トリガー直接知財 信用醸成 その4

利益こそが信用の鍵だ


何度も言ってることで恐縮なのだが、ドーキンス博士の「利己的な遺伝子」は名著である。今の僕があるのもこの本に出会えたからと言っても過言ではない。そして、この本の中にこの問題に関する一つの答えがある。本来なら本文を引用するべきなのだが、僕はこの本を図書館で借りて読んだだけなので、手元に持っていない。そのためにうろおぼえで趣旨だけを抜き出すことしかできない。


オスとメスの子育てゲーム
爬虫類以降のメスの体内で受精を行う生物の場合、子育ての責任はメスが負わなければならない。オスは交尾終了してメスの受精を確認したならば、そのつがいの関係から逃げ出して別のメスのところへ行くことが肉体的に可能だからだ。そうやって多くのメスを渡り歩くことが自分の遺伝子の複整数を増やすことに繋がる。しかしメスはそうはいかない。交尾から出産もしくは産卵までにどうしてもタイムラグがあり、その時点まで身近に父親であるオスがいるかどうかが確定的ではないからだ。
もちろん出産もしくは産卵時に父親が残っていれば、そこからはオスとメスの子供に対する責任は同等に戻る。しかしメスしかいなければ、メスは自分ひとりで子供を育てるか、子供を放棄して自然淘汰に任せるかを選ばなければならない。オスがいれば協力して子育てを行ったり、オスに子育てを押し付けたりと選択肢を増やすことができる。もちろん親の庇護があったほうが子供が成体まで成長する確率は高まる。しかし子供を育てるためには少なからぬコストがかかり、次の出産産卵を行う余裕がなくなったり、場合によっては親の生命自体をも危険にさらさなければならなくなる。
オスと協力すれば、親一体あたりの負担は減り、子供を成体まで育てられる可能性が高くなり、平行して次の子供を作ることすらできるようになる。オスと子供を捨てて次のオスのところへと走れば、その子供の成長確率はともかく、次の子供を作ることはさらに容易になる。つまり出産時までオスを引き止めることができれば、メスは自分の遺伝子の複製をより大量に次世代に残すことができるのだ。
だからメスは逃げ出さないオスと交尾することを望み、逃げ出しそうなオスと交尾することを拒否するようになる。しかし交尾をしないことには子供は作れず、自分の遺伝子を後世に残すことは不可能になるのだ。
これは人間世界の取引ゲームと同じだ。信用できない相手と取引することは避けたいが、取引をしなければ利益を得ることはできない。信用できないのに信用しなければならないのだ。
もちろん多くをあきらめてとにかく交尾だけしてくれればいいという、「便利なメス」ドクトリンもありうるだろう。誠実なオスという希少種を探すよりも効率がいい場合だってある。しかし誠実なオスと束縛好きなメスが多い種のほうが、種全体の個体数の増加には有効な戦略だ。だからメスは誠実なオスを探す方法を自然淘汰という試行錯誤でもって編み出していくことになる。
メスはオスと出会ってから交尾を実行するまでの時間を長く要求する戦略を編み出した。しかし一度交尾をするとそれ以上オスに要求することはせず、従順なメスに変身する。
この戦略をオスの側から見てみるとどうなるか。オスはいったん交尾が成功したならば、出産産卵育児を全部メスに任せて次のメスのところに行きたいのだが、その次のメスも交尾までに時間がかかる。それならばつがうことに成功したメスのそばに留まり、育児を手伝うことでそのメスの次の出産産卵までのペースを早くしたほうが割に合うのではないか。そのメスの外見や遺伝的能力がいまいち好みでなかったとしても、とにかく次々に自分の子供を産んでくれるという性格の良さは魅力的だ。オスは自分のために積極的に育児を手伝い、メスができるだけ多くの子供を産めるようにと努力することだろう。こうやってオスはまんまとメスの罠にはまり、もともとの性格がどうであろうとも誠実なオスになってしまうのだ。


信用醸成も基本原理はこれと同じだ。性格的に人格的に信用できるかどうかよりも、ゲーム理論的に信用できるかどうかのほうが、より確実なのだ。
特に現代のように不特定多数の相手と取引をしなければならない状況においては、相手の人格や性格を見極める余裕がないことは多いし、できたとしてもコストが不必要に大きい。さらに言うと、相手の人格や性格が自分の目的に合ったものである可能性は低いし、それを自分向けに改造することはさらに難しい。しかし相手が利益を上げられる状況ならば、こちらの意思で演出することが可能なのだ。相手もまた、自分の利益になるのならば他人に踊らされる状況になっていたとしても文句は言わないだろう。どちらにせよ男女の関係と違って取引とは対等対称の関係なのであって、自分が相手に踊らされていると同様に自分も相手を躍らせているのだから不満を感じる必要はない。
ただしこのオスメスの関係ではメスが身ごもった子供を見捨てることはオスにとっても不利益だったのだが、情報取引の場合は既に述べたように裏切りによる損失は機会利益の逸失以外にはない。そのためにより強力な信用醸成が行わなければならない。
またオスメスの関係では、メスがオスを裏切ることは考慮に入れなくてよかったのだが、対等対称の取引においてはどちらもが裏切ることに利益を見出していることも問題である。そのために「便利なメス」戦略を採ろうと思っても、相手は無条件に自分のことを信じてくれることは期待できない。相手が裏切る可能性を減らすことと同時に、自分が裏切らないこともまた相手に信じさせなければならない。
この複雑なゲームはしかし、有史以来すべての人間が経験し、そして多くの技を試行錯誤してきた。やってできないことではないのだ。だが文明の徒である我々はさらにその技を進化させなければならない。そのためには動物たちのように帰納法的に技を磨いてきた方法論だけに頼らず、原理を正しく理解したうえで演繹的に信用醸成の技を磨かなければならない。