お金なんて幻想だよ。効用が取引されてるだけだよ派(新古典派的唯効用論原理主義)

生産性をめぐる賃金水準議論が熱くなっている。
それに触発されて少し斜めから見てみた議論を展開しようと思う。


山形浩生氏の書く「賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ」(文字色・文字サイズ原文ママ)は基本的にはそういう理解で正しい。明らかに相関があるし、因果関係もある。もちろん文字数が少ない分、細かい理論構築はできていないが、それをやり始めると本を一冊書くはめになってしまう。
山形氏に噛み付いている池田氏もほぼ同じことを書いている。同じことを書いているのに「山形はトンデモ学説を流布している」と噛み付いているのがよく分からない。ただし「賃金水準は平均生産性で決まるのではなく産業ごとの限界生産性で決まるのだ」という部分が少し違うくらいだ。
この齟齬の大部分は山形氏の言葉が足りないことと、池田氏がもともと山形氏に対して思うところがあったところから来ているように思える。きっと二人が直接顔を合わせてリアルタイムで議論をすれば誤解は解けるであろう。だが、僕は別に二人の関係がどうであろうと関係ないので、全然別の観点からこの議論に参加したい。


まず最初にこの議論の発端になった話の要約を見てみよう。


要約
第一声(山形氏)
日本人の散髪屋もフィリピン人の散髪屋も生産性は大きく違わないのに、賃金水準は大きく違う。逆に日本人の工場労働者は世界的に見て非常に高い生産性を発揮しているにもかかわらず、日本人の散髪屋と賃金水準は大きく違わない。これは同一経済地域内(ほぼ国家と同義)の平均生産性が各産業の平均賃金に大きな影響を与えているためである。
つっこみ(池田氏
アダムスミス的に見て、賃金は産業の限界生産性から決定される。(注:一般的に平均生産性は限界生産性よりも高い)
再反論(山形氏)
限界生産性はフィリピン人の工員と日本人の工員では同じなのに実際の賃金は違う。賃金水準は社会全体の平均生産性に影響を受けている。



ここまで来たところで、池田氏に関してつっこみどころが二つ出てきた。個々の賃金と全体の賃金水準がごっちゃになっていることと、労働者側の供給曲線を考えないと個々の賃金も算出できないことに気づいてないことだ。
ついでに山形氏にもつっこみを入れておこう。国際的な賃金水準の違いは、国家の全産業の平均生産性から来ているのではなく、為替レートの違いから来ているということだ。で、為替レートは貿易財の需給バランスと国際資本収支によって決定されるために、貿易できない財(散髪など)は為替レートに直接の影響を与えられない。
ただし「国家の中では生産性が大きく違うはずの産業の労働者が、産業ごとの生産性の違いほどには大きくない賃金水準を有していることは、その国家内の平均生産性が大きく影響している」という部分はそう間違っていない。




唯効用論における生産性の比較
しかしここですべての議論をひっくり返してしまおう。僕はフィリピン人の散髪屋も日本人の散髪屋も生産性は同じであり、さらには(その国内で営業するかぎり)賃金水準も同じであるという暴論を主張したい。


唯効用論
まず最初の前提として、僕は新古典派なので経済の本質は効用の取引と消費であり、貨幣はその媒介物に過ぎないと思っている。ドルと円でその価値を比較することはナンセンスだし、同じ円でもそれを使用しようと考えている人によってその価値は違ってくる。
月並みな例ではあるが、大金持ちにとっての一万円と貧乏人にとっての一万円は、そこから得られる効用が違うということだ。いや、同じ人物で同じ金額でも、それを使って得られる効用は変化する。真夏の炎天下で飲む缶ジュースと、待ち合わせの時に手持ち無沙汰を解消するために飲む缶ジュースは同じ120円でも、得られる効用は大きく違う。効用を得るために取引を行うそのときその場にならないと、その貨幣で得られる効用は確定しない。
ならばペソと円でフィリピン人と日本人の散髪屋の賃金水準を比較するのはナンセンスだ。これを比較するためには、彼らが賃金として受け取った貨幣を使用してどれだけの効用を得られるかを比較するべきだ。


労働賃金の決定
話を複雑化させないためにここでは賃金労働者に限って議論を進めたい。企業家や資本家、専業主婦などは含まれない。企業家に労働を提供し、その見返りとして貨幣を要求するという取引に限定する。そして賃金から得られる効用の総量も、賃金の額面上の量と正比例するものだとしておこう。
賃金労働者は、本人の先天的資質と後天的資質に裏打ちされた有限な労働力を、彼が納得する金額で企業家に提供する。この納得する金額というのも厄介だ。労働者はそれが高ければ高いほど嬉しいし、企業家は安ければ安いほどありがたいと感じる。結局は需要と供給が均衡する価格に決定する。
もしも彼が先天的資質に恵まれていたり、後天的資質を形成するために大きな投資を払っていたりするならば、高い価格を要求するだろう。しかしこれは投資を回収するために高い価格をつけることが許されているのではなく、彼のように高い能力を持っている人間は少ない(つまりは供給が少ない)と考えるから高い価格付けをできるのだ。どちらかと言うと逆に、後々高い賃金を要求できると信じるから、後天的資質を高める先行投資を行ったと見ることができる。
しかし本当は彼は賃金がほしいのではなく、賃金という貨幣を使って得られる効用がほしいのだ。その効用とは、暖かい布団で寝たい、おいしいご飯が食べたい、週末には遊びに行きたい、車がほしい、子供を育てたい、人によって微妙には違うが極論すると人生を楽しみたいということだ。その効用のある部分は貨幣を媒介とした取引では得られないものもあるが、逆に貨幣を使用しないと入手困難な効用もあるだろう。賃金はその後者の効用を満たすために要求されるのだ。


消費者に提供する効用
また、同じ財・サービスであっても供給量によって消費者の感じる効用は変化する。毎週散髪屋に行くことは、毎月散髪屋に行くことよりも効用の合計は大きくなるが、決して単純に四倍になるわけではない。ほとんどの場合は四倍よりも小さくなるだろう。毎月散髪に行くことで得られる効用と比べて散髪代が高いと感じるならば、二ヶ月に一度に減らして散髪一回あたりの効用を高めることで散髪代とつりあうようにするのが合理的な消費者のありかただ。
経済が発展している国では、散髪以外の財・サービスも豊富に存在する。そのため、消費者が散髪にまわす賃金の割合は低下することになるだろう。しかし散髪から得られる効用は国によって変化しない。つまりは効用で量った消費者の平均賃金水準は経済が発展している国のほうが高いと言える。だが、散髪屋が散髪できる頭の数は同じだ。ならば散髪屋の賃金は相対的に他の労働者よりも低くなるのだろうか。実際にはほとんど低下しない。散髪屋は散髪屋になる労働者の数を減らして、つまりは散髪というサービスの供給量を減らして価格を吊り上げるという対抗策に出るからだ。


生産性とは
ここで生産性という言葉の定義が崩壊する。散髪屋が消費者に提供するサービスは同じなのに、散髪屋が一回の散髪で得られる貨幣は多くなっている。いや、消費者は多分散髪に行く頻度を減らしているから、一回の散髪で得られる効用は価格に見合って大きくなっているだろう。結局生産性とは、サービスの内容、サービスの対価である貨幣、消費者がサービスから得られる効用、この三つのどれから選べばいいのだろうか。どれも本当だし、どれも的外れだ。日本語的にはサービスの内容だろうし、会計学的にはサービスの対価である貨幣、ミクロ経済学的には消費者が得る効用だ。
ただし、山形氏も池田氏もこの意味で使っていると思うのだが、日本語的に正しい「サービスの内容」は経済学的には正しくない。いや、マルクス経済学のような労働価値説ならば経済学として正しいのだろうが、天動説やスパゲッティモンスターが学問でないように、今日の世界ではマルクス経済学の大部分が学問の範疇には入らない。財もサービスも貨幣も消費者が消費しなければ効用は発生せず、深海に沈んだ大航海時代の金塊と同じく無価値な存在だ。
唯効用論原理主義者の僕としては、最後の「消費者が得る効用」を労働時間で割ったものが労働者の生産性であるとしたい。そうするとフィリピン人の散髪屋よりも日本人の散髪屋のほうが生産性は高いことになる。多分、スーパーファミコンとWiiくらいの違い*1だろう。


賃金水準
しかしもうひとつ議論を崩壊させたい。今、日本人の僕がフィリピンに移民して現地の人間として生活するならば、そこで得られる効用の小ささに絶望することだろう。しかし多分フィリピン人の多くは移民者の僕よりも幸せを感じているはずだ。結局、人の幸せは得られた効用の大小で量るものではなく、ほしいと願った効用の量と得られた効用の量の比較で量るものだからだ。
極論するとフィリピン人も日本人も人生を生きることで得られる幸せの量は同じことになる。そして自分の能力に合わせた職業を選ぶ自由があるため、散髪屋になるのにちょうどいい程度の能力を持った人は、それに合わせた賃金を得ることができ、同じ程度に幸せになる。ただし日本は経済が発達し、散髪屋程度の能力を持った労働力を需要する産業は相対的に多いため、彼らのすべてが散髪屋になるわけではない。でも多分、市場原理により散髪屋と同じ程度の賃金水準であるだろう。
そして同じ能力を持った人が同じ量の幸せを得られるのであれば、それは賃金水準が同じであると言えるのではないだろうか。


つっこみどころ 日本語的な生産性の違い
実際は日本の散髪屋は東南アジアの散髪屋に比べてファッション的なセンスが高いと思う。日本人の髪型のほうが、サラリーマンのおじさん連中も含めて、垢抜けていると僕は感じている。まあ、このへんは価値観の違いかもしれない。でも僕は同じ価格なら日本人向けの髪型にしてくれる散髪屋に行きたい。
また、最近はQBハウスを筆頭に散髪のイノベーションが起きており、散髪屋が一時間で刈れる頭の数は多くなっている。これに押されて、普通の散髪屋でもかなり価格が下がっている。逆に価格が下がらない散髪屋は、ユーザーごとのカルテを作って座るだけで好みの髪型にしてくれるなど顧客満足度を高める努力を払っている。


つっこみどころ やっぱり日本人のほうが幸せ
日本人に生まれたかったと思うフィリピン人のほうがフィリピン人に生まれたかったと思う日本人よりも多いと思う。フィリピン人もまた、日本人のほうが幸せだと思っているからだ。しかしこれは日本という先進国の存在を知っているからそう思うだけであって、もし今のフィリピンがこの状態で世界一の先進国であったならば、フィリピン人はフィリピンに生まれて幸せだったと思うだろう。上を見るときりがないが、横を見ている限りは日本人もフィリピン人も同じように幸せだ。


つっこみどころ 購買力平価と賃金水準
先述したように為替レートは貿易財の需給と国際資本収支によって決定される。そのため貿易できない財(散髪はその典型的な例だ)は為替レートとは別に価格が決定される。それを量るために購買力平価というものがあるのだが、賃金水準はどちらかというと為替レートよりも購買力平価と大きな相関を持っている。だから為替レートで国際賃金水準の比較をしたときに、特に日本のように貿易財の国際競争力が強い国では大きな乖離が発生することになる。この乖離を無視して議論を進めると不毛な争いに終わるしかない。
また、消費者が得る効用には貨幣を媒介して得られるものと貨幣を媒介せずに得られるものがある。貨幣経済が発達していない国では後者の割合が高くなるのだが、そして前者の割合が小さいから必然的に賃金という形の貨幣需要も小さくなる。そういった貨幣に対する条件が違う国同士で購買力平価を比べるのはあまり意味がないのではないかと思う。

*1:フィリピンの年末商戦ではスーパーファミコンのパチモンが売られていたそうだ。それとヨツビシ(!)の扇風機。年末に扇風機売ってるよ。