トリガー直接知財 信用醸成 その5

信用醸成の手順 その1


・信用していないことを理解させ、信用されていないことを確認する
実は自分が相手に信用されていないことが信用を醸成させることに有利に働いている。直感的には逆に信用されていればこそ信じることができるのだと考えてしまうだろう。しかし、ゼロサムゲームで有利だった条件も協力ゲームにおいては不利に働くのだ。正確には有利だろうと不利だろうと、立場が大きく違うとそれが相手の協力しようという態度を損なってしまい、取引の不成立を促すことになる。
互いに信じられないからこそ信じあえる関係が構築でき、それを長続きさせることができる。もしも相手が自分のことを心の底から信じきっていたとしたらどうなるだろうか。まず最初は、自分自身が裏切りの誘惑に耐えられなくなる危険性がある。しかし一度でも本格的に裏切ってしまうとその関係は修復不可能になってしまう。次に自分が実際に裏切らないにしても、相手が自分が裏切ることができるのだということに気づいた場合はどうだろうか。どちらにしても自分を信用させるための論理が用意されておらず、その努力も行っていなかったことが事態を悪化させるだろう。
信用されるということは、裏を返せば期待されることだ。過大に信用されるということは過大に期待されることだ。自分が相手に提供できる以上に期待された場合、自分の意図とは別に相手を裏切る羽目になってしまう。信用醸成とは気持ちの問題だけでなく、互いの能力においても理解しあうことが必要なのだ。
極論すると、むやみに自分を信用する人間を信用してはならないのだ。
そのため信用醸成の最初のステップは互いの互いに対する不信感が適度に存在することを確認することになる。


・社会常識に関しては信用醸成を省略できる
しかし何もかもが信じられないわけではない。相手が実は宇宙警察から送り込まれた金星人じゃないかとか、世界は自分が見ている夢に過ぎず現実なんて存在しないんだとか疑い始めると、もはやまっとうな社会生活が送れなくなってしまう。
互いに最低限の社会常識があることを疑ってしまうと、信用醸成に必要なコストは驚くほど高くなってしまう。たとえば、前世紀に有色人種が白人と同等の社会的能力があるということを疑うこと疑われることから始めなければならなかった人々は、その認識と事実のギャップを克服するために何百万人もの生命と何十億人もの人々の生活上の不利益という信用醸成コストを支払わなければならなかった。二十一世紀に生きる我々が改めてその部分の信用醸成を行うことは、彼らの努力を踏みにじるような行為ではないだろうか。
しかしそれでも相手と自分の社会常識がずれている可能性は常に意識していなければならない。有色人種に対する偏見をいまだに持っている人はいるし、公務員が最高の生き方だと信じている人だっている。あまりにも社会常識が違っている相手との取引は、そこに必要とされる信用醸成コストの大きさを考えると控えておくほうがいいのかもしれない。
だが、最初はある程度基本的な社会常識は同じだろうと考えて信用醸成を始めるのが合理的だ。途中でずれていることに気づけば改めてその部分における信用醸成を行えばよい。
相手のプロフィールと自分のプロフィールを比較することでどれだけの社会常識を共有しているかもある程度は推測できる。日本人同士ならば、男同士ならば、ビジネスマン同士なら、同じ地方の出身者ならば。相手の価値観がどのようなものでどの部分の信用醸成が省略でき、逆にどの部分については念入りな信用醸成を行わなければならないかが推測できる。もちろんこの推測が悪い方向にもいい方向にも間違っている可能性はある。しかし何度も言うように、間違っている部分は改めて信用醸成を行えばいいのだ。
 この社会常識に関する信用醸成の省略は、先述の互いに信用するなという方法論とは矛盾しない。理由なしに相手を信用すること信用されることを求めることと、理由があって互いに与信することは違うからだ。そして信用醸成を省略した場合でも、信用できないと判明した部分に関してはいつでも改めて信用醸成を行うことには感情的な問題は入り込む必要がない。


・裏切りに対するペナルティーを独自に用意する
既に述べているように一般的な法律では、情報取引における裏切り行為に追加的なペナルティーを与えるものが用意されていない。そのために取引の各主体はそれぞれに固有の事情に合わせてペナルティーを用意しなければならない。
そのペナルティーが裏切りの報酬よりも大きければ、プレイヤーは裏切らずに取引成立による通常の利得のほうを選ぶことになるだろう。だが、このペナルティーを不必要に大きく設定することは逆効果になる。ペナルティーを恐れて裏切りを控えることどころか、ペナルティーを恐れて取引自体を控えることを誘発してしまうからだ。取引をするために信用醸成をしているのに、それが取引の阻害要因になることは本末転倒もはなはだしい。
どんなきついペナルティーを用意されようが、裏切らなければいいだけだというのは単なる寝言だ。人間はどのような場合でも失敗する可能性があるし、思惑がすれ違うこともある。さらに無茶なペナルティーを課してくる人間が難癖をつけてペナルティーの回収のほうを目的としてくる可能性もある。
いくら取引や契約は任意であると言っても、社会常識に照らして不公正な条件はつけられるべきでないし、取引の規模にそぐわないペナルティーはきちんと支払われる可能性すら疑わなければならない。