病院システム近代化計画Q&A その3

前回、途中で根性が切れて変なところで中断してしまいました。「Q&Aその2」の改革は現場と一緒にやっていこうという話の続きです。


さて、改革を現場と一緒にやっていこうと言っても、現場は誰と一緒にやればいいのかを僕はまだ明示していませんでした。その相手は僕のような経営学の専門家でしょうか?答えは否です。
もしも僕が病院に乗り込んで改革を指導してうまくいくでしょうか。医療産業に関する知識が足りないことは取材や観察にある程度の時間をかければ補いはつきます。それらの知識と僕の経営学の知識を掛け合わせれば、ここで書いている曖昧なものではない実現性の高い改革案が作成できるでしょう。誰もがそれが成功するであろうことを疑わないすばらしい改革案が立てられるかもしれません。しかし僕は病院にその計画を実行させることはできないでしょう。
その理想(あくまで理想です)の改革案は病院全体の効率を上げ、その結果患者は喜び、病院のコストは下がります。コストが下がったおかげで病院の経常利益は上昇し、その利益の一部を労働者に給与として分配するでしょう。これならば誰もが得をするから、こぞってその改革案の実行に協力するはずです。机上の空論ではこうなりますが、現実はもっと混沌としていて対処困難です。


なぜ僕が改革実施者になれないか
一番の問題は労働と報酬の問題です。机上の空論では全員の給料が増えて皆がハッピーでしたが、現実世界では給料が増えてもハッピーにならない事態が往々にしてあります。その多くは労働強化と給与増加が結びついているときです。労働強化は単純に労働時間の問題だけではありません。労働時間がたとえ短くなっても、自分が望まない仕事、自分に向いていない仕事を要求されたとき、労働者はそれを労働強化だと感じます*1
次にたとえ労働強化がなくても金銭以外の報酬が減った場合、労働者は不幸になります。金銭以外の報酬は汎用性が低いものが多いので、別の種類の報酬を代わりに与えても大きな効果は発揮できないことがほとんどです。こういった場合には、経営サイドは労働者への報酬を増やしたつもりでも労働者は報酬が減らされたと感じます。
最後の問題は僕の改革案が言葉どおりのものであると現場が信じきれないことです。改革案の内容を信じるならばその労働者にとって望ましい結果になるとしても、ふたを開けてみたら全然ダメな結果しか得られないリスクを考慮すると、現状維持のほうがその労働者にとって期待値が高い場合です。僕と現場の間で信用醸成ができていないということです。


僕が改革実施者になるためには
僕が改革を実現するためには、改革に絶対反対だと主張する労働者を解雇しなければなりません。労働者一人一人に解雇か業務命令に服するかを選ばせなければなりません。この権力を持たない人間は絶対に改革を実現させることはできません。組織の人間が全員一致で賛成するような事案などよほど異常事態でなければありえません。
ここにおいて僕は単なる理論屋ではなく経営者の一員となります。実務的には僕がコンサルタントとして経営責任者にアドバイスをして、経営責任者が彼の責任と権限において改革を実行することになるでしょう。経営責任者もまた現場の一員だと見なすならば、改革は常に現場だけでしか行えないと言えます。別の見なし方をすれば改革は常に経営責任者のトップダウンでしか行えないとも言えるでしょう。
僕は僕の価値観上は労働者にとって得になるような取引は提案できるでしょうが、それは一部の労働者にとって損な取引となるでしょう。これは個人が固有の価値観を持つ限り避けられないことです。僕は彼らに価値観を変更することを強制できません。僕の価値観を認めて改革に協力するか、自分の価値観においてより条件のよい職場に転職するかを選択させることまでしかできません。内心の自由という基本的人権を守るためには労働者の権利の一部は制限されるべきものになります。
そうは言っても経営者はどんな改革案でも労働者に押し付けることができるわけではありません。最低条件としては労働基準法に抵触しないというものがあります。そして解雇にあたってはさらに高いハードルが設定されています。社会的に許容されている価値観の範囲を大きく逸脱したような事案でなければ解雇を強制することはできません。ただしこの価値観は僕が解明した前近代的な医者の価値観ではありません。近代社会にオーソライズされた裁判所が認めるものは近代的な価値観で不当解雇かどうかを判定するでしょう。


改革案の議論を始める前に
しかし僕はそうやって労働者に職場を去られると困ります。去っていった労働力の補充ができるかどうかは不明ですし、たとえ補充ができてもそれは非熟練な労働力である可能性が高いからです。だから僕は労働者ができるだけ現場を去る覚悟をしないような改革案を提案しなければなりません。ここから現場と経営者の妥協が始まります。これこそが民主主義です。
前回の最後にも述べていますが、妥協とは妥当なところで協力することです。そして妥協とは決してゼロサムゲームではありません。妥協の内容をうまく作り上げればいわゆるWin-Winの関係になりますし、下手な内容だと骨折り損のくたびれもうけになります。そしてうまい内容を考え出すには多くの知恵を集めることが必要です。知恵は、僕のような経営学の理論家からも集めるべきですし、現場や顧客をよく知っている労働者からも集めなければなりません。
「みんなで相談」は響きのいい言葉ですが、これを行うと議論はたいてい明後日の方角へと走っていきます。これが許されるのは小学校の学級会だけです。何が悪いのでしょうか。
それは実現されるべき価値が多様すぎることに起因します。「労働者の生活」「労働の満足感」「労働者のプライド」「業務の主目的」「顧客満足」「遵法精神」「経営者の利益」「経営者の権力欲」これらはすべて互いに交換不可能です。「労働者の生活」が100点あるならば、残りは0点でもかまわないというわけにはいきません。交換不可能ということは、足し合わせることができないということであり、当然にこれら全部の価値の合計の最大値の計算も不可能です。ならばどれだけ議論したところで最適解など見つかるわけもありません。
これを解決するための手法が、価値を実現させるための中間媒体を用意すること、つまりはお金です。お金を使って各個人がそれぞれの満足を実現させることができます。こうすれば経営者は労働者各個人への報酬の種類を一元化でき、最適解を見つけ出すための労力が大幅に削減できます。つまりはこれが近代のパラダイムです。
お金という中間媒体を用意することで「労働者の生活」「経営者の利益」を一つにまとめることができました。しかし残りの価値はお金では代替不可能です。近代というパラダイムにもできることとできないことがあるのです。
次に無視するべき価値を探します。近代のパラダイムにおいては「労働者のプライド」と「経営者の権力欲」は無視されるべき価値です。これらは近代において悪と認定される価値だからです。そうは言っても僕は近代マンセーでもないので、完全にはこれらの価値を否定しません。僕はこれらの価値の一部はお金で補償され、残りの部分は「業務の主目的」の達成で代替されるべきだと考えています。「顧客満足」と「労働の満足感」は近代では悪の価値観ではないですが、これもお金と「業務の主目的」で代替されるべきでしょう。
ただしこれらはもともと別の価値ですので完全に代替することは不可能です。これらの価値は人間にとって不可欠なものであり、それを全部別のものに置き換えることは人間が人間であることを否定しなければなりません。言い換えればこれは民主主義の否定です。
人間が人間であることを認めることが民主主義ですが、民主主義社会においてはそのすべてを野放図に認めることはできません。社会を運営するためにはその構成員が互いに価値を譲歩しあう必要があります。具体的には互いに尊重しあう最低レベルを設定し、そこから先は各自の個人的努力によって達成しましょうという合意を成立させることです。そしてその合意が法であり、礼儀やマナーです。
礼儀やマナーも法の一種だと考えれば、これは「遵法精神」という価値に置き換えられます。「遵法精神」という価値をどのあたりまで満足させるかは経営者・労働者・顧客の三者の価値観の最大公約数的なものになるでしょうが、僕は医療産業においては他の産業よりも高い部分に設定されるべきだと思っています。その理由は何度も説明しているように近代社会では医療に対して前近代性が要求されているからです。


そろそろみんなで相談しよう
ここまで価値を整理した結果、最適解を見つけ出すために要求される価値基準は「お金」と「業務の主目的」の二つに絞られました。「遵法精神」は達成されるべき価値ですが、その達成度はすでに設定されているために最大化を果たす必要はありません。
それでも最終的に残された価値は二つあるために完璧な最適解は求まりません。しかし僕はこれ以上の絞り込みは不可能だと思っています。ここまででもかなり強引な絞り込みをしているのに、これ以上の無理をするとまたわけが分からない混沌に突入してしまうと考えるからです。
実務上は「業務の主目的」の達成度を固定した後に「お金」の最大値を導き出す手法が正しいでしょう。「業務の主目的」は青天井でありどこまで行っても完璧にはなりえない以上、どこかに「社会通念上必要」な達成度を設定するしかありません。時代が変わればきっとこの「社会通念上必要」な達成度は変化するでしょうが、それはその都度議論を行うしかありません。
ここまで述べたような、協力の前段階の議論に関しては現場労働者の出る幕はありません。この前段階の部分は純粋に経営学的な議論だからです。もちろん現場労働者が経営学の知識を十分に持っているならばこの前段階の議論に参加しても一向に構わないのですが、それは「現場労働者」として参加しているのではなく「経営学者」として参加することになるでしょう。
しかし前段階の議論が経営サイドとして決定した後の実務的な方法論に関しては、現場労働者は積極的にその知識を議論に提供するべきです。最大化されたお金の分配割合においては現場と経営者と顧客は対立する立場になるでしょうが、お金を最大化することに関してはその三者はまったく同じ方向で努力することが各自の利益につながるからです。


A&A
このエントリーのタイトルはQ&Aなんですが、ここに書かれた文章の中にはまったく「Q」がありません。タイトルに偽りありです。しかし、今日の文章は今後の議論のためにはどうしても必要でした。もしも今日の内容に関してNATROMさんが納得がいかなければ、そして「ちょっと違うんじゃねえの。本当はこうするべきだろう」というNATROMさんの反論に僕が納得いかなければ、ここから先はまったく議論できなくなります。
しかし前近代のパラダイムから生み出される、前近代を固持するための医者のプロトコルを遵守するならば、今日の文章の内容は承服できない内容になります。この文章は科学というプロトコルから作り出されているもので、まったく違う価値を達成しようというものだからです。極端なことを言うとこれは、「古きよき医者」か「科学者」のどちらを選ぶかの踏み絵となっています。もしここで「科学者」のステップを踏んでしまうと、「古きよき医者」からは敵視されるでしょう。「古きよき医者」を選ぶと「科学者」からは敵とされてしまいます。僕はNATROMさんとはネット上の接点しかないのでどちらを選んでいただいてもかまいません。しかしこのような踏み絵を提示してしまったことに関しては申し訳なく思っています。すごく失礼な態度だと思っています。もしかしたら僕があさはかなだけで、「古きよき医者」と「科学者」の両方を満足させるプロトコルが存在するのかもしれません。


そうは言ってもまだまだこのQ&Aは続きます。ご覧の通り「毎日更新」というわけにはいきませんが、できるだけ最後まで頑張りたいと思います。

*1:資料整理室も労働強化かなあ?