コラム 株式会社的共同体

僕のことを「超個人主義者」と見なす人は多い。しかし実際の僕は、人が生きていくためには共同体の存在は絶対に必要だと思っている。ただ共同体の概念に関して、世間一般の常識とは少しずれているだけだ。きっとそれはドーキンス博士の影響だと思う。


ドーキンス博士的共同体
別にドーキンス博士が「共同体はかくあるべきだ」と思想を提唱しているわけではない。単純に生物学的に共同体(コロニー)を分析した結果、共同体にはこのような性質があると発見したに過ぎない。
生物は自分の遺伝子をできるだけ多く後世に残す機能を中心に進化してきた。逆に言うと、その機能を強化した生物だけが淘汰に勝ち抜いて生きてきたということだ。そして自分の遺伝子は、同じ種の別の個体内にも存在している。血縁が近ければ近いほど同じ遺伝子を持っている確率は高い(もちろん自分自身が一番同一性が高い)。ならば同じ種の別の個体を大量に救うことができるのならば、自分自身を犠牲にしてもかまわない。それが自分自身の利益(遺伝子を残すこと)の最大化に繋がる。つまり利己と利他は矛盾しないということだ。
人間のような高等生物にとってはさらに文化も残すべきものになる。正確に言うとこれも、自己複製能力が高い文化が今日まで生き残ってきたのだ。人間にとっては共同体に貢献することが、自分自身の遺伝子と文化の拡大再生産に役立つのだ。ここでも利己と利他は矛盾していない。ただし目的が二つあるために、遺伝子を残すことを優先したなら文化(というか個人的な理念)の継承が困難になったり、逆に遺伝子の継承が困難になったりする。これはトレードオフの関係になる。
これは全体主義的共同体と言うべきかもしれない。個々の構成員が、共同体全体の利害を最重要問題として捉える共同体だ。


・株式会社的共同体
しかし人間はそこまで単純ではない。自分の遺伝子や理念が途絶えたとしても追求しなければならない目的がある場合もある。遺伝子と理念の継承がトレードオフの関係にあったように、個人的目的と継承目的の目標はトレードオフになる場合が多い。ここでドーキンス博士的共同体だけでは人間の共同体を解説できなくなる。
継承できない目的は、他の個体に利益を渡すことでは達成できない。利己と利他が矛盾する瞬間だ。ならばそこで共同体は崩壊するしかないのだろうか。僕はそう考えない。
まず最初に、単純に継承できる目的だけでも十分に結束力のある共同体はなくならない。血縁による家族はなくならない。血縁と文化を共有する民族国家も、国家という形態は別として共同体としては残るだろう。血縁は関係なしに、つまり他民族国家であっても文化だけを継承する共同体も残るだろう。フランスなどは特に文化を中心に継承しようと努力している国家の代表だ。
しかし文化の発達速度が人間の寿命と比べて大幅に短くなった現代社会では、継承できない目的を重要視する圧力に旧来の文化は対抗しきれない。自分自身の幸せを後代に託すよりも、自分自身で達成させるほうが確実性が高くなったからだ。
このように共同体を構成する人間が変わったのならば、共同体もまた変わっていく。もしも共同体内における協同作業がゼロサムゲームだったならば共同体は崩壊の圧力に耐え切れないだろう。しかし誰でも知っていることだが、協同作業はWIN−WIN(協同作業によって両者が得をする)の関係だ。一人きりで生きていくよりも複数の人間で生きていくほうが、個人的な目標を達成させるためには効率的なのだ。ならば共同体を作り、そこに所属するべきだろう。
これは株式会社の形態に非常によく似ている。一人一人の資本や能力では効率が低いため、多くの人間から資本や労働力を集め、協同作業によって生産性を向上させる。そして生み出された生産物は資本や労働力を提供した個人に分配されることになる。


・株式会社的共同体の所有者
少し別視点から共同体を見てみよう。「株式会社の所有者は誰か」という問題だ。
僕は株式会社の所有者は株主以外に存在しないと思っている。労働者は自分自身の労働力の所有者でしかないし、国家や社会は株式会社にサービスを提供する取引相手であり、同時に株主という自然人を所有している主体でしかない。当然、顧客や取引先もその株式会社の関係者ではあるが所有者ではない。株式会社という存在の直接の所有者は株主でしかありえない。
A、Bという二つの株式会社があるとして、AがBの、BがAの100%の株式を所有していたとしたらどうなるだろうか。その会社の所有者が存在しないという奇妙な事態が発生してしまう。これは会計学上は成立しうるが、事実上は誰か自然人が邪悪な目的(多分脱税目的だ)でもってこの奇妙な法人を設立し、実質はその自然人の所有物なのだろう。
実際はこのようなインチキ法人は法律で規制されているために設立不可能だ。しかしこのようなインチキ共同体が理想であるという人は意外に多い。
「他人のために生きることが最高の人生です」と言う人たちだ。このような発言をする人は個人的にはいい人であることが多いが、もしも世界中の人たちがこのように生きていたらどうなるだろうか。皆が他人のために生きて、その目的となった他人もまた別の他人のために生きて、最終的に誰のためにもならない社会となるしかない。そして「最高の人生です」と言うからには、世界中の人々がその理想に染まるべきだと彼らは考えている。
僕は共同体の所有者は、遺伝子や文化ではなく、自然人であるべきだと思っている。そのためには「自分のために生きる」自然人がどうしても必要だ。株式会社の最終的な所有者が自然人でなければならないのと同じことだ。
こんな僕でも「この人のためになら僕の人生のすべてを捧げてもいい」と思う人間がいる。僕が生きているよりも、彼女(偶然女性だっただけで恋愛感情があるわけではない)が生きていることのほうがすばらしいと思うからだ。彼女が彼女自身のために生きていくことが、僕が僕自身のために生きることよりも僕の幸せであると思うのだ。しかし、もしも彼女が彼女自身のために生きないのであれば僕の奉仕はすべて無になってしまうだろう*1。これはつまり僕の潜在的所有者が彼女であるということだ。
そして僕は僕のために生きてくれる人たちのためにも、僕自身のために生きなければならない。このように誰もが自分自身の幸せのために(それがたとえ特定の他人のためにすべてを捧げることであっても)生きることこそが、これからの株式会社的共同体の重要なルールとなることだろう。


・共同体の求心力の低下
このような株式会社的共同体だが、協同して生産する利益が何であるかが重要な問題になる。経済学の基本であるのだが、利益とはもちろんお金のことだけではない。正確に言うと、お金は利益を実現させるための中間媒体でしかない。お金を使って自分の欲望を満たすのだし、もちろんお金を経由しなくてもいい。
例えば僕は友人とともに美術に関っているのだが、この共同体(二人しか構成員がいないが、立派な共同体だ)はすばらしい作品を作るという目的を共有することで成立している。また、多くの営利企業はお金という利益の中間媒体の生産という目的を共有して成立している。これらの共同体は共同体の存続を彼らの主目的には置いていない。もちろん共同体が存在することで主目的を達成することができるのだから、それなりに共同体を存続させるための努力は払っている。しかし主目的を十分に果たしたと共同体の構成員が考えるのならば、共同体は解散してかまわない。
しかし、この共同体を求心する目的が明確である場合は非常に少ない。営利企業も、そこに所属する構成員の全員が共同体にお金の獲得の機能だけを求めているわけではない。企業文化の継承や自己実現など、それぞれがそれぞれの思惑で共同体を利用しようと行動している。これは人間が自分自身を割り切れるものではないから仕方のないことなのだが、この目的の分散は共同体の結束力を大きく損なっている。たとえば企業文化を重視する構成員は、重視しない構成員の存在を疎ましく思い、これを排除しようとするだろう。逆もまたしかりだ。その内部分裂は主目的であるお金の獲得に悪影響を与えるだろう。もっとも大多数の構成員が企業文化の継承を重視しているのならば、これは目的が分散されていない状態だから共同体の結束力を高めることになる。
また共同体の構成員それぞれがその目的の個人的達成を願うために、自己犠牲を伴う利他的行動は旧来の共同体と比べて激減する。一時的な場合は別にして、構成員は自分の目的達成度がプラスにならない限り、共同体の利益のためにコストを投資することはしない。この新しい共同体にはトカゲの尻尾になりたがる構成員は存在しないのだ。これもまた、旧来の共同体と比べて株式会社的共同体の結束力を小さいものにしている。
株式会社的共同体でトカゲの尻尾を切り落とそうとすると、尻尾にされそうになった構成員は強く抵抗する。そして実際に切り落とされた尻尾は逆に本体に噛み付くことになる。さらに残された体全体も、尻尾を切り落とそうとする頭に対して大きな不信感を持つ、つまり共同体に対する信用醸成を低下させることになる。そして尻尾を切ることができなくなった共同体は、雪印不二家のように共同体そのものの解散を余儀なくされることになる。最近の不祥事における企業の責任追及の激化は、世論やマスコミが強くなったのではなく、共同体の免疫能力が低下したと見るのが正しい見方だろう。


・共同体の横方向への多重化
旧来の共同体は垂直方向にしか多重化していなかった。個人を集合した家族、家族を集合した親戚、親戚を集合した村、村を集合した地方、地方を集合した国家。キリスト教文明では国家のさらに上位に教会が置かれたり、東アジアでは中華帝国が国家を束ねたりしていた。上位にある共同体はご主人様であり、ご主人様を守ることが結果的に自分自身の利益であった。しかも最上位に存在するご主人様は基本的に一人だけなので、一つしかない命をそのご主人様に捧げることに問題がなかった。
しかし人々が啓蒙されていくに従って、ご主人様が増えることになった。王権神授説が効力を失うと、人々のご主人様は王様と神様の二つに分かれた。市民革命が起きると、旧王家と人民議会のどちらに忠誠を尽くせばいいか分からなくなった(もっとも、人民議会に忠誠を誓わない人間は断頭台送りになったので、それ以上思い悩む必要はなくなったのだが)。企業が設立されると、最終的には国家が上位の共同体となるのだが、企業と領主という二つのルートが作られることになる。この共同体の多重化によって、人々は容易に自分の生命を共同体に捧げることが困難になった。もし片方の共同体のために自己犠牲を行うと、もう片方の共同体はタダで構成員を失うことになる。もう片方の共同体からすると構成員が他の共同体のために勝手に死んでいくことに我慢がならないのだ。
二つに分かれた共同体の権威がそれぞれ、「俺のためにだけ死ね。他のやつのために死ぬことはまかりならん」と言った結果、人々は共同体のために死ななくていいことを知った。そして権威が二つに増えたということは、それが三つに増えても四つに増えてもかまわないと考えることができるようになった。


・共同体籍の多重化
現在の我々は、どうしても抜け出すことのできない共同体というものがないことを知っている。国籍を変えることができる。所属する企業を変えることなどは簡単なことだ。つきあう友達がいつの間にか変わっていることもある。家族だって、どうしてもと望むのであれば解散することができる。逆に言うと、我々は自分が所属する共同体の構成員であるために、常に理由を必要とするようになったのだ。そして自分が共同体の構成員でいつづけるためには、つねに共同体から必要とされる存在でなければならなくなった。
我々はいまや、自分の所属している複数の共同体のうちのどれかたった一つだけのために命をかけることはできなくなった。それは逆から見ると共同体からの構成員への信用醸成度が低くなったということだ。共同体はいまや、自分の構成員に対して全人格的な奉仕を要求できなくなったし、しなくなった。共同体は人々の「愛されたい」という普通の願望を満たしてくれなくなった。愛以外の何かで結び付けられた共同体、そんな大人の関係に我々は馴染んでいかなければならない。
今はまだほとんどの人にとって、家族の一員でいることに、国民の一人でいることに、その一員として生まれてきたこと以外の資格は要求されていない。しかし遠くない将来において、その基本的な共同体でさえ構成員としての資格を要求するようになっていくのではないだろうか*2。そこまで無償の愛が失われた世界は僕の理想するものではないが、もしも世界がそう変わっていくのであれば僕は変化した世界を受け入れざるをえないだろう。
だがこの愛の少ない世界でも、一つだけ我々は旧世界にないものを手に入れている。それはどこか一つの共同体から破門されたとしても、それは自身の破滅を意味するものではなくなったという安心感だ。同時に複数の共同体に参加することができるため、よほどそれを望むのでなければ孤独に生きて孤独に死ななければならないことはなくなった。旧来の世界では共同体から破門されないために命をかけなければならなかったことと比べると雲泥の差だ。
我々は旧来の世界にあった「考えずに生きていける」自由は失ったかもしれない。しかし「自分のために生きていける」自由を手に入れた。それがどれだけ困難な茨の道であったとしても、失ったものよりも得たもののほうが大きく、そして価値があるものだと僕は信じている。

*1:もっとも彼女は僕の奉仕などなくても十分に幸せに生きているから、別に僕は何もしていないのは秘密だ。

*2:今でも親に捨てられる子供もいれば、子供に捨てられる親もいる。そして国民を捨てる非民主国家も決して少なくはない