」の存在すら意識しなくなっています。
しかしゲーム理論的には「暴力の存在を否定することが暴力を誘発する」となってしまいます。現実の暴力を誘発しないために我々は潜在的な暴力を肯定しなければならないのです。


フラクタルな世界
なお、今回の解説ではまあまあ大事な部分の解説を「面倒だから」という理由で省いています。それは「商品調達範囲拡大の過程として国家的独占企業が誕生し、彼らが独占価格でもって不当な利益を得た」というものです。
その国家的独占企業を打倒する過程でまだ命脈を保っていた「ボるのは商道徳上よくない」という倫理が重要な役割を演じています。そしてその功績によってその倫理はもう少しの間長生きすることになりました。また国家的独占企業が不道徳だったことへの反発で「倫理的な社会を作るためには社会主義でなければならない」*4という思想が芽生えたりもしています。
国家的独占企業を本当に倒したのは第二次世界大戦終了後のアメリカ主導の自由貿易体制です。第二次大戦前のブロック経済では逆に国家的独占企業が国家のために必要であるという状況がありました。しかしブロック経済体制が戦争を誘発するために自由貿易体制が設立され、そこでは国家的独占企業は悪であると認定されたのです。
こういった複雑な状況を解説するのはかなりの文字数を必要とするので省きました。あまり複雑な論理展開をすると逆に分かりにくくなってしまうのです。また要素を増やしてしまうと「本質を単純化し理論を構築する」という科学の基本を踏み外してしまうのです。

*1:何度も言ってるが、経済学は基本的に正義を論じない。

*2:東京裁判の検事が「日本の戦争責任は、日清・日露戦争までさかのぼる」と言ったのに対してつっこみとして発言したらしい。石原本人は「開戦当時の日米双方の政府に責任がある」くらいに考えていたっぽい。満州事変を起こした石原に責任があるんじゃないかとも言えなくもないのだが。

*3:正しい経済学などは未来永劫存在しないのだが、せめて旧来の経済学よりかは正しいという意味で「正しい経済学」と表現している。

*4:この思想の恐ろしいところは「倫理に合わせた社会を作ろう」となっているところだ。本当は「社会に合わせた倫理が発生する」なのに。「社会と倫理は適合している」という現在だけを見るとどちらもあっているように見えるが、歴史的な視点を持てば前者が間違っていることは明らかだ。