病院システム近代化計画 その1

前書きとしての科学的態度
タイトルには少々の嫌味を混じらせていますが、僕の目から見ると病院のシステムは前近代的に見えます。しかし断言はできません。僕には医者ではないし、医者の知り合いすらいません。数年ほど仕事で病院相手の営業をしていた経験しかありません。風邪をひいても病院にいきません。町医者にすら行きません。尿管結石で入院したことはありますが、そのときは救急車に乗るはめになったので待合室では待ちませんでした。健康診断には行きますが、予約制なので待ち時間は短いです。だから見当違いのことも書いてしまうでしょう。
でも僕は見当違いのことを書いてしまっても、それほど恥ずかしいこととは思ってません。根本的でない部分の間違いを指摘して「こんなことも知らない奴の話は全部与太話だ!」と鬼の首を取るように嘲笑されたのなら、世界中の誰一人として口を開く資格はなくなってしまうでしょう。
僕は経済学の知識も足りません。アダム・スミスマルクスケインズも日本語訳の著作すら読んだことはありません。「神の見えざる手」や「労働価値説」、「消費性向」の功罪を語らせたら3時間くらいノンストップで話し続ける自信はありますが、博覧強記こそが学問だと言う人にかかったら僕などは聞きかじりを勝手に解釈して得意げに語る小僧(本当はええ年したおっさんですが)に過ぎないでしょう。しかも僕は「3歩先の理論」を語る癖があるために僕の理論を裏付ける他人の学説がないことは多いです。
同じように、僕は半端な知識で理論を語る人を非難しません。その人なりに僕とは違ったものを見て語った言葉が、僕とは違う答えに到達していることは不思議はないからです。それでも、まあ、あまりにあほらしい話は途中で聞くのをやめますけど。例の池田氏でも時々はいいことを言ってると認めることはやぶさかではありません。
僕は医療業界に対して「もう少し効率よくしてもらって保険代が安くなったらいいなあ」程度の思い入れしかありません。僕がここで興味を持っているのは「なぜ前近代的な組織なのか?」「前近代的な組織が近代化するためにどういうプロセスが考えられるだろう?」という経済学的な部分でしかありません。そのケーススタディーの題材として医療業界があるだけです。


近代の前に前近代があった
「病院システムは前近代的だ」こんな台詞を言うといろんな人から怒られる。自分の属している共同体が非難されることは自分が非難されることと同義だからそれも仕方がない。しかしこういった非難に対して理論的な反論ではなく感情的な怒号で応えることこそが前近代的である証拠だ。汚い言葉で申し訳ないが「馬鹿と言われて怒る奴が馬鹿」なのだ。
ただし前近代的であると非難している対象はシステムであって、医学ではない。もちろんいくつかの医療技術には前近代的なものが残ってたりするが、この程度をもって医療技術という大枠全体が前近代的だと非難していては近代的なものなど存在しないことになってしまう。医学そのものは日進月歩な現代のさまざまな科学と比べて勝るとも劣らないレベルで進歩し続けているし、その進歩を支える根幹には医学に携わる人々の科学的能力と科学的態度がある。
 しかしシステムは前近代的だ。そしてこの状態を放置していたことに対しては、医療に携わる現場(医師だけではなく患者や役人も含む)の納得力の低さと、彼らを納得させるだけの理論を提示してこなかった経営学者たちの説得力の低さが責任を負っている。僕は後者の立場からこの状態の改革の方法論を提示したい。


ギルドが守るもの
「医者は聖職者だ」この一言がそもそもの根源だと思う。まずはこの言葉の前近代性を確認するところから始めなければならない。
職業に貴賎はない*1。だから医者もまた聖職者であるべきではない。しかし現代の日本では医者は聖職者として扱われている。
このブログでは何度も言及しているが、報酬にはお金とお金でないものの2種類が使われる。お金は汎用性が高いため誰に対する報酬にでも使えるが、お金でないもの(名誉や連帯感など)の場合は使える対象が限られてしまう。しかしうまくはまった場合はお金でないもののほうがお金よりも断然安い*2が、当人にあった報酬をうまくあてがうことは難しい。
貨幣経済の規模が小さかった前近代においてはお金でないもので支払われる報酬の割合が現代よりも大きかった。現金収入の少ない各藩主は武士や農民に対して「士農工商」といった名目上の身分制度(つまりは名誉)を支払ってごまかした。ギルドは構成員に対して「自由営業を行わない」ことの報酬に連帯感や福利厚生を使用した。国民国家は徴兵した兵士の命の報酬に国家の名誉(戦争での勝利など)を与えた。もちろんこれらの報酬にはお金も同時に使われている。しかし身分(農民という理不尽な身分でいてもらうこと)も自由も命もお金で買おうとすると莫大な金額が必要で、それを用意できるようになるころにはその時代は近代と呼ばれるものになっていた。
「昔はお金など存在しなかったからお金で払わなかっただけだ」「お金が発明されたことで人々は拝金主義に目覚め、職業倫理も人間の尊厳も捨てる卑しい大衆が生まれたのだ」そう考えるのはたやすくそして心地よいが、それはお金で買える効用を何一つ欲しない仙人だけが言える言葉だ。ほとんどの人はお金そのものを欲しているのではなく、お金で買えるもの(おいしい食事・暖かい布団・おもしろい書物・彼女へのプレゼント)を欲していて、その中間手段であるお金がほしいのだ。
報酬がお金でないもので支払われなくなった理由は、主にお金でないもののコストが高くなったことが原因だ。職業が複雑になり細分化された結果、同一職業についている者の連帯感を用意することの効果対費用が高くなった。その職業に名誉を与えようとしても、職業が多すぎて名誉を与える主体である民衆がそれらを覚えきれなくなった。ギルドが構成員に独占営業権を与えようとしても、似たような職業が自由営業を行うことを阻止しきれなくなった。国民が他国の国民と個人的に交流することが増えたために、国家の名誉を声高に叫ぶことができなくなった。
しかし医者に関してはお金でない報酬は比較的安い製造原価を維持できた。医師法と医師免許によって、誰が医者であるかが明確になっており、医者の類似行為は法律によって規制されている。比較的有名な職業であり、ギルドの構成員も多いから、国民が苦労せずに名誉を与える相手を認識できる。我々国民が支払っている、そして医師が要求しているお金でない報酬が「医者は聖職である」という名誉である。


ノーブレス・オブリージュ
名誉という報酬を得るために医師が国民に提供しているものがノーブレス・オブリージュだ。
現代の日本では医師のノーブレス・オブリージュなしでは医療業界は成り立たない。日本の医師、特に公立病院や大学病院の勤務医の労働環境は異常だ。365日24時間拘束される可能性があり、実際に拘束されている時間数も膨大だ。数千万円レベルの高金利の借金を背負っている人間ならいざしらず、こんな無茶な労働(しかも高学歴者でしかできない高度な労働)をしているのは、たとえ医者が比較的高収入であっても説明がつかない。
医者がクレーマーに辟易しているのはよく分かるが、彼らはそれでもそのクレーマーが本当に病気なら診療することをためらわないだろう。診療報酬が払えそうにない貧乏人でも、死にかけの病人をほうっておくことはできない。
このような医者の献身において日本国民はその平均寿命を延ばしてきた。その献身の報酬に対して医者が名誉を要求するのならば、国民はそれを支払わなければならないだろう。
しかし国民は名誉を与える担保として、医者に名誉に値する行動を要求する。それの代表が上述の献身的な労働だが、それ以外にも不名誉とされる行為の一切を行わないということもまた要求される。医者が私生活において乱れることを許されないのはそのためだ。もしも医者がその私生活において不名誉を許容するならば、その仕事においても不名誉を許容するのではないか。つまりは「労働時間外だから」「あなたのことは嫌いだから」「お金を払ってくれそうもない貧乏人だから」診療を拒否するのではないかと疑うのだ。
また不可抗力と言うしかないような状態で患者が死亡したときも医者は責任を負わされる。ここで国民が医者の責任追及の手を緩めた場合、医者は全力を尽くすという苦行を放棄する心配が生じてくる。全力とは文字通り全力だ。医者が休憩している姿を見ると国民は医者の全力を信じられない。努力の余地があったと見なしてしまう。医者は余暇時間も睡眠時間もすべて放棄して命がけで患者を救命し続けることを強制される。
私生活の制限という付帯義務を負ってまで医者が報酬として名誉を要求するのは、少々トートロジーであるが、ノーブレス・オブリージュの対価は名誉でしか支払うことができないからだ。もしかしたら、医者が名誉を要求するから国民が医者にノーブレス・オブリージュを要求するのではなく、国民が医者にノーブレス・オブリージュを要求するから医者が名誉を要求するのかもしれない。これはニワトリとタマゴの関係なのだ。
医者が前近代的な報酬を要求していると非難するのは簡単だが、この構造を解体するためには国民側の前近代的な要求もまた解体しなければならない。これはこれから医者になろうとしている人間にとっては福音となるが、今までノーブレス・オブリージュを実践してきた医者には耐えがたい苦痛だ。しかし多くの産業で多くのマイスターたちがそれを受け入れてきたことは歴史上の事実だ。既得権益を享受してきたギルドの高位メンバーや政府(これらは医者と国民の関係において国民の暗喩である)も多くを失ってきた。
この改革はそれでも必要なことだと思うが、同時に漸進的に進めなければならないものだと思う。急激な改革は多くの混乱と多くの不幸と多くの損失が発生する。多くの意見を集めて(もちろん当事者の一方である医者の意見は尊重されるべきだ)ゆっくりと進めなければならない。我々は「国家は理性と理念によって運営されるべきだ」と語って、教条的独善的な急進革命を行って(必然的に)失敗した旧共産国家の轍を踏まないようにしなければならない。


このシリーズはもう少し(多分4,5回くらい)続きます。いろいろとコメントはあるでしょうが、シリーズ終了後にお願いします。

*1:ただし自由意志で行われる取引に従事している者の間だけである。暴力団などは卑しい職業だと考えている。政府・自治体関係者(ひらたく言うと公務員)も市民に自由意志でない取引(税金や各種手続き)を強要するが、住民は選挙で選ばれた政治家を通じて彼らをコントロールできるのでOK。

*2:お金でないものは換算できないので比較対象にしにくい。ここでは報酬を支払う側がそれを用意するときのコスト(お金と労働力)を使って比較する。