ゆずれないものの交渉 その2

今日のまとめ
経済学の基礎にある概念の説明。
人はそれぞれ違った価値観を持っているが、経済学ではそれらの価値観の善悪を問うことはしない。というか善悪を判断するような機能を経済学は有していない。
だいたい人間の欲望は多様すぎてそれらを逐一判断するなんて無理。善悪を語るのは常に個人であって、その個人が自分勝手に善悪を語っているだけ。
だから「客観的に見てお前は悪だ」なんて語る奴の言葉なんて信じてはいけない。「俺はお前を悪だと思う」しか言えるはずがないのだ。


正義がないことは不正義ではない
経済学の非常に基礎の共通見解に「人はそれぞれ違った欲望(価値観)を持っている」というものがある。
これをわざわざ「経済学の」という断り書きをつけなければならないのは、「人は同じ欲望(価値観)を持つべきだ」と考えている人もまたいるからだ。この「持つべきだ」という思想は一見独善的でファシズムのように聞こえるが、そうとも限らない場合も多い。例えば法学においては「とりあえず人権思想くらいは共通価値観としておこうよ」となり、医学では「人命って尊いですよね?」となり、神学では「教義を統一しておかないと話にならん」となる。
もちろん「持つべきだ」という理想と「持っている」という断定は大きく違う。「そもそも人権思想に共通見解があるのか?」「人命のために全財産をつぎ込むのはやっぱり無理」「つきつめすぎると宗教戦争になるしなあ」と理想と現実のギャップがあることを認めざるを得ない。だから「持つべきだ」という理想を掲げている学問においても、その理想を人類に押し付けることにある程度の躊躇を持つことが普通だ。ここで「理想の状態にならない人間は死刑だ」と突っ走るとファシズムになってしまう。
ファシズムは甘美な果実だ。自分は完璧で最高の人格を持っていると感じることができ、他人との衝突もないストレスレスな生活を満喫できる。理想に合致しない他者は大量にいるだろうが、彼らにとってすればそのような愚か者は二級市民であり、同じ人間ではない。二級市民との衝突は増えるが、彼らの人格を受け入れるという苦痛に比べればどうと言うことのない信仰のための苦行に過ぎない。
経済学が人々の価値観に規定を持ち込まないですむ理由は、経済学がファシズムを嫌っているからでも、大人の包容力を持っているからでもない。経済学が他人の価値観を揺り動かす機能を持っていないからに過ぎない。
経済学は人の行動を予測する機能しか持っていない。それは例えるなら物理学のようなものだ。アポロロケットを月まで到達させるためには物理学による軌道計算が不可欠だが、物理学がロケットを軌道に乗せたのではない。ロケットをその軌道に乗せたのはあくまでも人間の意志だ。多くの人がロケットを飛ばしたいと願い、そのためにどのような推力をロケットに与えればいいかを物理学で計算し、それを人が実行したのだ。
人間の経済活動も同じだ。自分や他人がどのように行動するかは経済学で(ある程度)予測できるが、その行動を引き出すためにどのようなインセンティブを与えるかを決定するのは人間の意思だ。経済学はあくまでもツールでしかない。


魔法学校へようこそ
経済学はまだまだ歴史の浅い学問であり、その対象となっている人間は絶望的なほど複雑で精密な計算を拒否するカオスを含んでいる。必要な行動をとらせるためには初期状態を精密に観測し、正確な行動法則を適用しなければならないが、そのどちらも今の経済学には不足している。そのためになんとなくの予測しかできず、その点では物理学よりも気象学に似ていると言うべきかもしれない。
低い予測精度は逆に経済学をまるで魔法のように見せている。正しい予測ができることのほうが珍しいために、偶然に予測が的中してもそれが誠実な計算の結果であることを信じてもらえない。そして多くの場合、誠実に計算された予測は常識で考えたものとは大きく乖離している。さらにはしばしば意図した結果とはまったくの正反対の悪夢を招来するし、それどころか招来された悪夢が意図どおりのことすらある。これでは科学ではなく、呪術レベルの未開人の魔法だと思われてもしかたのないことだ。
しかし実際の経済学はまぎれもない科学だ。未熟で不正確でしばしば深刻な誤りを含んでいるが、科学なのだ。科学は無謬でなければならないと無邪気に信じている人々もいるが、完璧な科学などはこの世界に存在していない。数学*1ですら不完全性定理という矛盾を原理的に内包していることを忘れてはならない。
経済学の予測能力は、特に正確な行動法則を発見するという点で20世紀後半から驚異的な進歩を遂げている。その進歩の原動力のひとつはゲーム理論で、もうひとつは壮大で多くの悲劇を含んだ社会実験だ。しかし僕はさらにもうひとつの原動力を高く評価したい。それは経済学というものの概念の変化だ。


幸せは個人的な価値観だ
20世紀前半までの経済学の概念は「人間を幸せにしなければならない」という価値観を含んでいた。古くはベンサムの「最大多数の最大幸福」に始まって、マルクスの「労働者の解放」や帝国主義国家の「未開人への啓蒙」、全体主義国家の「富国強兵論」などだ。この価値観を否定するような理論や事象は無視されたり弾圧されることとなった。しかし20世紀のなかばあたりから概念が大きく変化した。
「幸せになりたい」という人間の欲望は所与のものであるとして、そこに経済学は立ち入らなくなったのだ。それによって「(世間が常識と考えている)幸せはほしくない」という欲望も経済学の予測範囲に含むことができるようになった。この変化は一部の保守的な人々からしたら不評なものだった。「楽園」を目指した社会主義者からはもっと強く非難された。しかしこの変化は経済学が呪術から科学へと進化するためにどうしても必要なハードルだったのだ。
この概念レベルでの変化によって経済学は社会への影響力を一部において喪失した。それまでは「最大多数の最大幸福」に反する政策を「それは経済学的に間違っている」と非難できたのだが、今はできない。利潤の追求を「反革命」と非難することもできない。未開の状態であることを是とする部族を「神の摂理に反する」と非難できない。「贅沢は敵だ」も言うことができなくなっている。
社会(というか社会で規範とされる倫理を信奉する人々)はその構成員に「このように行動しろ」と要求するときに、昔は「それが経済学的に正しいことだからだ」と責任を経済学に押し付けることができた。しかし今は違う。誰かに倫理を要求するときには「俺がそうしてほしいからだ」と自分の言葉で、つまり自分の責任において要求しなければならなくなった。

*1:ポパー的には数学は検証不可能なので科学ではないらしいのだが、僕は数学を科学だと思っている。ポパーを語れるほどポパーに関して詳しくないのでつっこみ不可だけど。