病院システム近代化計画Q&A その5

>「インフォームドコンセント医師の仕事は極端に簡単」というのは、何をどう言っていいのかわからないほど間違っています。診療医師と同じかそれ以上の技量が必要です。
きっとここが議論の大きなターニングポイントになります。
この議論は経済学では労働価値説と効用価値説の対立となります。経済学者は数世紀にわたってこの対立を議論してきました。今では労働価値説を唱える経済学者は少数派です。僕は効用価値説がより本質的に価値というものを説明していると考えています。


労働価値説
「価値=原材料+労働」*1という考え方です。「価値」ってなんだ?とつっこまないでください。「価値」という概念を追求しだすと大変な迷宮に入り込んでしまいます。「価値」という言葉は日本語的に普通の感覚で読んでください。
原材料もそれぞれの原材料と労働の価値を含んでおり、最終的に物やサービスの価値は投入された労働の価値と等しくなります。労働価値説はマルクス経済学の根幹部分として有名ですが、マルクスが言い出したわけではなく、もちろんマルクス経済学以外でもその根幹部分として取り入れられてきました。
かなり古い時代においては労働の価値は単純に労働時間に比例すると考えられていました。しかし実際は大人と子供、熟練労働者と非熟練労働者の労働力の違いがあるため、労働の質×労働時間という概念が取り入れられるようになりました。


効用価値説
労働価値説が供給者から見る形で価値を説明しているのに対して効用価値説は消費者から見る形で価値を説明しています。消費者がその財に対してどれだけの価値を感じているかが、その財の価値であるという考え方です。
この考え方はかなりとっつきの悪い考え方です。同じ財でも別の消費者にとっては別の価値となります。日本人にとっては一物一価*2という考え方がかなり浸透していますが、効用価値説においては一物一価は完全に否定されます。また、この価値は人の心の内面に表示されるもので、まったく客観的ではありません。それどころか本人にも正確な価値が認識できないことが普通です。
効用価値説においては原材料に労働が行われることで価値が下がることがありえます。それどころか原材料の入手価格よりも価値のほうが低いことすらありえます。おいしい生のリンゴならば価値があったのに、下手な料理人が料理という労働を加えることでまずいアップルパイに変化してしまうという事態です。満腹状態ではおいしいリンゴであっても食べたくないと感じるときなどはリンゴの価値は購入価格よりも下がっていたりします。


価値観の対立
この二つの価値説の対立の典型的な議論を引用してみましょう。これは約十年前にネットで僕が議論したときの内容を抜粋したものです。


僕:1個の握り飯を、母親がおなかをすかした子供に与える場面を想像してください。子供が2人いた場合、母親はより腹をすかせた子供のほうに握り飯を与えると思います。(分ければもっといいんですが、ここでは分けられないことにします)そのほうが、家族という1つの社会での富が大きくなるからです。ちなみに誰も食べない(取引がない)場合は、まったく社会的な富は発生しません。握り飯は作られる(生産される)ことではなく、食べられる(取引される)ことによって価値が出ます。


S:また、母親が握り飯作りの労働をすることも事実です。この母親の労働によって、握り飯も生まれることも事実です。ここに、リアルに客観的に価値が生まれているとも、思うのですが。しかも、その握り飯を作るのに30分要したのであれば、時間という客観的な量で明示されている価値です。


僕:確かに握り飯には米代や母親の労働分の価値が存在します。しかし、握り飯分の米や、母親の労働は費消され減っています。そのため、米+労働の価値が握り飯に変化しただけで、価値(社会的富)は握り飯を作る行為によっては増大していません。気をつけてほしい部分は、母親の労働は有限の財であることです。
その価値を認識するのは消費者以外には存在しないので、結局、消費者の手に渡ることによって価値が具現化します。



S:私は、母親はまず、労働を可能にする精神的、肉体的能力(労働力)を有しており、この能力(労働力)が働きとして現れたのが、この場合、お握り作りの労働となり、この労働が価値を生み出していると、解しております。
生計に必要な物資の価値以上の価値を創出することが出来ることになり、ここに社会的余剰(社会的富)が生み出されるということです。



僕:人間の労働だけが価値を生み出すという誤解なんですが、全自動おにぎり製造マシーンで作った握り飯も、空中からいきなり現れた握り飯も、母親が握った握り飯も、板前が握った握り飯も(細かい差異を無視すれば)消費者から見れば同じ握り飯です。
こうした場合も労働価値説では説明がつかない状況が現れます。



専門家同士の議論でないために多分にかみあっていないのですが、二つの価値説の議論の原型の多くがここに顕現しています。要約すると以下のようになります。
効用価値説:同じ財でも消費する人によって価値が違うよ。
労働価値説:そんな価値に客観性はない。労働時間で計るならば客観的だ。労働というのは無から有を生み出す行為だ。そこに価値が発生する。
効用価値説:労働したら労働者の貴重な時間が費消される。労働は労働時間という財を財物に置き換える行為で価値の創出ではない。
労働価値説:労働者の貴重な時間を生成するコストよりも労働による付加価値のほうが高い。
効用価値説:労働で剰余価値が発生するのは事実だが、労働以外でも価値が発生している。それを説明するには労働価値説以外の原理でなければならない。


もう少し議論を補足すると、労働価値説は労働時間という客観性が高いものに依拠しているためにとっつきがいいし、それで説明がつく現象も多いです。しかし労働価値説では説明のつかないことも同様に大量にあり、これらは効用価値説で(客観的ではないけど)説明がつきます。効用価値説からの反論を受けて労働価値説は労働の再生産コストや労働の質という概念を付け加えます。しかしこの時点で労働価値説も客観性という利点を放棄しています。
結局、どっちも客観性がないんだったら、より説明範囲の広い効用価値説でいいんじゃないかなというのが経済学の当面の結論です。そして現在は効用価値説と交換価値説*3が議論されており、それらを用途に応じて使い分けることが行われています。


このように価値というものの計測方法を見てみると、NATROMさんの感覚が労働価値説をベースにしていることが分かります。
医者という労働力を作り出すためには多大なコストがかかっている→医者の労働コストは高い→医者が行う労働の価値は高い
以上のような図式になっています。しかし効用価値説に従うと以下のような図式になります。
医療→必要度が高い→価値が高い
インフォームドコンセント→必要度が低い→価値が低い

もちろんこの問題は労働者が自分が提供する労働に対してどれだけの価値を感じているかなので、ここで効用価値説という消費者から見た価値を持ち出すのは少し筋違いに見えます。しかし実はこの消費者から見た価値が労働者が提供する労働の質に大きな影響を与えます。ここは論理的に難しい部分なので注意して読んでください。


労働の価値
そもそも医者の報酬は他の産業に比べて大幅に高いです。ちらっとインターネットで求人広告を見てみたところ、通常の3倍くらいの相場になっています。しかも尊敬というお金でない報酬も得ることができます。しかしそれだけの報酬が約束されているにもかかわらず、医者を目指す若者はそれほど多くありません。医学部に入るだけの学力を持っていても、別の学部に入学したり、そもそも大学を目指さなかったりする若者は毎年万単位で存在します*4。彼らはなぜ医者を目指さないのかと言うと、医者の報酬と労働が釣り合っている、もしくは労働のコストのほうが高いと感じているからです。
この労働のコストが労働力を作り出すためのコストだったとしたら、医学部以外の学部で修士課程まで進みながら医者ほどの報酬を得られる仕事に就かない人間は非合理的な選択をしているとみなされてもしかたがありません。しかし彼らが非合理的なわけではありません。医者の労働のコストが高いのは、医者を作り出すためにかけられたコストが高いからではなく、医者として働くことのコストが高いことに起因しているからです。
医者として働くコストが高いことの理由の一つはもちろんその勤務時間の長さにもあるわけですが、これは決定的な要因ではありません。医者と同じような奴隷的労働をしている人は多く存在しますが、彼らの多くは医者ほどの報酬を受け取っていません。ならば医者の労働のコストが高いことは医者という職業の中に潜む原因にあると見るべきです。僕はこの原因を「医療に求められる前近代性」と解説したのですが、今回は別の言葉で説明してみましょう。
医療という財は消費者にとって必要不可欠な財であり、そのために消費者は医療に対して大きな効用を感じています。しかし残念なことに消費者に提供される財はいつも完璧なものではありません。完成度が高い財もあれば、完成度が低い財もあります。完成度が高い財であれば消費者は期待していただけの効用を得ることができますが、完成度が低い財に出会ってしまったらその分効用は減少します。消費者にとって効用が低い財でも同じ現象は発生します。完成度が高い財ならば期待していただけの効用が得られますし、完成度が低い財ならばその分効用は減少します。
しかしもともとの効用が高い財のほうが、完成度が低いときの消費者が損失する効用は大きくなります。そのため、消費者はもともとの効用が高い財には完成度の高さを強く要求し、低い財に対しては比較的寛容になります。そして取引というものは双方向的なものであるため、供給者である医者は医療という効用の高い財の完成度を高める努力をせざるを得ません。
財の完成度を高めるためには、質の高い労働力を投入したり、労働力の量を多く投入するなどの手法がとられます。しかしこういった目に見える労働力だけでは財の完成度はそれほど高まりません。財の完成度を高めるためには、責任・緊張・気力といった精神力がどうしても必要になります。医者という労働のコストはこの投入される精神力のために大きくなっているのです。


根性は使えば使うほど減っていく
このように見てみると、診察(医療)とインフォームドコンセントでは同じ労働者が同じだけの労働時間を投入しても、その労働のコストが大きく違うことが分かります。他の産業の労働者の支払う労働のコストが医者の労働のコストと比べて極端に低いことと同じように、診察と比べてインフォームドコンセントの労働のコストは極端に低いのです。
言い換えれば、診察はミスが許されない労働なのでコストが高く、インフォームドコンセントはミスが許される労働なのでコストが低いのです。
もちろんどちらの労働に関してもミスは許されないと多くの医者は反論するでしょう。しかし人間である限りミスは発生します。近代は人間がミスをすることを前提としているのです。ミスを犯さないのは神様と、高貴な人間だけです。僕は医者は能力は高くとも、高貴な人間ではないと考えていますので、医者がミスを犯すことは仕方のないことだと思っています。しかし大事な場面でミスを犯されると困るので、大事な場面でミスを犯さないための精神力の投入に対して大きな報酬が支払われることは当然だと思っています。
もしNATROMさんが今日、どうしても一つのミスを犯さなければならない運命にあり、その代わりにミスの発生場所を選べるとしたら、それを診察とインフォームドコンセントのどちらの場面で発生させることを選ぶでしょうか。まさか診察の場面ではないと思います。つまりそれだけインフォームドコンセントは楽な仕事なのです。


こはちょっと宣伝です
ついでにもう一つの視点からもインフォームドコンセントが楽な仕事であるということを説明してみましょう。自律機械と自動機械という概念での切り分けです。この概念はもしかしたら僕のオリジナルかもしれないので詳しいことはこのブログの「第四次産業」論を参照してください。一応、ここでも簡単な説明をしておきます。
自動機械:入力された内容に対して定まった行動を起こす。
自律機械:入力された内容と関連した行動を起こすが、その行動は常に同じものとは限らない。場合によっては入力がなくても行動を起こす。

診察は自律機械としての行動を要求されます。同じ発熱症状を見ても違う診断を下さなければならなかったり、診断を下すための情報が足りなくても診断を下さなければなりません。
逆にインフォームドコンセントは同じ診断に対しては同じ説明を患者にしなければなりません。これは自動機械としての行動です。もちろん患者はそれぞれ別の人間だから、同じ診断などはめったにあるものではありませんが、偶然にも同じ診断があれば同じ出力が期待されます。そしてこの行動には診断という入力が必須とされます。入力がなければ出力はありえません。
そして自律機械としての労働のほうが自動機械としての労働よりも困難です。コンピューターや辞書ではできるはずのない人間ならではの行動だからです。自動機械としての労働ならば技術とコストが折り合えば本物の機械でも行うことができます。


専門化を進めよう
僕がインフォームドコンセント医師にこだわるのは、ここまで説明したようにこの労働のコストが低いことにあります。診察医師としての労働のコストの負担が割に合わないと考える医者や、医者を目指す若者がインフォームドコンセント医師ならば自分の職にしたいと考えるでしょう。年収700万円で8時間労働の責任が過重でない仕事をしたいと考える人は多数います。
こういった職場を用意して医者人口を増やせたならば、現在の医者不足の解消の一助になるはずです。そしてこういった細かな積み重ねによって、将来の大きな生産性向上が図れるようになるわけです。
このような医者の能力(どれだけ高コストの労働に耐えられるか)による分類は、現状の「医者は万能(全能?)」というテーゼに反してしまいます。厚生労働省関連の報道によると、医者を専門によって分類するなどが検討されているようですが、まだまだ議論の段階のようです。
人間に万能を要求するとどうしてもコストがアップします。特に医者の各専門分野はそれだけでも要求される能力が高いのに、それをすべて修得するべきだとなったら嫌になるくらいのコストがかかります。医療は巨大なマーケットなのでスケールメリットが働き、専門分野を細分化してそれぞれに専門家を養成することが割に合うはずです。
そうは言っても万能な労働者が組織の中に少数いることはそれなりに効率を向上させます。僕の勝手な感覚だと専門家9割、万能家1割くらいがベストな感じがします。




もちろんまだまだまだ続きます。

*1:ここでは分かりやすくするために余剰の概念を取り入れていません。

*2:同じ商品はどこでも同じ価格で販売される。

*3:交換価値説は価値説と名前がつけられていますが、実際は「価値」を分析するものではなく「価格」を分析する理論です。

*4:そういや僕の兄が医学部だった。栄養学科だったから全然医者とは違うコースだけど。