高速道路無料化反対

今回も常識にチャレンジです。
高速道路無料化に反対です。woodさんが無料化反対という意見は信じられないと言ってるのですが、僕はどっちかというと無料化のほうが無邪気すぎると感じています。タダより高いものはないのです。
ちょっと長くなって読みづらいのですが骨子としては「償還主義は変」「資本コストという概念を適用」「無料化はモラルハザードになる」です。


高速道路建設財源の歴史
だいたい一般常識かと思うが、日本の高速道路建設財源の歴史を少し振り返ってみよう。うろ覚えで少々しか裏が取れていないので少し間違ったことを書いてしまうかもしれないが、今回の話の筋道に大きな影響がないので大目に見てほしい。
日本の高速道路は1960年に名神高速道路を世界銀行からの融資によって建設することから始まった。1963年には東名高速道路がこれも世界銀行からの融資を受けて建設されており、この借り入れは1990年に返済が終了している。もちろん世界銀行からの融資だけが資金だったわけではなく、郵便貯金を原資とする財政投融資も大きな財源だった。
そもそもの償還主義の採択理由は融資を世界銀行から受けていたことであったのかもしれない。ドイツのアウトバーンアメリカのフリーウェイなどの例を見ても、長大な高速道路網は無料で解放されており、どちらかというと料金制のほうが常識に逆行する方式だったようだ。しかし1960年当時の日本はまだ高度成長期も迎えておらず、当時の先進国の中では貧乏な国だった。貧乏だったからこそ世界銀行からの融資を必要としたわけだが、貧乏だからこそ世界銀行はその融資に対して担保を要求した。その担保が高速道路の料金収入であり、融資をぎりぎり返済できるだけの料金設定の基準が償還主義だったわけだ。
この問題の原点を忘れてはならない。借り入れを返済できるだけの料金収入がなければ日本の大動脈*1は建設に着手することはできなかったのだ。ついでに言うと、今の日本の礎の一部は世界銀行(というかアメリカ合衆国)の好意によって形成されていることも忘れてはならない。*2
高度成長期を経て日本が豊かになると、この償還主義は変質した。新たに建設された高速道路の建設資金も全部ドンブリに入れて償還することにしようという、いわゆる料金プール制である。これによってドル箱の東名・名神高速道路の利用料金を使用して地方高速道路の建設資金の償還が可能になり、多少採算が悪い高速道路も建設されることになった。
この変質は建設財源の変化から来たものだと僕は考えている。もしもこの資金が世界銀行のような外部主体から調達されたものだったとしたら、その主体は融資の担保として融資した物件(単体の路線)の料金収入を要求したことだろう。しかしこの融資は財政投融資という日本政府の意のままになる主体から調達されたため、融資の担保は日本政府の口約束だけで十分だったのだ。
このようなお手盛りの予算はほぼ例外なく腐敗する。日本の高速道路建設行政も当然のように腐敗し、地方活性化という美辞麗句を口実に不採算・高コストな高速道路が何本も建設された。そして不採算路線建設費償還のためにドル箱路線の料金値上げへとつながり、当初に約束された償還終了路線の無料解放は償還主義を採る限りほぼ不可能な状態へと陥っていった。


償還主義の功罪
償還主義とは一言で言えば、料金収入で借金の利子と元本を何十年間かかけて返しましょうということである。借金を返し終わったら高速道路を無料で開放しましょうというのも償還主義に含まれるのだが、僕自身は借金返済終了が無料化を意味しなくてもいいと思っている。
借金を全額返済することはついつい常識だと思ってしまうが、この常識の罠にはまってはいけない。無借金経営の企業は少数派であることからもこの常識が非常識であることは簡単に理解できる*3。法人においては自己資本も借入金も等しくどこかの自然人からの資金調達であり、それらの資本コストよりも大きな営業利益を生み出すことだけが法人に課された義務なのだ。
しかし融資をする側からしたら元本ごと返済してほしいという要求はしごくまっとうなものだ。永久債というものもあるのだが、現代ではあまりまっとうな調達方法ではない。だから企業では長期債務は期限毎に借り換えを要求され、場合によっては銀行から借り換えを拒否される場合もある。だから日本道路公団世界銀行からの借り入れを返済しなければならず、そのために償還主義を採用する必要があった。
しかし償還主義には会計学的に大きな落とし穴がある。借金を返済し終わった資産の所有者は誰になるのだろうかということだ。私有財産制度の下では(人工的な)資産の最終所有者は常に自然人でなければならない。例え簿価がゼロでも資産はそこに存在し、経済的便益を生み出しているのだ。ならばこの資産の所有者は誰か。日本政府(最終所有者は国民)か日本道路公団(国の100%出資のため最終所有者は国民)か。実は違う。償還資金を出資した、つまりは割高な利用料金を支払った過去の利用者となる。そしてこの所有者とその所有割合を確定することはまず不可能だ。
償還主義における高速道路の無料解放は、この特定不可能な利用者が引き続き高速道路の利用者であろうという前提から成り立っている。これは近似的には正しいかもしれない。しかし帳簿上の価格がゼロだからといって所有者を曖昧にすることは資本主義の精神に反する。やはり解決策としては国(つまり国民全体)が帳簿上の所有者となることしかないだろう。もちろんこれは国が勝手に正当な所有者から資産を奪い取るような方法であり、本質的には不正義だ。だから償還主義そのものが世界銀行に担保を提供するためのたんなる方便だったとすることが政治的に正しい解決策となるだろう。


資本主義社会における高速道路投資
まず最初に言っておくべきは「資本主義」なる「主義」は存在しないということだ。もともとはマルクスが言い出した言葉らしいが、「資本主義社会を作り出そう」と誰かが言い出して資本主義社会が出現したわけではない。「もっと自由な私有財産制度を実現しよう」と資本家が主張していたら資本主義社会が発生したと見るべきだ。だから資本主義というのは例えば封建制度と同じように単なる社会現象を追認した言葉に過ぎず、その言葉自体に守るべき正義が存在しているわけではない。
本当に守るべき正義は私有財産制度(というか私有財産主義)である。私有財産制度が守られる限りは資本は利潤を要求し、資本主義社会にならざるをえない。分かりやすい言葉を使うことが僕の信条なので「私有財産制度という主義を守るために」という意味合いで「資本主義社会の実現のために」という言葉を使うが、実際は資本主義という制度は絶対に固守しなければならない価値ではないことを理解してほしい。そして「私有財産制度という主義自体が私の思想に反する」という人にとっては、私有財産制度も資本主義も等しく不正義となるだろう。ちなみに「私有財産制度は正義だが資本主義は不正義だ」という主張は論理的に破綻している。
資本主義社会において資本は利潤を要求する。そして固定資産のほうが流動資産よりも、物的資産のほうが貨幣資産よりも大きなリスクを持つために大きなリターンが要求される。だから高速道路という物的長期資産の所有者はその資本を貨幣で所有していたときよりも大きな利潤を稼ぎ出さなければならない。しかし「償還主義:無料解放」という方式をとった場合、資本所有者は貨幣固定資産と同じだけのリターンしか得ることはできない。
このことにより高速道路所有者は物的資産としての高リターンが期待できる、つまり高採算な路線の新規建設にインセンティブを感じなくなる。逆に償還不可能な路線であってもそれを建設しない理由がなくなる。要するに「どうでもいいや」と思ってしまうのだ。そうなると建設すれば地元民が手放しで喜んでくれたり、投票してくれたり、賄賂をくれたりする路線の建設のほうが個人的に楽しくなってしまう。つまりはモラルハザードだ。
資本主義社会において、たとえその主体が国であったとしても投入資本に対して適切な利潤を要求しないことは悪である。その資本の本来の所有者は国民であり、それを低い利潤で運用することは政府の国民に対する裏切りである。ただし国は資本の適正運用以外のサービスも国民から要求されており、そのために費用を支払うことは裏切りにはあたらない。何を言いたいかというと、たとえ不採算路線であっても、不採算をカバーできるほどに経済効果があったり、国民の福祉の向上につながるのであれば建設は可能であるべきということだ。
しかし償還主義の下ではこのような微妙な不採算路線は建設不可能になる。償還主義では道路単体で採算が採れなければならないからだ。償還主義のような硬直した制度では資本主義の基本である「お金に色はついていない」が実現できなくなってしまう。本来ならばこのような微妙な路線には国や地方自治体が補助金を支出するべきなのだが、料金プール制にすると、微妙な路線に補助金を出したつもりが全体に補助金を出した形になってしまい補助金の経済効果が薄まってしまう。


フリーライダーの防止
フリーライダーとは誰かが資本を投入して作り上げた社会資産を料金を支払わずに利用することだ。もしも償還主義が実現して高速道路料金が無料化した場合、高速道路の利用者が増大することは目に見えている。今まで高速道路料金を支払ってきた人が利用量を増やすことはかまわない。彼らの当然の権利だ。しかしそれまでは一般道路を利用して高速道路料金を支払っていない人たちも高速道路を利用することになるだろう。彼らは文字通りのフリーライダーとなるわけだ。
償還後の高速道路資産の所有者が国となるのならば、国の財産を利用することは国民の当然の権利だ*4。しかし上述したように償還主義を貫いた場合の高速道路の所有者はそれまでの利用者と見なすべきであり、新規利用者がそれを無料で利用することには問題があると言わざるをえない。
具体的には運送業への新規参入が劇的に増大するだろうということだ。もちろん彼らが利益を出して税金を払ってくれることは社会の利益になるわけだが、既存の運送業者はいい気持ちはしないだろう。彼らは今まで高い高速道路料金を支払い、ぎりぎりの利益に我慢してきたのだ。「この高速道路は俺たちの金で作られている」と考えるのも当然だ。そして無料化した途端に新規業者が大量に参入してきて売上が減少したら納得がいかないどころの話ではない。
無料化すること自体はこの問題にとっての本質ではない。本質なのは償還主義だ。無料化したとしても国は「今までの高速道路料金はサービスの対価であって資本投資ではなかった」という建前を堅持しなければならない。


道路機能の維持
高速道路、特に日本の高速道路のように品質のいい道路は維持費がべらぼうにかかる。その維持費のために利用料を取らなければならないという理屈は少し説得力が弱い。しかし維持費とは日常的なものだけでなく、非日常的なものもリスクの一環として計算に入れなければならない。
償還主義による償還が終了した高速道路の一部、数キロ程度が地震によって倒壊したとしよう。もちろんその区間は建て直されることだろう。そして償還主義を採るならば、その区間だけもう一度料金を徴収して償還しなおさなければならなくなる。償還主義では償還済み区間の所有者は利用者であり、その一部の国民のために国が費用を負担して資産を献上するわけにはいかない。
日々のメンテナンスすらも償還主義の下ではこの論法によって不都合が生じてくる。多分維持費用以外にもいろいろな部分で会計学的な不都合が生じてくるだろう。「じゃあ会計学的に考えるのをやめたらいいじゃん」と言いたくなるのだが、日本は資本主義社会なので会計学を使って資産の所有者を明確にしなければならないのだ。


償還主義を放棄しよう
償還主義とは結局、「利用者が金を出し合って建設費の借金を返しましょう。借金を返し終わったら今まで借金の担保になっていた高速道路は誰のものでもなくなります。誰のものでもないんだからそれをタダで使っても誰も文句ないよね。」ということだ。ごみのようなものならともかく、高速道路のような不動産(土地も込みかな?)が無主物になるのはちょっとアクロバティックすぎる解釈だ。
償還主義という会計手段は、当初は仕方がなかったにしろ早々に放棄するべきだった。利用料金とは関係なしに国家予算で借入金の利息支払いや返済を行うべきだった。今すぐにでもそうするべきだ。
償還主義の放棄と聞くと「償還しないんだったら無料化しろ」と言う人たちが出てくるだろう。彼らの言い分も分からないではないのだが、有料であるべき理由もまたあるのだ。


資本コストとしての道路料金
道路建設はべらぼうに資金を必要とするものである。しかし交通需要がそこそこにある路線で建設が行われた場合、その投入資金を上回る効用が発生する。問題はこの資金をだれがどのような形式で負担するかである。利用者か、それとも国という中間業者に税金を納める国民か、その両者があるバランスで負担するのか。
無料化主義者は高速道路が無料化された場合に国民が税金でそれを負担しなければならないことを理解しているのだろうか。道路資産に充当される資本が永久債という形で固定されようともその資本コストは誰かが費用として負担しなければならない。償還されたところで、その資本の所有者が郵貯から国に移行しただけでやはりその資本コストは負担しなければならない。国家予算はなぜか非常に古臭く問題点の多い単式簿記を採用しているために、道路が国有資産になった場合の資本コストは国民の目から隠蔽される。しかし国家予算を複式簿記で(そして時価会計で)表現したならば資本コストが現実に発生していることを我々国民は目の当たりにするだろう。
この資本コストの問題は高速道路だけでなく、一般道路および国の所有する全資産で発生している。近代社会の実現には巨大なインフラ投資が必要であり、その資本は我々国民が出資し、その資本コストを支払い続けなければならない。その資本投資を効率よく行うためには中央集権国家が有効であり、その中央政府は昔の国家と比べると巨大なものにならざるをえない。
資本主義社会の原則から言うと、本当はその資本投資はその資産から効用を引き出す主体が負担しなければならない。しかし効用を引き出す主体とその効用の特定が困難であり、さらにはゲーム理論で解明されつつある市場の失敗が発生するために我々は仕方なく中央政府がドンブリ勘定することを容認しているだけだ。本来は個別に資産の効率を計算し、その計算結果をもってどれだけの資本投資を行うべきかを判断するべきなのだ。
高速道路はインターチェンジで管理することで一般道路とは比較にならないほど、利用者とその利用量を特定することができる。ここまで管理が容易な資産を無料解放することは資本主義の原則に逆行する政策だと言わざるをえない。
資本コストを利用者が負担してくれるのならば、低い税率のまま投資効率の高い路線の建設が可能になる。資本コストの回収が見込めない路線は当然、建設されない。高速道路投資の運用成績を複式簿記で国民がチェックできるのならばより効率よく行えるだろう。
次は投資効率の計算方法が問題になる。その計算対象は3種類ある。利用料金収入・経済効果・国民への無償サービス提供量だ。この中で一番お手盛りになりやすいのが国民への無償サービス提供量である。サービスを受ける側はこれがいかに大きくても文句を言わないだろう。しかしその路線を利用しない国民にとってはどうだろうか。地域住民一人当たり年間一千万円の無償サービス提供など認められるはずもない。どんな僻村であっても年間百万円が上限だろう。それを超えるならば要請に応じて無料ヘリの送迎サービスを提供したほうがよほどましだ。
経済効果は、実はこれが道路建設の一番の目的なのだが、この計算にも官僚の恣意が入りやすい。我々は彼らの経済効果計算は額面の3割くらいにしか信じることはできない。
これらに比べて料金収入は冷酷だ。これをごまかしたら明らかに詐欺だ。担当者は実刑をくらい損害賠償すらも請求される。だから我々は官僚の作文を回避するために高速道路の有料化を要求するインセンティブを持っている。
しかし投資効果の回収量において料金収入を偏重すると、つまり料金設定を高額にすると利用量および経済効果が低くなり、総効果が減少する。これも市場の失敗のひとつだ。東名・名神高速道路の投資効果回収においてはこの市場の失敗が発生している可能性がある。
投資効率が高い路線において高速道路を建設すると、料金収入と経済効果の合計は確実に資本コストを上回る。いや、これはトートロジーだ。この合計が資本コストを上回る路線が投資効果が高い路線なのだ。
この高い投資効果と有料化へのインセンティブを勘案すると、料金収入単体で資本コストを上回ることに何の問題もないことが分かる。国が事業で儲けていけないという命題は共産主義的でナンセンスである。何度も言うが我々は資本主義国家の国民なのだ。利用者はサービスの対価(つまり料金)よりも効用が大きければその高速道路を利用するし、国は前述の3種類の効果の合計が資本コストを上回る投資をすればいいのだ。


無料化によるモラルハザード
本当は高速道路は有料で運営されることが望ましいことは理解してもらえたと思う。しかしそれを理解してもなお有料化に反対する人々がいるだろう。その反対派の一部は個人的な利害において無料化が望ましい人々だ。しかし一部は個人的な利害と無関係に無料化を要求するだろう。それはなぜか。
彼らは国が運営する事業のコストが割高だと感じているのだ。もしその事業が民間並みの効率で運営されたならば社会的効用を生み出すものであったとしても、公務員の非効率な労働ではとうてい割に合わないものになるだろうと危惧している。同感だ。
その危惧の下では、国が運営する事業が少なければ少ないほど社会的な効率が上昇することになる。無料化し(当然増税にも反対し)、国のキャッシュフローが減少すれば必然的に国が運営できる投資案件は減少する。そして国が生み出す社会的効用もこれ以上増大しなくなる。あまりいい状況ではないが、対症療法としては十分に理解できる。
だが国が自由になるキャッシュフローを十分に持っている、もしくは増税を敢行してキャッシュフローを増大させる場合にはこの無料化という対症療法は大きな副作用をもたらす。無料道路の建設理由は経済効果が十分であることだが、官僚はいともたやすく経済効果の粉飾を行うだろう。そして有料時のような料金収入による監視効果もなく、投資効率が低いが賄賂などの個人的欲求充足が期待できる路線の建設が大量に行われるだろう。
公務員が国家予算を無駄遣いしていることに憤慨する気持ちはよく分かる。僕も憤慨している。公務員という単語は馬鹿で愚鈍で無能な利己主義者の代名詞となっている。その公務員に無駄遣いさせないために国に税金などのキャッシュを渡すことを嫌う気持ちは本当によく分かる。だがその方法では無駄遣いを少ししか減らすことはできない。公務員は国債発行や年金基金の流用で無駄遣いを継続していくだろう。
我々が本当に行うべきは公務員の支出のチェックである。無駄遣いを発見し、無駄遣いを実行した公務員を懲戒し、行政を効率化させなければならない。その目的のために必要とされることは高速道路の無料化ではなく、有料制の維持なのだ。

*1:東海道新幹線世界銀行の融資で建設している。

*2:もっとも昔の日本の礎の一部はアメリカ合衆国の敵意によって破壊されていることも知っておくべきだろう。

*3:貨幣経済を適切に運用するためには国は絶対に多額の借金をしていなければならないという非常識はマクロ経済学では常識だったりする。

*4:日本のような島国では外国人利用者も確実に日本に経済効果をもたらしてくれるため十分に容認できるだろう。