ゆずれないものの交渉 その6



今日のまとめ
生理的嫌悪を理由としていては捕鯨をやめさせることができないから、環境保護という大義名分を持ち出した。
大義名分を戦わせている裏でコスト競争も行われた。しかし倫理は金で買えないために双方がコスト度外視の行動をとった。
コスト度外視で相手の倫理を叩きのめしていると世の中がギスギスしすぎて生きにくくなるから、最終的な結果は妥協の産物となるべきだ。


計算された勇気
Cという生理的嫌悪でもって他人の自由を侵害しようという行為は、世界の新しい倫理でもって許されざる行為と認定されることになった。そうは言っても反捕鯨主義者は日本に捕鯨をやめさせたい。その欲望の炎は誰にも(本人にも)消すことはできない。
欲望の炎を胸に抱いたまま倫理に従っておとなしく生きることは選択肢の一つだ。しかし倫理に反しない方法で自分の欲望を満足させることもまた人間の可能性の一つだ。そして一部の反捕鯨主義者はB「捕鯨環境保護の観点からよくない行為だ」という理由でA「捕鯨という経済行為を行いたい」をやめるように迫ることとした。
この訴因の変更は実際の経緯とは違うかもしれない。Cの論者とは別にBの論者がいて、彼らは真剣に環境保護を訴えていたのかもしれない。そこにCの一部が合流しただけかもしれない。どちらにせよ本心はどうでもいい。我々に見極められるのは行動だけだ。
しかし捕鯨問題においてCはBに変化しきれていない。シロナガスクジラに関してはBとして有効なのだが、他の鯨種(特にミンククジラ)ではBとしての説得力を持ちえていない。商業捕鯨モラトリアムを日本が受け入れたときには「もしかしたら他の鯨種も絶滅の危機にあるかもしれない」という論理は説得力を持っていた。そのために日本は絶滅の危機にあるかどうか調査する期間のモラトリアム(一時停止)を受け入れた。そして調査の結果、ミンククジラは明らかに捕鯨可能な資源量があることが証明された。
この調査結果を受けて捕鯨反対国家が捕鯨賛成に態度を変化させていれば、その勇気は賞賛されたであろう。そう、勇気だ。CでありながらもAを認めること、思想信条に反する他者の自由を認めることはとても苦しくそれゆえに気高い倫理なのだ。
世界はそのように動かなかった。捕鯨反対国は「捕鯨なんてどうでもいいや」と無関心な国に資金を提供し、捕鯨反対国の一つとしてIWC(国際捕鯨委員会)に参加させた。それに対抗して日本も関係のない国に資金を投入して捕鯨賛成国としてIWCに参加させた。両者の競争はエスカレートし、内陸国捕鯨反対国:スイス・ルクセンブルク捕鯨賛成国:モンゴル)までが参加するという喜劇が発生している。
問題の過熱は捕鯨反対国に有利な事態だった。日本は経済行為として捕鯨を行いたいのだが、IWCの票集めに資金が必要だとしたらたとえIWCで勝ったとしても赤字になってしまう。捕鯨反対国も純粋な持ち出しなのだが、彼らにとってCが大きなものだったとしたら割に合う。このチキンレースでは日本がチキンになるポイントが確実に存在するのだ。


チキチキバンバン*1
捕鯨反対国は誤算していた。日本は赤字になってもチキンレースから降りなかったのだ。
日本は資源を持たない小さな島国である。この小さな国土には過大なほどの人口を抱え、人々は世界最高水準の裕福な生活を営んでいる。この裕福な生活を維持するためには絶対に世界が公正なルールに基く自由貿易体制になければならない。貿易ができなければ日本は破滅する*2
もしも日本がCという理由でAを禁じられたとしたら、その世界はもはや日本が生きていける公正な世界ではなくなってしまう。たかが捕鯨という小さな問題ではないのだ。Aが禁じられるのならば、A’もA”も理不尽な理由によって禁じられてしまうだろう。このチキンレースには生理的嫌悪どころではない自分自身の生命が賭けられている。日本は何があってもチキンになるわけにいかないのだ。
逆に反捕鯨がBという公正な理由を伴っていたら日本は喜んでレースから降りただろう。ここでAにこだわって公正なルールの支配する世界を放棄すれば、そのときに日本は破滅する*3
日本がチキンレースから絶対に降りないことに気づいた反捕鯨主義者は動揺した。日本を説得する論理も持たず、数の暴力で日本を屈服させることもできないのであれば、残る手段は二つしかない。捕鯨を認めるか本物の暴力で日本を屈服させるかだ。


造反有理
シーシェパード(以下SSと略す)の捕鯨抗議活動がテロであることは論を待たないであろう。あの程度の暴力で日本が屈服するだろうと妄想してしまうことはとても不思議な*4のだが、とにかく彼らにはテロしか手段が残されていなかった。
もちろん21世紀の日本はテロに屈さない。この程度のテロに屈したりしたら内閣は確実に崩壊する。そして国際社会もテロに共感しない。SSテロ以降、IWCの雰囲気は大きく変化した。理不尽な理由で捕鯨を禁止しようとすることはテロリストと同類だと見なされることに気づいたのだ。
今後数年(少なくとも10年以内)で商業捕鯨は復活することになるだろう。しかし全面的な解禁ともならないだろう。漁獲量や漁獲水域は科学的に問題ないとされるレベルと比べると大幅に小さいものとなるだろう。
この漁獲制限は理不尽に感じられるかもしれないが、完全な理不尽というものでもない。まず最初に「科学的に問題ない」とされる「科学」が完璧に信じられるものではないからだ。相手は野生動物であり、恐ろしいほど広大な面積の大洋に点在しているからだ。どうしても現在の調査結果だけでは「臆病で慎重な資源管理」の壁を大きく乗り越えるわけにいかない。相当量のマージンを「科学的に問題ないレベル」からさっぴかなければならない。しかしこの理由は明らかにBの正当性を持っているために日本は積極的に受け入れるだろう。
次の、そして本当の理由はもう少し理不尽なものだ。それは「相手の生理的嫌悪に配慮して漁獲制限を行う」というものだ。「一頭たりとも鯨を殺させたくない」と願う人々からすれば一頭でも捕鯨が行われたとすればそれは許せない出来事だろう。日本はそこまでの理不尽な譲歩はできないが「殺される鯨の数を減らすことに成功した」という小さな満足感を与える程度の譲歩は行える。
ある人にとっての生理的嫌悪は別の人にとっては理不尽なものであることが多い。そして「理不尽がイヤ」と感じることは、生理的嫌悪と区別することができない欲望というものから発生している。極言すれば生理的嫌悪に対して生理的嫌悪を感じているのだ。
このような人間の欲望の本質を考えると、他人の生理的嫌悪を完膚なきまでに弾圧することは不正義となる。生理的嫌悪を完膚なきまでに弾圧された人にとって残された手段はテロしかない。「多数の人間が殺しあわずになんとかやっていく社会」を作るために考案された倫理「BでなければAを弾圧できない」が逆に暴力を誘発している。その破局を防止するためには「よほど酷いCでない限り、ある程度Cに配慮してAを制限する」という倫理が必要になる。人類は互いに妥協をしなければならないのだ。

*1:本当はチティチティバンバン(Chitty chitty bang bang)らしい。

*2:ブロック経済体制によって破滅しかけた日本が太平洋戦争へと向かった歴史を忘れてはならない。

*3:中国大陸の利権にこだわって英米ブロック経済から排除された歴史も忘れてはならない。

*4:福田康夫現首相の父親の福田赳夫元首相はその在任時に日本赤軍のハイジャックテロに屈している。