病院システム近代化計画 その2

名誉があればご飯3杯はいけるね
医者がその労働の対価として名誉を要求していることは前回に述べた。
僕は報酬として名誉を求める医者を高慢だと非難しない。名誉を欲することは人間として普通の欲望だし、僕も少なからず名誉が欲しいと感じている。そしてなにより医者は名誉を求める代わりにノーブレス・オブリージュを背負うことを許容している。
しかし名誉を求める行動が社会的に広範囲の状況になったときに、いくつかの「高慢」と非難されるべき行動が発生してくる。僕自身はこれらの行動がそれほどひどいこととは思っていない。これらは名誉を報酬とするシステムには不可避的に付随してくる現象であり、プロトコルとしてそのメンバーに刷り込まれた行動だからだ。ドーキンス博士的に言うと、個人がミームを共有する共同体のために利他的な行動、つまり不名誉な行動を行うことで共同体全体の名誉を向上する行動だ。こういったプロトコルを刷り込まれた共同体でなければ、近代化の圧力の中で名誉を基本理念とする共同体は維持できなかっただろう。
それでも僕は個人的にはこのような行動を行う人と友人にはなりたくない。その人が刷り込まれたプロトコルに従って無意識に行動してくる場合は特にイヤだ。そういった人は、つまり僕の言うところの与太理論共同体の構成員は与太理論を守るために苛烈な攻撃を僕に仕掛けてくるからだ。
 その行動とは、国民が報酬として支払う名誉を生産するコストを引き下げる行動だ。国民はお金で払う医療費が高いと感じるから、より安く感じる名誉で支払うことを選択している。そしてもしも国民が名誉を支払う行動に対してより小さなコストしかかからないように感じたのならば、医者にとっての医療の需要曲線が右にシフトして医療の価格は上昇することになる(供給量も増える)。つまりお金のように双方に統一された計算基準ではなく、お金ではないもの、つまり国民と医者にとって計算基準が違う名誉を使うことで、医者はより多くの報酬を国民から引き出すことができるのだ。
国民が支払う報酬額 9
従来の価値基準   国民にとって お金:1 名誉:0.8
          医者にとって お金:1 名誉:1
国民が支払う医療費 お金5単位(5)+名誉5単位(4)=9
医者が受け取る報酬 お金5単位(5)+名誉5単位(5)=10
変更された価値基準 国民にとって お金:1 名誉:0.5
国民が支払う医療費 お金5単位(5)+名誉8単位(4)=9
医者が受け取る報酬 お金5単位(5)+名誉8単位(8)=13
ものすごくおおざっぱに計算すると以上のようになる*1。国民は負担が増えたと感じないが、医者の感じる取り分は増えている。国民の価値基準を変更させることに医者が費やしたコストが3未満ならば医者の行動は合理的なものと言える。


名誉倍増計画
医者は国民の価値基準を変更させるためにコストを費やしている。逆に言うと、国民は同じ名誉を与えるにしても、相手によってコストが違うと感じている。同じ礼の言葉でも、嫌いな人に言うのと、社交儀礼で言うのと、心底ありがたいと思って言うのではコストは大きく違うのだ。もっとも受け取る側には嫌々言わせることに征服感を感じる人もいるので、支払う側ほど単純には計算できない。
尊敬コスト(これからはこう呼ぶことにしよう)を引き下げるためには、医者が尊敬に値する人物だと国民に感じさせなければならない。差別化しやすいこと(医師免許の有無で判断できる)、認知しやすいこと(有名な職業である)は尊敬の対象を確定しやすいこと、言うなれば尊敬の命中率を上げることで国民が支払う尊敬総コストの削減に寄与する。医者の数が多いことは国民の尊敬コストを引き下げるために医者が支払うコストの医者一人あたりのコストを引き下げる。
尊敬に値する人物と見なされる最初の手段は能力の向上だ。能力が高いことは単純に尊敬できるし、能力が高ければ結果が伴い、その結果もまた尊敬に値する。もしも医者の能力が低ければ尊敬されない。風邪一つ治せないような医者は尊敬されないのだ*2
次の手段は人格の向上だ。どれだけ能力が優れていようとも人格が劣っていれば尊敬するのは難しい。つまりはノーブレス・オブリージュの実践だ。たとえ運悪く結果が伴わなくても医者が寝食を顧みずに全力をつくしてくれたのなら尊敬するしかないではないか。
ここまではいい。文句のつけようもない。素直に尊敬しよう。
だが、尊敬コストを引き下げる手段はまだまだある。それらの手段を総動員すればもっと尊敬コストを引き下げることができ、医者はもっと多くの名誉という報酬を得ることができる。そして医者のプロトコルはそれを目指して進化した。進化しなくても十分な名誉を集めることはできたが、進化したプロトコルが淘汰圧の中で適者となる。赤の女王は立ち止まることは許されないのだ。
そして時として進化はわけの分からない方向に進む。恐竜は巨大化し、孔雀の尾羽は長くなり、人類の交尾時間は長くなった。同様に医者共同体のミームも不思議時空にさまよいこむこととなった。


攻撃は最大の防御なり
進化の方向は苦労せずに尊敬されることだった。能力を上げることも人格を鍛えることもコストが大きすぎる。中身を充実させることよりも外見を飾ることのほうがより費用対効果が高い。その方向で進化した集団が多くの名誉を集め、名誉を求める人々は彼らの真似をするようになった。つまりミームをコピーしていったのだ。
端的に言うと「医者は高貴な人間だ」と主張することだった。人間の格が違うのだ。日本人が天皇陛下を尊敬するように、一般庶民は医者を無条件で尊敬しなければならない。医者が偉いのは能力が優れているからでも人格が磨かれているからでもなく、医者だから医者は偉いのだ。国民をしてそのように思考停止させることが大量に名誉を受け取る進化の方向だった。
下賎な庶民は高貴な人間の批判をしてはならない。劣っているはずの下賎な庶民が優れているはずの高貴な人間よりも役に立つことを思いつくわけがないからだ。もしも庶民がよりすばらしいアイデアを考え付いたとしても、それは本人の思い込みに過ぎない。そのアイデアは高貴な人はすでに検討しており、不可と判断している。高貴な人は絶対に間違いを犯すわけがないのだ。
医者以外が医療のあり方について意見を出してはいけない。部外者がなにか意見を言っても「現場を知らない人間のたわごと」と聞き流さなければならない。その結果、医療の進歩はすべて医者の提言によるものとなる。部外者の意見などどこにも採用されてはいないではないか。つまりは信用醸成の罠を作り出しているのだ。
医者が高貴であるためには医者は無謬でなければならず、無謬という神話は言論封殺でしか実現できない。「王様は裸だ」と言う人間を「この服が見えない馬鹿野郎だ」とののしらなければならない。この進化形態は合目的的ではあるが、前近代ならいざ知らず近代においては社会的に許容されない姿だ。


石化呪文も最大の防御なり
無謬を突き詰めるとさらに不思議な進化にたどりつく。先人も高貴な存在であり、彼らもまた完璧であったとすることだ。
先人は無謬であったため、完璧な医療システムを構築した。だからこれらは改革の必要などあるわけがない。これ以上効率的なシステムなどあるわけがないのだ。そしてかたくなに変化を拒んでいれば、変化後という比較対象が現れないために先人が構築したシステムが唯一無二で最高のシステムであることが保証される。
もちろんこんなことは全知全能の神様以外ではありえない話だ。
たとえその先人が完璧で無謬であったとしてもその人生は有限である。人生が有限である限り成しえることもまた有限であり、その成果の地点から出発できる我々後継者のほうがより遠くの世界を見ることができる。
しかしこのような理屈は科学の世界にしか当てはめることはできない。高貴な人間は風の流れの中に世界の真実を見ることができるはずだ。科学に頼らなければものを考えることすらできない庶民のような泥臭い真似をするはずもない。


鏡を見ないとボタンを掛け違う
少しカリカチュアライズしすぎました。しかし本質は外してません。「医者は聖職だ」と言ってしまう限り、この進化を運命付けられてしまいます。医者だけではありません。教師も官僚も同じ轍に車輪を取られています。前近代においてはもっと多くの産業がこの道を走り抜けています。
今日の文章を読んだ医者はきっと怒ると思います。僕が医者なら怒る。怒って罵倒する。「医者のことなんか何にも知らないくせにたわごとを言うな」と怒る。「こんな奴の言ってることは何一つ信用できない」と周囲に触れ回る。そうやって「医者は聖職だ」という神話を大事に守らなければなりません。
医者が怒るように僕も怒ってます。注意してもらいたいのは、これは医者を題材にしてはいるが経済学の話をしているということです。なので反論は経済学の部分にお願いします。
まだまだつづきます。

*1:ミクロ経済学的にはこの計算はあまりに粗雑過ぎる。本来ならばそれぞれの主体がそれぞれの財に感じている効用曲線を求め、その上で均衡点を計算しなければならない。しかし効用曲線を正確に求めることはできないためにどちらにせよ説明モデル程度にしか役に立たない。そこで素人にも直感的に分かりやすい簡便な記述方法を採用した。

*2:風邪の特効薬ができたらノーベル賞ものだとブラックジャック先生が言っていた。