病院システム近代化計画 その10

二桁いっちゃいました。このままいくと病院システムの専門家になってしまいそうです。


ホウレンソウを減らせ*1
水平にしろ垂直にしろ分業のボトルネックは常にコミュニケーションにある。一つの仕事を複数の人間で行うために、何をしているか、どれだけ進んだか、どのような問題が発生しているか、それらの情報を仕掛の仕事とともに次工程に伝達しなければならない。
人間のやることだから当然にここで伝達ミスが発生する。伝達ミスが発生すれば仕事の質は低下し、最悪の場合には最悪の事態に発展する。だからホウレンソウは重要できっちりしっかりと行わなければならない、と言われているがそれは少し古い常識だ。伝達ミスが起こりやすいからこそホウレンソウを減らさなければならない。伝達ミスを起こさないためにホウレンソウに大きなコストをかけているのが現状だが、ホウレンソウを減らすのならばこのコストも大きく削減できる。
ホウレンソウを減らす一番簡単な方法は分業をなくすことだ。すべての作業を一人の人間が行うならば同僚とコミュニケーションをとる必要はない。もちろんこれは僕が今まで主張してきた分業主義と矛盾する。しかし何度も指摘してきたが矛盾は妥協という方法である程度解消できる。僕はこの問題において患者の分類を利用して妥協案を構築したい。
仕事には定型的なものと非定型的なものがある。定型的なものは職場内ですでに多くの情報が共有されており個別案件でのホウレンソウは少なくてすむ。一方、非定型的なものは個別案件ごとに多くのホウレンソウが必要とされる。ならば定型的な仕事は分業を積極的に行い、非定型的な仕事ではできるだけ少人数で乗り切ることが望ましい。
定型的な仕事においてはホウレンソウの内容も必要作業リストに落とし込むことで無駄なホウレンソウを排除できる。それ以前に定型的な仕事は必要作業リストで各自の作業分担が明確に決められているから、チーム全員がすべての情報を共有する必要はなくなっている。相手が必要とする情報だけを伝えればいいのだ。


ISO9000シリーズ
その5」の診療医師についての項目で書いたが、医者は前近代のパラダイムに従ってすべての患者を非定型的に診療したいという欲求が生じている。主治医に全責任と全権限を集中させることで理不尽な責任追及を減らしたいのだ。これは医者が無責任だからではない。むしろ逆だ。医者はノーブレス・オブリージュとして全責任を負いたいと思っている。しかし人情として他人の失敗の責任は負いたくない。だからすべて自分の権限と監督で仕事を進めたいのだ。
しかし医者のこの態度は「その8」で書いた「近代的な病院において医者には医療以外の能力は求められないのだ」という原則に真っ向から矛盾する。そうは言っても患者側の前近代的な欲求は人間として普通の欲求であり、それに対応する医者の人情も人間として普通の欲求だ。だからこのシステムを変えるためには、対症療法ではなく根本部分の変更も同時に行わなければならない。
その答えが必要作業リストの整備だ。誰が何に責任を負っているかを文書で明確に示すこと。これによって医者の監督下から外れた場所でトラブルが起こっても医者が責任を負う必要はなくなる。トラブルによって被害を受けた患者も必要作業リストによって責任の追及先が明確になることで満足を得ることができる。患者は医者に責任を負ってもらいたいのではなくて責任者に責任を負ってもらいたいのだ。
医者はいつもの理由で責任分担に反対する。医者の言い訳はきっとこうだ。「医者以外の病院職員は命の責任を負わせられるほどの能力を有していない」そんなわけはない。バスの運転手も食品工場の工員も保育所の保育士も、彼らのミスが直接に人命に関わるという責任を負って仕事をしている。すべての人間は能力に見合った仕事と責任を負うことができる。不幸にも能力不足でミスが起きた場合は、彼にその作業を任せたその作業の監督者や施設の総責任者が責任を負わなければならない。
非定型の仕事に関しては必要作業リストから逸脱する部分が出てくる。これに関しては責任者を設定し(責任者設定方法は必要作業リストに記載するべき)責任者にすべての情報が集約される形で進められるべきだろう。ただしこの非定型作業は業務全体の作業量の一定割合以内(多分2割以下が適正だと思う)に抑えられるべきだ。
改革の初期には非定型作業の割合が高いことは必要悪だと思う。定型作業をマニュアル化することにはコストがかかるし、それを周知徹底させることにもコストがかかる。これを一気呵成に急進的に行おうとするからトラブルが起こり、医者が反対運動を行う口実になるのだ。病院はその業務を続けながら改革を行うのだということを忘れてはならない。


注意:ホウレンソウ削減という手法は理論的には正しいですし実際に多くの場面で応用されていますが、それはすべて現場の才覚でもって行われているもので公式に採用している組織を僕は知りません。表立ってこのような主張をすると権力大好き上司から嫌われます。ご利用は秘密裏にお願いします。


スーパーマーケット病院
このような改革案を示したのだが、どのようなシステムにも環境に応じた適正規模というものがある。僕が示したシステムでは適正規模は医者が6人程度の小規模な病院(50床くらい?よく知らないけど)ではないかと思う。改革案ではどちらかというと他院からの紹介患者が多い中規模ないし大規模病院も含めた形で解説したが、僕は初診患者を中心ターゲットにした小規模病院がこの方式で一番効率が高くなると想像している。
初診患者はその大部分が一般的な病気であり、そのために定型的な業務に特化すれば相当に効率が高くなるだろう。言うなればスーパーマーケット型病院を目指すのだ。待ち時間が分かりやすく、医者も居丈高でなく、それなりに信用が置ける病院として地域住民に「とりあえずあの病院へ行く」と認識してもらうのだ。病院の診療科が総合科ならばなおよい。

厚生労働省は)幅広い診療を受け持つ「総合科」を新設し、受診科がわからない患者のニーズに応える一方、大病院への患者集中の解消を図る。
http://www.mainichi-msn.co.jp/science/medical/news/20070522ddm001010003000c.html


6人の医者でローテーションを組んで1日5人体制で日曜休院、医者が有給を取るときには近所の病院で代替医を都合しあう。5人の医者だと診療医師が4人、トリアージ医師とインフォームドコンセント医師が兼任で1人で、診療医師1人あたりで150人の患者を診ればいい*2。きっと儲かるし、医者も過重労働は回避できる。
このスーパーマーケット病院は基本的には町医者の機能を補完するものだが、町医者と比較して一つの大きな欠点がある。それは通院距離の問題だ。同じ医者の人数ならば町医者として各所に散在したほうが患者の平均通院距離は短くなる。患者は病人なので通院距離が長いことに対して健康人と比べて大きなコストを支払わなければならない。つまりスーパーマーケット病院は通院距離という外部不経済を患者に負担させることで規模の経済を実現させているのだ。
僕は通院距離の問題は乗用車の世帯普及率が高いことで社会的にはカバーできると考えている。病院には駐車場を併設するべきだが、予約時間が明確になっていることで駐車場の満車率も極端にひどいことにはならないだろう。そして乗用車がない人に対しては自治体で病院タクシーのようなものを作って対応することが望ましい*3


大規模病院の憂鬱
このようなスーパーマーケット病院が台頭すると町医者の多くは患者が激減し、場合によっては廃院に追い込まれることもあるだろう。それはそれで仕方がない。多くの個人商店がそのように転職を余儀なくされたことと同じ歴史が周回遅れで繰り返されるだけのことだ。廃院した町医者はその医師免許を利用して病院の勤務医に転職するだろう。能力的に勤務医が務まるかどうかは不安だが、数年も勤務すれば経験も増えて問題なくなるのではないかと思う。
100床以上の大規模病院は選択に迫られる。現在の高度医療の片手間に外来を見るシステムはシステムの複雑化を招き、明らかに効率が悪い。本気で外来患者を迎え入れるか、外来患者を受け付けないと宣言するか*4である。本気で迎え入れるならばスーパーマーケット病院システムを病院内に併設する事業部制をとってシステムの混在を避けるべきだろう。
どちらにせよ大規模病院の赤字体質は改善できないと思う。スーパーマーケット病院においてはシステムの近代化でコスト削減に成功するが、大規模病院で提供するべき高度医療は非定型業務が主流となるので近代化の恩恵はそれほど大きくないからだ。これは現在の前近代システム上でのコストに基づいて設定されている保険点数のせいである。病院システムが近代化されるならば、それに応じて保険点数の配分も変化しなければならない。一般的な病気に関しては安く、珍しい病気に関しては高くするべきだ。統計を取って計算しなければ答えは分からないが、これによって医療費の絶対額は多分小さくなるだろう。


僕だって医療が行える
医療費をさらに削減するためには、医者以外の人間に医療行為を任せる必要がある。
医者以外は医療行為を行ってはいけないということは医師法に明記されているのだが、実はこの世界にたった一人だけ医師免許を持たずに医療行為を行うことを法律からも倫理からも許されている人物がいる。それは自分自身である。
薬品などの購入は制限されているが、自分は自分に医療行為を行える。自分の判断で睡眠をとり、自分の判断で傷口を消毒し*5、自分の判断と責任において手術すら可能である。
手術はもちろん極端だが、風邪を引いたらわざわざ伝染性病原菌の巣窟のような病院などにいかずに家で寝ているほうが健康にいいのは確かなことだ。肥満しすぎないように、栄養失調にならないように食事の内容に気をつけると、病気にかかることが少なくなることも当たり前の話だ。しかしどの症状では病院にいくべきか、どの症状ならば病院に行かなくていいかと判断するための知識は多くの国民は持っていない。
この知識を広く国民に啓蒙することで、広報および知識習得のコストよりも医療費が削減できるならば試してみる価値はあるのではないだろうか。
また、現在の医学では何ができて何ができないかを知らせることも等しく重要だ。キノコの中に夢の抗がん剤成分が含まれていないことや、人間はいつか死ぬことなどを教えなければならない。医者からすればこのようなことは当たり前の事実で、誰もが知っていることと思うだろう。しかし多くの医学を修めていない国民は違う。なぜキノコの中に夢の成分が含まれていないのか*6、なぜ人は死ぬのかを知らないから、そんな与太話を信じてしまうのだ。
僕は小中高の各学校でそれぞれのレベルに応じた内容を教えるべきだと考えている。国民の基礎知識として簡単な医学の公式見解を身につけているべきだ。こういった公式見解を知らされていないから国民は耳学問で医学を学ばざるをえず、運が悪いとキノコを信じてしまうのだ。それによって十分に修得したと考える人間は自分を信じればいいし、いまいちよく分からなかったという人は財布を握り締めて病院の外来に列を作ればいい。その判断をするのは医療行為を行う資格をもった自分自身であるから、法的にも前近代的にも責任が自分自身で取れる。
医者はこのような提言を封殺するいつもの理由を持っている。国民が医学の知識を持つと、医者の能力的優位が脅かされるからだ。医者は表向きの理由としてこう言うだろう。「学校で初歩医学を教える教師のレベルに期待できない」「致命的な病気なのに医者の診察を受けないという判断をされかねない」「実効性があるほどに修得させられるほど医学は簡単ではない」
これに関しては医者が正しいのかもしれない。医者が妄言を吐く経済学的理由はあるが、医者が正論を述べるノーブレス・オブリージュもある。そしてこの問題は僕の専門外である医学の分野に大きく依存しているから、僕の認識が甘すぎるかもしれないのだ。


多分あと一回
今日の後半(スーパーマーケット病院以降)に関しては僕は文責を負いかねます。僕は医療に関する資料をほとんど持っておらず、想像で書き散らかしているからです。でも多分、僕が提案しているシステムを多くの医療機関が採用したならば、僕が書いているような状況になるのではないかと思います。
どちらにせよこのシリーズはお金をもらった専門家としてではなく、誰にお金を払えばいいかを検討するための前教養としての文章なので、数字上の正確さは求められていません。医療というものの経済学的性質さえきちんと表現できていれば僕のノーブレス・オブリージュは達成できたと考えています。

*1:報告・連絡・相談を合わせてホウレンソウです。

*2:僕はもっと多数を診察できると思っている。

*3:風邪などの伝染病患者は民間のタクシーに乗らないでほしい。エイズ患者ならかまわないけど。

*4:今の法律ではできません。

*5:本当は消毒しちゃいけません。

*6:含まれていてもかまわないのだが、そんな成分があるのなら分析して化学合成すれば簡単に薬は作れる。キノコを信じている人の多くは、今の化学合成の技術レベルの高さを知らないのだ。