ゆずれないものの交渉 その5

今日のまとめ
ようやく本題(ケーススタディー)のとっかかり。
基本的に誰もが自分のやりたいことをする自由を持っている。でも他人の自由はキモチワルイから制限したい。制限するためには正当な理由(正義)が必要だ。
正義は時代によって変化してきた。この変化は民主主義の進展と原動力を共有している。
現代の正義の根本には「公共の福祉」があるが、これの測定方法は単純な積分方式ではダメである。


本題は遅れてやってくる
ここまで長々と(経済学者にとって)自明のことを書いてきたのは二つの国際問題について倫理的な是非を論じたかったためだ。捕鯨問題とイラク問題である。どちらも倫理という相容れない論点でもって複数の国家が互いを非難しあっている。
まずは簡単なほうである捕鯨問題から始めよう。
最初に捕鯨問題の現状を述べておこう。ただしここで僕が述べる内容はもしかしたら事実と反するかもしれない。僕は捕鯨問題というケーススタディでもって倫理というものの経済学的解明を行いたいのであるから、もしも前提条件自体が間違っていてもかまわないと考えている。この文章を読んだ人もここに書かれていることでもって捕鯨の是非を断じないでほしい(イラク問題も同様)。どのような場面においてどのような倫理が他人に強要できるのだろうかということだけを読み取ってほしい。


地球は人類のモノだ
捕鯨の問題はたった3つの論点に集約される。
A.捕鯨という経済行為を行いたい。
B.捕鯨環境保護*1の観点からよくない行為だ。
C.捕鯨に生理的嫌悪を感じる。
Aは至極まっとうな欲求である。食料目的であるかどうかは本質ではない。自然環境から資源を収穫して経済活動に利用することは人類にとって普通の行為だ。「自然からの資源収穫」を禁じられたら人間は生きていくことができなくなる。
Bは少し複雑な評価を必要とする。現在の科学レベルではどうしても資源管理の基準を「慎重で臆病」なものにしなければならない。しかしどの程度「慎重で臆病」であるべきかが難しい問題なのだ。現在のところ「慎重で臆病」の最低基準は「種の保護」であろう。しかしある種を積極的に保護した結果、その種に関係している他の種が絶滅したり、逆に大量発生して困ったことになったりする。「なにがどうなるかよく分からない」から「地球環境がとりあえずこのままであってほしい」と「慎重で臆病」にならざるをえない。つまりは「Aをされると困る(かもしれない)」という経済的欲求の表れだ。
Cはどうしようもない。どのように「どうしようもない」のかと言うと「そんなこと言われてもどうしようもない」し「その気持ちを持つなと言われてもどうしようもない」のだ。しかし経済学は欲求を扱う学問であり、「欲求に貴賎はない」というのが原理原則だ。だからCもまた経済的欲求の表れなのだ。


正義の変遷
論点を経済学的用語に翻訳してみよう。
A.経済的欲求
B.Aが一般的に共有される価値観に基く経済的欲求に反しているとの主張
C.Aが一般的ではない個人的な価値観に基く経済的欲求に反しているとの主張
実はAが一般的に共有される価値観に基いたものであるかどうかは重要な問題ではない。A「2次元の女の子しか愛せない*2」B「少子化になるぞ」C「キモチワルイ」でもいい。何度も言うが「欲求に貴賎はない」のだ。
2次元の例で言うとBを主張する人より、Cを主張する人のほうが数は多いのではないかと思う。しかしBの理由によって損害を被る人数はCのそれよりも多い。言い換えればBの理由に共感する人はCの理由に共感する人よりも数が多いとなる。つまりはBには大義名分があってCにはそれがない。
昔は倫理が弱かったからBとCの区別はなかった。「困る」も「キモチワルイ」も同じだった。「困ったA」も「キモチワルイA」も力ずくで抑え込めばよかった。逆にBCの文句も力ずくで抑え込んでAを貫いてもいい。力が正義だったのだ。
しかし時代が進み、個人の力が強くなると民主主義が到来した。Aがある程度多くの人数から要求された場合、それを抑え込む側がBであるかCであるかが重要な問題となってきた。BならばAよりも人数が多いから勝利者になれたし、CならばAより人数が少ないために敗者となった。もちろんCがAよりも多数派だったならば勝利者になれる。数が正義となったのだ。
さらに時代が進むと個人の力がさらに強くなり、個人主義が到来*3した。ある個人を弾圧すると、その個人は複数の弾圧者に報復することができるようになった。油断しているところを狙えば簡単なことだ。そのためによほど人数が多いとき、つまりBでしかAを抑え込むことができなくなった。大義名分が正義の時代だ。
世界はさらに前に進む。今まではAがある程度多数であるか、Cをやり込めるだけの大義名分を持っていなければ勝者となれなかった。極端な少数派は弾圧されていたのだ。そして世の中の多くの欲求はその極端な少数派でしかない。欲求はバラエティーに富んでおり、一つ一つの欲求はそれぞれ少数に支持者しか持つことはできない。ある少数派のAに対してCがある程度多数であったならば、CはBを僭称して弾圧することができた。A’に対してはC’が、A”に対してはC”が弾圧した。
AはA’に共闘を求めた。それでも数が足りなければA”にも共闘を求めればいい。いや、逆だ。A’がA”が積極的にAに協力を申し出たと見るべきだろう。CがAをわけの分からない理由で弾圧するのを許されるならば、C’やC”が自分たちをわけの分からない理由で弾圧することも許されることになる。わけの分からない理由で他人を弾圧する連中を許してはならない。AたちはBとなりCたちを弾圧し始めた。
「他人の自由を侵害するためには正当な理由がなければならない」
いまや正義しか正義になれない時代なのだ。


僕は時々嘘をつく正直者です
捕鯨問題におけるC「捕鯨に生理的嫌悪を感じる」はA「捕鯨という経済行為を行いたい」を弾圧する正義を有していないのは明らかだ。もしこれが許されるのであればC’「自分に近い毛の生えたホ乳類を食うなんて気持ち悪くないですか?」もC”「有色人種の社会進出に生理的嫌悪を感じる」も弾圧の正当な理由となってしまう。
もう少し正確にCを表現しよう。「『捕鯨に生理的嫌悪を感じる』という理由で捕鯨活動を非難してかまわない」という思想が許されないのだ。これははっきり言って思想の弾圧だ。思想信条の自由を侵している。しかし倫理というものは思想信条の自由とはどこかで矛盾してしまうものである。思想信条の自由という倫理も例外ではない。「『思想信条の自由は守るべきではない』という思想信条を持つことは自由である」は「クレタ人はうそつきだ」と同じ論理矛盾に陥る。
思想信条の自由は絶対に守られなければならないものではなく、尊重されなければならないものなのだ。つまり場合によっては思想信条の自由に優先されるものがあるのだ。その代表は「公共の福祉」だ。「思想信条の自由は守るべきではない」という思想は公共の福祉に反するから否定される。
だからといって公共の福祉が最優先されるべき価値だと言うわけではない。それでは全体主義になってしまう。思想信条の自由・自己決定権・人間としての尊厳・生命・公共の福祉。多くの尊重しなければならない価値がある。それらの一つが他の一つを大きく侵害するならば、それは多少の制限を受けなければならない。我々は一神教の価値観ではもはや文明を維持できなくなっているのだ。
ある種の思想信条は弾圧されるべきなのだが、その思想信条を持っているという理由だけでは弾圧できない。人の心の中にあるものはその存在を証明できないからだ。たとえ本人が「俺はそう思っているんだ!」と言ったところで、「俺はそんなこと思っていない」と同様にその言葉が本人の思想を証明できるわけではない。そのために弾圧のための証拠は実際の行動のみに限定される。
「『捕鯨に生理的嫌悪を感じる』という理由で捕鯨活動を非難してかまわない」という思想を持っていても弾圧はされないが、実際に非難をしたり妨害活動をしたりすれば弾圧の対象となる。思想を表明したときも、「思想の表明」という行動が弾圧の対象となる。思想を心の中に有しているだけでは裁かれてはならない。逆に本当はその思想を持っていなくても、非難をしたり妨害活動をすれば弾圧の対象となる。人はその行動のみによって裁かれるべきなのだ。


アイムシリアス(I'm serious)
Bの理由はAの行動を規制できるほどに正当なものであるか。Bが正当であるかが問題なのではない。Aよりもはるかに重大な問題でなければAを規制する正当性を持ち得ない。少しでも他人の権利を侵害してはいけないのだとしたら我々の誰一人として生きていること自体を許されなくなってしまうからだ。
「重大」の定義も必要だ。単純に被害の量で計算してはならない。もちろん被害の総量は重要なのだが、そこに算入するべきかどうかの閾値は設けられなければならない。
例えば騒音被害だ。自動車は少なからず騒音を出している。騒音はなければないに越したことはない。つまり騒音は人々に迷惑をかけている。そして自動車は日本中の道路を走り回っている。自動車の騒音被害の総量は莫大なものになる。この被害を自動車会社は弁償しなければならないのか。
高速道路や渋滞交差点の周辺住民にとっては騒音の被害は見過ごすことのできない量になっているだろう。彼らは何らかの方法で救済されるべきだ。しかし自動車の音を少しでも聞いたことのある人間のすべてに弁償することはナンセンスだ。受忍限度以下の被害は被害総量に算入されるべきではない。
逆に被害総量が小さくてもその被害が一部の人に集中しておりしかもその被害が回避困難だった場合、それは重大な被害と見なされるべきだ。足が不自由な人が鉄道の駅を利用する場面を考えてみよう。車椅子や松葉杖では階段を利用することが極端に困難なため、エレベーターを設置しなければならない。そのエレベーターを設置するために階段の幅を狭くしなければならないかもしれない。健常者は狭くなった階段で渋滞を引き起こし、その苦痛の総量は少数の車椅子利用者のエレベーターがないときの苦痛の総量よりも大きいかもしれない。それでも少数に深刻な損失を押し付けてはならないのだ。*4
Aの弾圧は自由の剥奪という意味も含めてAにとって深刻な被害である。その被害を許容できるだけの大義名分がBになければ、つまりはBの被害のほうがより重大なものでなければ、BはBでなくCに分類されるものとなってしまう。
「種が絶滅する恐れがある」はあきらかにBの要件を満たしている。被害総量は小さい。もともと個体数が少ないところからゼロになるだけのことだ。しかし深刻な被害であるために重大な損失であると言える。
「ホエールウォッチングに悪影響を与える」は検討に値するBだ。鯨の個体数が半分に減ったとしたら、もともと空振りになる可能性のあるホエールウォッチングの成功率が大きく下がることだろう。観光客も観光業者も大きな被害を受けるかもしれない。しかし捕鯨全面禁止の理由にはできない。鯨が百頭減ったところでホエールウォッチングの成功率はほとんど変化しないからだ。つまり観光業者の損失は閾値に達しておらず、Bたるための被害総量から棄却されるからだ。観光目的のBはAに対して「漁獲量や漁獲水域の制限を求める」程度の弾圧しかできないだろう。

*1:環境保護という言葉は正確でない用語だと思う。「慎重で臆病な資源管理」(こちらのコメント参照)と表現するべきだと考えている。

*2:共感する人はけっこう多いらしいが一般的ではない。

*3:「個人を尊重する」という概念の到来は民主主義よりも遅かった。

*4:最大多数の最大幸福という命題はこの論理で否定される。