強制できることとできないこと

軍事力の実在について疑問を持ったことがある。
最初の疑問は僕が中学生のときだった。当時は米ソ冷戦の真っ最中で、100メガトンの水爆を搭載した何千発もの大陸間弾道弾の発射準備が整っていた。人類を何回も絶滅できるだけの破壊力を持っていると言われていて*1、確実に日本は核ミサイルの目標だった。僕は夜も眠れないほどに怖かった。
同時に大きな疑問を抱いた。それだけの核戦力を持ったアメリカとその支配下に置かれているべき日本がなぜ貿易戦争を起こしているのだろうか。日本の産業が一方的に負けているのならば話は分かる。しかし現実は日本の自動車や電化製品が暴風雨のようにアメリカ市場を席巻して、アメリカがそれに大きな不満を持っているというのだ。
なぜアメリカは核ミサイルで、原子力空母で、在日米軍海兵隊で日本に言うことを聞かせようとしないのだろう。アメリカが本気になれば日本の産業など意のままに動かせるはずではないのか。40年前にやったのと同じように日本を焼け野原にしてしまえば、日本の輸出攻勢など一瞬で終わるはずなのに。中学生の僕はソ連の核ミサイルと同様にアメリカの核ミサイルも恐れていた。
しかしソ連はその圧倒的な武力と圧倒的な非人道性をもってしても日本をその支配下に置くことはできなかったし、アメリカも武力行使などは一切行わず、それなりに紳士的に日本と話し合いを続けていた。僕は思った。世界は核ミサイル程度の力では意のままに動かすことはできないのだと。
次に疑問を持ったのは「阿片戦争」(陳舜臣著)を読んだときだった。その本の中で数億の人口を擁する清国は地球の裏側からたった数千人の兵隊を送り込んだイギリスに蹂躙されていた。阿片戦争の開戦は1839年なのでナポレオンの少し後の時代だ。戦車や飛行機どころか自動車さえ持っていない軍隊がたった数千人であの巨大な中国大陸を屈服させたのだ。
戦艦などの船が16隻で陸戦隊が四千人。総兵力は一万人に達していない。本当にたった数千人なのだ。この数千人で約四億人の人口の国家を、数万倍以上の人間を屈服させたわけだ。正直、なぜこんな少人数でイギリスが勝つのかまったく理解できなかった。しかしこれは史実であり、清国は大幅な開国を余儀なくされ、アヘンの輸入を禁止することができなくなっている。つまり軍隊は力を持っているのだ。
なぜ核兵器は相手を屈服させることができず、陸戦隊は相手を意のままに操ることができるのだろうか。この疑問の答えは歴史の中にあるはずだ。
戦争に関する書物の大部分は兵隊が殺される話と民間人が殺される話である。この大砲はどれだけの破壊力を持ち、この飛行機はすごい速度で空を飛び、この戦艦を建造するのにどれだけの国家予算が投入されたのか。もしもこれらの書物の通りに戦争の本質が殺し合いにあるのならば、核ミサイルこそが軍事力の正しい帰結となるだろう。しかし現実の世界では、核ミサイルよりも数千人の歩兵のほうがより強い力を発揮している。
戦争の本質はきっと殺し合いではないのだ。
イギリス人は中国人を殺すために阿片戦争を起こしたのではなく、不平等な貿易を押し付けたかったから戦争を起こしたのだ。アメリカ人は日本人と節度ある貿易をしたいと思い、日本人を殺してもその目的は達成できないと知っていたから戦争を起こさなかったのだ。戦争の目的は人を殺すことではなく、人の頭に銃を突きつけて命令をする権利を手に入れるためなのだ。
通常の国家ならば、外国の政府が自国民の頭に銃を突きつけて命令することを阻止しようとするだろう。どうしても銃を突きつけたいと考える敵国政府は軍事力でもってその抵抗を排除しようとする。そこで軍隊同士の戦闘が起きるわけだが、結局のところ、その派手な戦闘シーンは戦争の前座にすぎない。戦争の本当の舞台は人々が頭に銃を突きつけられたときに始まる。
銃を突きつけられた人が命令に従わないのであれば、その銃の引き金を引くこともあるだろう。しかし引き金を引いてしまった時点で、銃を突きつけた目的を達成することはできなくなる。死んだ人間は役に立たないからだ。
何もかも焼き尽くす核爆発も、頭蓋骨を砕く一発の銃弾も等しく役立たずだ。本当に役に立つのは生きている人間と、発射されなかった銃弾だけだ。


結局発射されないのであれば銃弾なんか必要ないのではないか。思考を突き詰めていくと、いつしか軍事力ではない場所に向かい始めた。どうせ銃を突きつけたところで、相手に「死んでもイヤ」な行動をとらせることはできない。できることは「死ぬよりかはマシ」なことだけだ。
よくよく見ると、銃を突きつけたところで相手に行動を強制することはできていない。できているのは「行動か死か」といった取引を提案することだけだ。どちらを選ぶかは銃を突きつけている人間ではなく、突きつけられた人間の自由だ。
どうせ取引にならざるを得ないのならば、銃なんて物騒なものは使わず札束で顔をぺしぺしと叩くほうが話は早いし、大概の場合はそのほうが安くつく。ならば軍事力を鍛えるよりも取引の技術を鍛えるほうが効果は大きいのではないだろうか。
そうやって世界は軍縮の方向へと進むのだが、どうやっても軍隊を全廃することは不可能だ。相手の軍事力がない場合は、札束よりも銃のほうが安い取引を可能にしてしまうからだ。結局、すべてがバランス感覚だという面白みのない話に落ち着いてしまう。
そもそも軍事力が経済学に敗北しているのは「行動をさせる」能力の部分だ。しかし「行動をさせない」能力においては軍事力が優位を持っている。「行動をさせない」の究極系は「生存させない」だ。
「行動をさせない」ことによって強制者は何を得るのか。それは物質財の実効支配を奪うことだ。死んだ人間はもちろんこの強奪に抵抗できない。両手両足を縛られた人間も抵抗できない。逆に強奪したいと考えている人間も軍事力で抵抗されたら、その意図を完遂できない。こういうネガティブな方向でしか力を発揮できないから軍事力は経済学者から嫌われてしまうのだ。
しかし最近いろいろと情報取引の経済学について考察していて、ひとつだけ強制力で達成できる取引を発見した。それは情報を強制的に与えることだ。相手が聞きたいと思っていないことも、首根っこを捕まえて耳元で怒鳴ることで無理やりに聞かせることが可能だ。
「行動か死か」という聞きたくもない取引条件を聞かせることこそが役に立つ強制力なのだ。

*1:当時の核爆弾の爆発力を合計すると、TNT換算で一人当たり75kgの爆薬で殺せると仮定した場合、当時の人類の5倍くらいの人数分の爆発力を持っていたそうだ。しかしこの計算には大きな問題点があった。人間はたった75kg程度の爆弾で殺せないのだ。ベトナム戦争で米軍が投下した爆弾の総量が2百万トンで、北ベトナムの死者合計が百万人だそうだが、そこから類推すると爆弾2トンで一人しか殺せない計算になる。そして北ベトナムの死者のほとんどは地上戦によるもので、空爆で死んだ人間は2桁ないし3桁少ないはずだから、この数字はもっと差が大きくなるはずだ。もしも当時に全面核戦争が起きていたとして人類は絶滅しなかっただろう。ただし日本は重要目標でかつ面積が小さいから絶滅させられていたかもしれないので、中学生の僕の恐怖はまったくの杞憂であったわけでもない。