与太理論駆逐共同体

インターネットの世界で、特に匿名掲示板において与太理論駆逐共同体とでも呼ぶべきものが発生している。「ネット左翼」から彼らは「ネット右翼」とレッテル貼りされて非難されているが、「左翼から見たら垂直尾翼も右翼に見える」という状態である(もちろん本物の右翼もいる)。彼らは主に左翼勢力の与太理論を論破する傾向にあるので「右翼」呼ばわりされてしまうのだ。左翼が論破の対象になりやすいのは、左翼が自分自身を「科学的」だと称するからだろう。それに対して右翼は「気持ちで分かれ!」と思考停止するから、論破しようにも議論にならないのだ*1


与太理論共同体の発達
もちろんこの与太理論駆逐共同体は有史以前から存在しており、IT、インターネットの専売特許ではない。昔は社会の規模が小さかったため、インターネットなどの低コスト通信環境がなくても与太理論駆逐共同体は結成が可能だった。社会規模が大きくなっても、その社会における教育レベルが低かった時代は、結局のところ与太理論を発信したり駆逐したりすることのできる人間の数は少なかったために与太理論駆逐共同体は何とか機能しえた。この時代においては与太理論の発信に大きなコストがかかっていたため、多くの与太理論は局所的な成功しか収められなかった。教会などの巨大な成功を収めた与太理論発信者もあったが、その成功を支えるために膨大なコストと幸運が要求された。
しかし教育レベルが上がり、与太理論を作成・発信する人間が増えた19・20世紀は与太理論の天国だった。それまでの時代と違い、与太理論を受信する人間もそれなりに教育レベルが高かったため、与太理論の発信・受信コストは小さくてすんだ。そのため与太理論発信者は小さなコストで大量の人間に自分の都合のいい行動をとらせることに成功し、それに伴って与太理論発信市場へと多くの香具師が殺到した。
これらの与太理論のうちのいくつかは国家の行動さえも左右するものだった。多くの国家が今日的な視点から見ると説明がつかないような理由で行動し、そのうちのいくつかは戦争にまで発展した。
20世紀前半に世界大戦という非常に巨大な信用醸成コストを支払ったおかげで、その後は戦争まで発展するような与太理論に政府要人が汚染されることは稀になった。しかし民衆レベルでは与太理論はますます盛んになり、政治的な与太理論に汚染された人々は政府を非難することが正義だと信じるようになった。その意識の齟齬からさらに新しい与太理論が生まれた。「知識人はすべからく政府を非難するべきだ」という理論であり、「政府を非難することが知識人の証明」であり「政府を非難しない人間は馬鹿と買収された人間だけだ」となった。
20世紀後半に世界大戦が勃発しなかった理由はいくつかある。「戦争は非常に損失が大きいという常識は駆逐されなかった」「核兵器による相互確証破壊」「プロパガンダ戦で勝利を得たソ連だが実際の戦争ができるほどの国力がなかった」「経済発展に忙しかった」このうちの一つでも条件が達成されなかったら世界大戦が勃発していた可能性はあった。二つならばほぼ確実だろう。実際、いくつかの小国ではこれらの条件を達成できずに戦争へと突入した。
これらの条件のうち「経済発展に忙しかった」というのはこの論にとって重要なポイントである。この時期に経済が発展したのは科学技術の長足の進歩によるものだった。新しい科学は世界の多くの事象を解き明かし、これまでの運任せの技術から頭脳に頼る技術へと産業を進展させた。
「運任せの技術」の時代、人々は技術を事前に評価することができなかった。実際に作って動かしてみなければ、その技術が機能するかしないかが分からなかった。そしてそれは与太科学技術の淘汰ができなかったことを意味する。偶然にすばらしい技術が開発されても、与太科学技術の洪水に押されて市場に浸透することは難しかった。


与太理論駆逐共同体の発達
しかし与太科学技術の事前淘汰を行えるほどに科学が発達すると、世界は「頭脳に頼る科学技術」に傾斜していった。当然だ。なにも好き好んで失敗すると分かっている技術を採用する必要はない。失敗したら倒産が待っているだけだし、成功する技術を開発すれば理解者が現れて市場に投入することができた。与太科学技術を主張する人間がいなくなったわけではないが、技術の需要側が金銭という尺度でもって彼らを駆逐していった。
しかし与太社会科学はなかなか駆逐されなかった。社会科学の価値を判定するための尺度が金銭のように共通の価値観ではないことが一番の原因だ。与太社会科学論者は自分自身の価値を量る与太価値観をも併せて主張しており、それに汚染された人々は与太社会科学を支持し続けた。しかし与太価値観は所詮与太であり、人々はその価値観に時々は違和感を感じることもあった。
しかし与太社会科学の駆逐には勇気が必要だった。勇気。そう、与太社会科学の駆逐には勇気が必要だった。与太理論共同体は与太理論駆逐論者を倫理的に非難し、時には暴力でもって反対意見を排除することもあったからだ。勇気は東欧社会主義諸国の崩壊によってもたらされた。それらの国々の国民は命を賭けて国家が流布する与太社会科学に抵抗し、打ち倒した。彼らの勇気は我々の勇気になった。我々は精神の自由を求めて与太社会科学論者を駆逐しなければならない。
与太社会科学の駆逐には自然科学で与太理論を駆逐した経験が活かされた。批判を甘んじる態度、追試験の必要性、技術を評価する価値観をぶらさないこと、論理の構築の方法。実効的な与太理論駆逐共同体が参入に当たって比較的高度な科学知識を要求するネット社会で結成されたのは必然だった。


匿名は卑怯か
卑怯か卑怯でないかと聞かれたら卑怯だと答えなければならないのかもしれない。しかしこのような正論こそが与太理論の論法である。卑怯かどうかなどの倫理は絶対条件にしてはいけない。
匿名性とは与太理論駆逐共同体の構成員であることのコストと、構成員として共同体のために行動するコストの低減に大きく寄与している。これらの個人的なコストを小さなものにすることにより、株式会社的共同体の構成員は共同体の利益のために行動することができるようになる。
与太理論駆逐共同体の構成員であることには大きなリスクが伴うことを知っておかなければならない。言論の自由を唱えただけで秘密警察に暗殺されるような国は現在の地球上に多く存在する。日本でもこれらの人物の生命を害したいと考える人間は少なくない。ここまでの極端な話でなくても、例えば企業などの不祥事の内部告発者は匿名でありたいと思うだろうし、愚鈍な上司の批判を堂々と行えない人間は卑怯者でもなんでもない。
しかし一方で匿名性は共同体外部および共同体内部での信用醸成には悪影響を及ぼす。身元を偽装した与太理論発信者が信用できないことと同じように、身元が分からない与太駆逐情報発信者も信用できないからだ。
また匿名の構成員が共同体に貢献したときに、共同体から権威という報酬を受け取ることができないという問題も発生する。もちろんこの権威という報酬が非匿名コストよりも大きいと考える構成員が非匿名を選ぶということは多くの場合可能になっている。
この権威という報酬は両刃の剣である。一方ではこの報酬により構成員の活動が活発化するという利益があるが、もう一方ではこのように配布された権威が与太理論発信の誘引になるというリスクに繋がる。
どのような人間も完璧ではないために与太理論発信者になるリスクを負っている。情報を発信した時点では誠実に作り上げられた理論だったとしても、時がたって科学が進歩するとそれが与太理論でしかなかったと断罪されることがある。しかしその情報の発信者が権威を重要視するのならば、自分の理論は与太理論ではないと擁護する欲望に駆られるだろう。そして自分の理論を与太理論だと論破しようとする人間を排除しようとする、典型的な与太理論発信者の行動をとってしまうかもしれない。


匿名による犯罪行為
言論の自由は公共の福祉に反しない限り基本的人権の一つとして認められている*2。これは匿名でも同じことであるし、外国人にとっても同様に認められている。
公共の福祉に反することにはいくつかの類型が見られるが(僕は法律の専門家でないために抜けが出ることを了解してほしい)、この場で重要になるのは「名誉毀損」「偽計業務妨害」「差別発言」である。基本的には刑法に引っかかるものが当てはまる。差別発言は犯罪とは言い切れないが(「日本人」「男性」といった特定しきれない漠然とした集団については含まれないため)、公の場で発言していいわけがない。
名誉毀損:それが事実であろうがなかろうが相手の名誉を傷つける場合に犯罪要件を構成する。ただし公益目的(政治家の腐敗に関する告発など)や死人に対するものは、事実と信じることが相当である客観的証拠があれば免責される。
偽計業務妨害:虚偽の風説、もしくは偽計を用いて、人の業務を妨害する行為。与太理論発信なども「発信者が虚偽であると信じていると受信者が信じることが相当である客観的証拠」があれば犯罪要件を構成する。
差別発言:どこからが差別でどこからが差別でないかの切り分けが非常に難しい。ある時期には差別だと見なされなかった言動も、その後の時代において差別であると見なされることがある。その逆もある。たいしたことのない発言の一部を切り取って「あの人は差別発言をした」と公言すると、逆にその人物が名誉毀損の犯罪者となることもありうる。特定の単語(「ジャップ」など)を除いて差別発言は文脈で判断されるべきであり、安易な言葉狩りは公共の福祉に反するだろう。
しかし言論に関する犯罪は基本的に親告罪である(犯罪教唆などは親告罪ではない)。親告罪を告訴するためには、被害者が加害者を特定しなければならない。しかし民間人である被害者が匿名の発言者を特定することは非常に困難だ。多くの場合は泣き寝入りするしかないだろう。また差別発言は刑法に引っかからないために、匿名であればより安易に行うことができる。
匿名での発言のコストが低いことは、これらの罪名で告発されるリスクが低いことにも起因している。特に政治的発言は「差別である!」と曲解することも容易だからだ。匿名発言は犯罪の温床であることは確かであるし、そこで実際に行われる犯罪を防止することも罰を与えることも困難なことは確かだ。しかし「匿名発言をする人間はすべて犯罪者だ!」ということもまた名誉毀損行為である。
正直、どこに線を引けばいいのか分からない。メリットもデメリットも同時に存在し、どちらか一方だけを利用することは不可能だからだ。しかし「生きる」ということはすべからくそのようなものだ。人間は生きるにあたって不可避的に罪を犯し、しかし生きることを原則的に禁止するなどはあまりにもばかげている。「メリットが大きい」「いやデメリットが大きい」という価値判断はナンセンスだ。よほどひどい状況にならない限り、社会は清濁を併せ飲まなければならない。
結論として僕の匿名発言に対するスタンスは「匿名発言が言論犯罪の温床になっていることを認める」「匿名発言は公共の福祉のために必要だ」「自分自身は言論犯罪を犯さないように気をつける」「他人の言論犯罪にはよほどひどいものならば文句をつける」といったところだろうか。

*1:右翼も左翼も思想信条の問題だから気持ちで分かるしかない。もちろん中道も気持ちで分かるしかないのだが。

*2:すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする(日本国憲法第13条)。集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する(日本国憲法第21条1)。