病院システム近代化計画 その3

前近代の後に近代が来た
医者という共同体は確かに不思議な進化形態を持っている。その形態の一部は古きよき時代を現代に伝えるものであるが、残念ながら現代の道徳基準では悪と認定されるような性質も有している。これはひとえに医者に限った現象ではない。近代以前においてはほとんどすべての共同体が不思議な進化で手に入れた使い勝手の悪い体を持て余していた。
近代化とはこういった不可思議な進化形態を見直す作業だったとも言える。無知蒙昧だったはずの大衆が教育を受け、彼らもまた高貴な人々と同じ能力を身につけた。市民階級が新興し、外国から商品が輸入され、前近代的な産業は滅亡の危機に瀕した。前近代を生き抜くための進化形態は邪魔になり、近代を生き残るための進化が要求された。
近代以前は言葉と暴力で競争相手を直接攻撃していたが、近代においてはお金で競争相手を間接的に攻撃することがルールになった。より効率的にお金を稼ぐ機能を身につけ、大量のお金を吸引することで競争相手のふところにお金が入りにくくなる状況を作り、競争相手を滅ぼすことで勝利できるのだ。
この近代化の過程でギルドは解体を余儀なくされた。前近代では他の産業が競争相手だったのが、近代では同業他社こそが最大の競争相手となった。ギルドを作って仲良しクラブを楽しんでいる場合ではないのだ。
近代はすさんだ時代だ。自分ひとりしか信じることができず、世界を相手に戦うことを余儀なくされている。だれか高貴な人が無知な自分を導いてくれるわけなどない。お金を武器としたことで拝金主義という不思議な進化も発生している。
しかし近代にはいいところもたくさんある。守るべき共同体がないために、自分自身の信じる道を歩くことができるようになった。自分が高貴な人間でなくなった代わりに、他人を下賎な人間だと差別する必要がなくなった。貨幣経済が成長したおかげで、お金さえ払えば欲しいものを簡単に手に入れることができるようになった。
近代化によって共同体が解体され、個人が社会の単位になった。これによって科学の発展はめざましいものになった。社会を構成する主体の数が多ければ多いほど科学は発達する。このとき、主体の能力の高低はさほど重要な問題ではない。ある程度の質さえ満たしていればいい。百人で構成された一枚岩の組織よりも、百人の自立した個人のほうが多くの知恵を作り出すことができるのだ。これこそが近代というパラダイムが前近代というパラダイムを駆逐できた大きな要因だ。


前だけ向いて歩く人
この強力無比な近代というパラダイムにもいくつかの弱点がある。
一つ目は個人という単位ではリスクマネージメントが非常に難しいということだ。当たり前のことだが、一人の人間は一つしか命を持っていない。だからよほどのことがないと個人は命を賭けた行動ができない。死んでしまえばすべては失われてしまうから、たとえ期待値は低くても安全な方法を採用しなければならない。
前近代の共同体は人の命を賭けることが割合に簡単にできた。構成員の数だけ命があるのだから、一つくらい減ったってどうということはない。命を捨てることとなった構成員も共同体が生き残っているのならばすべてを失うわけではない。ミームは継承され、仲間は生き残る。もちろん賭けに勝って生き残り、共同体も利益を得ることができれば最高だ。
次の弱点は、お金という多人数で交換可能な財を社会活動の主要な媒体としていることだ。お金はすごく便利な道具で、見知らぬ他人との取引には不可欠であると言ってもいい。しかし見知らぬ他人ではない人との取引にはあまり向いていない。身近な人との取引(あいさつなど)にいちいち価格設定してお金を支払うなどは煩雑に過ぎる。そのために社会はお金とお金でないものの2種類の経済を抱え込むことになり、分かりにくい構造になる。前近代も分かりにくい社会だったが、近代もまた分かりにくい社会だ。
 最後の弱点は近代というパラダイムが道徳的に優れていると主張する人々が存在することだ。近代の道徳基準ならば近代というパラダイムは道徳的に善であるというのは単なるトートロジーだ。前近代の道徳基準ならば近代は悪である。近代が前近代を駆逐したのは、近代の環境により適応していたからに過ぎない。どちらも善や悪で評価できるものではないはずなのに、人は自分の所属する側を善であることにしたいと思い、結果として競争相手を悪と断罪する。善悪を語るうちは競争相手を科学的に説得することはできないと気づかなければならない。
これらの弱点にもかかわらず、僕は医者に近代化してもらいたい。僕にとって医者は見知らぬ他人であり、医者にも僕を見知らぬ他人として扱ってもらいたい。お金で解決できるドライな関係でいたいのだ。そのために近代というプロトコルで関係を築きあげたいと思っている。これは僕の個人的な条件における個人的な願望に過ぎないが、きっと日本国民の中では多数派だ。


月並みだけど命の値段
ここまでは医者を題材としながらも、医者以外にも適用可能な一般的な近代論を語ってきた。しかし一般論だけで対象のすべてを知ることができると考えるのはただの思い上がりだ。人類の科学はまだそこまでは進歩していない。だから次のステップは医者というものの特殊性を追っていくべきだろう。
医者の特殊性は「命がかかっている」ことだ。バスの運転手も乗客の命を預かっていたが、命がかかるのはミスを犯したときだけだった。しかし医者の場合は「失われるはずだった命」を救うことができる。この特性は現在のところ医者しか持っていない。
近代において共同体が解体された結果、個人の命の値段は跳ね上がった。個人にとって命は一つきりで代替物がないために値段のつけようがないほどの貴重品となる。そのために命を救ってくれる医療にも値段をつけることができなくなる。
医者は一人しかいないわけではない。日本中に何十万人(正確な数字どころか大体の数字も知らないけど)といる。しかし、死に瀕している人の目の前にいる医者はたった一人だ。値段が高すぎると思っても、よその医者をあたっているうちに手遅れになってしまう。オンリーワンの取引を行う場合、お金はまったく信用できない道具と堕してしまうのだ。
社会が近代化するほど、医者に近代化されては困るという需要が発生する。
医者が望んで前近代を維持しているのではなく、国民が望んで医者に前近代を押し付けているのだ。


今も生きる
そうは言っても医療が前近代的なシステムで運営されていることによる医療費の高騰に国民は耐えられなくなっている。命の値段は非常に高いが、命よりも人生の値段のほうが高い。命の維持に大金を費やして人生を楽しむ余裕がなくなったとしたら本末転倒の事態だ。人は「生き延びるために生きている」のではなく「生きるために生きる」のだから。
国民が望んでいるのは、近代的なシステムで費用対効果を高めた医療をノーブレス・オブリージュに縛られた医者が行うことだ。そして余裕があるときには医者ではない人間が行う代替医療を受ける自由だ。こんな一方的に都合のいい話を医者が飲めるわけがないのは、ここまで読んできた読者なら理解してくれるだろう。
しかし現状維持は医者にとって文字通り自殺行為だ。この前近代的なシステムの中で心身を酷使して医療を行い続けると、医療の需要が高まる中で過労死が続出することは目に見えている。前近代的パラダイムの中で生きている医者は、たとえ過労死しても所属している共同体(つまりは人類全体)が利益を得るのであれば本望かもしれない。だがそのパラダイムを承服できない、つまり自分の命には値段がつけられないと考える近代化した若者は医者になることを選ばない。今まではなんとかそういった前近代的な青い理想に染まった若者や、医者である親にミームを叩き込まれた若者が医者になってきた。今も供給は間に合ってるのかもしれない。しかしそう遠くない将来に医者の供給は破綻するだろう。それまでになんとか医者の個人的な負担を近代レベルに引き下げることをしなければならない。
近代システムを導入して医療の生産性を上げつつも、最低限のノーブレス・オブリージュを要求できる程度には尊敬コストを国民が支払うこと。これがきっと現状での妥協点ではないかと思う。


明日に向かって書け
次回からは具体的なシステムの提案になります。
ここまで長々と医者の前近代性を解説していたのは、環境条件が不明な状態で妥協点を見出すことは不可能だったからです。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と言いますが、まずは敵と己を知らないことには偶然に頼る勝利しかえることはできません。敵と己の利点・弱点、そしてそれらを取り巻く環境をしっかりと知ることは大変ですが勝利への近道です。
そして勝利の定義も重要です。何をもって勝ちとするか。いや、何のために戦うのかをはっきりとさせないことには勝ちも負けもあったものではありません。
この目標を僕は最後の段落で指し示しました。僕はこれを達成することを目標に次回から戦略を述べていきたいと思いますが、「そもそもそんな目標自体がおかしい」と言われてしまえばそれまでです。
ということでまた明日。