ゆずれないものの交渉 その3

今日のまとめ
多くの古い倫理が失われているが、新しい倫理が増えていて、結局は倫理の総量は増えている。倫理は他者から押し付けられることが多いが、新しい倫理は人間の自由を奪ってでも押し付けられるべき正当な理由を持っている。
それでもやはり生理的嫌悪が多くの倫理の基礎にある。他人に押し付ける正当性を持たない倫理もいまだ多く残っていて、それらは周囲の圧力という旧来手段でもって押し付けられている。


思考停止しない倫理
倫理を構成員に押し付けるための言い訳を喪失した道徳的な人々は「現代社会は倫理を喪失した」と嘆くだろうが、その見解は大きく間違っている。「他人に何かを要求するときには自分自身の言葉で要求しなければならない」という、今を生きている我々からすればなによりも重要と感じるほどの倫理を現代社会は獲得したからだ。
また、古い倫理のすべてが喪失されたわけではない。「人を(むやみに)殺してはいけない」から始まって多くの倫理は維持されている。生き残った倫理のほとんどには「なぜその倫理を守らなければならないか」言い換えれば「なぜその倫理を他人に要求してかまわないか」という理由が明確に説明されるようになっている。説明できない理不尽な倫理だけが除去されていったのだ。その理由をもってして我々は他人に「俺のためにこうしてくれ」と自分自身の言葉で要求し、要求される側も「その理由ならしかたがないな」と要求を受け入れるようになったのだ。
経済学はその概念を変化させることで、旧来の倫理の擁護者から一転して倫理を積極的に破壊する紊乱者へと立場を変えることとなった。その破壊の過程で、経済学的には維持されるべき倫理までをも崩壊させることもしばしば発生している。特に近年の中国が酷い状況で「汚染物質を垂れ流さない」という経済学的合理性から説明(要求)できるはずの倫理までが無視されている。このような過渡期の現象を見た懐古主義者は信用醸成の罠にはまり「経済一辺倒の社会を賞賛する経済学は悪だ」と見なすようになる。しかし本当は中国よりも日本のほうが経済学的合理性をより深く追求しており、より「経済一辺倒」なのだ。現在の中国の惨状は経済学的合理性よりも「中国を大国にするべきだ」という説明のつかない倫理を追求した結果だと見るべきだ。*1


市民だけが市民権を持っている
注意しなければならないのが、この「他者に要求できる倫理」は「自分自身に課す倫理」ではないということだ。「自分自身に課す倫理」は基本的には他者に押し付けることができない。他者はその倫理に共感できれば受け入れてもかまわないし、共感できなければ受け入れなくてもかまわない。しかしながら「自分自身に課す倫理」であるにもかかわらず多くのパワーゲームを通じて他者に強要させる場合がよく見られる。
「ペットを虐待しない」という倫理は他者に強要されることの多い典型的な「自分自身に課す倫理」だ。誰かが自分の所有するペットを虐待したところで、その周囲の人々は生理的嫌悪感以外の実害を被ることはない。しかし多くの人はその倫理を他者に強要する。ペットを虐待したい人はその強要を理不尽だと感じるだろう。この倫理は理不尽だが多くの先進国では重要な倫理として扱われている。
牽強付会の理由をつければ、ペットの虐待は奴隷の虐待に通じるからと言える。ペットを虐待する人は奴隷を虐待することにも倫理的な抵抗感を感じないだろうと類推し、奴隷の虐待を防ぐために必要な予防措置だということだ。奴隷(二級市民)の虐待も社会を構成する奴隷じゃない普通の人々(一級市民)には関係のない悪徳だ。二級市民を一級市民と差別してしまえば社会の安寧を損なうものではなく、経済学的合理性からは禁止するべき倫理規定ではないとなる。
だが奴隷の虐待(というよりある種の人々を二級市民であると差別すること)は経済学的合理性から見ても悪徳だ。一級市民もいつ二級市民にランクダウンされて虐待されるか分からないというリスクを考えると、奴隷の虐待を放置することは他人事ではなくなるからだ。しかし人間は人間以外の生き物に変化しない。だから奴隷の虐待とペットの虐待はやはり別物なのだ。


キライキライは大嫌い
「ペットを虐待するような攻撃性の高い残虐な人は、周囲の人間(一級市民)にも同様に残虐な態度をとるだろう」という理由も牽強付会でしかない。その人がペットの虐待をやめたとしても攻撃性がなくなるわけではないからだ。逆にペットを虐待することでその人の残虐嗜好が満たされて、人間に対しては紳士的に接することができるかもしれない。
こうしてぎりぎりつめていくと、やはり「ペットを虐待しない」という倫理は「偶然に多くの人が個人的に持っている生理的嫌悪」でしかない。そして個人的な生理的嫌悪を理由とした倫理は社会規範とすることを是認することは、多くの弊害をもたらすことは容易に想像できる。「無駄に食べ物を残す人に生理的嫌悪を感じるから連中を二級市民にしてしまおうぜ」は「ペットを虐待する人には生理的嫌悪を(略)」と生理的嫌悪を感じる人数以外にどう違うのか僕には説明できないのだ。
しかし「ペットを虐待すると多くの人に嫌われるからやめておこう」と自分自身の欲望を曲げる人が(多分)いる。要求される倫理が理不尽であると感じても、彼我の力関係によってはその強要に屈せざるをえないだろう。昔はもっとこの理不尽が横行していた。「黒人は差別されるべきだ」という倫理を当の黒人にまで強要できていたのだ。
そもそもなぜ他人に倫理を要求することができるのだろうか。いや、それ以前に例えば取引の対価のような要求できて当たり前に思えるようなものですら、なぜそれを他人に要求できるのかに答えることは非常に難しい。
取引の対価を支払うことは当人の自由意志に委ねられている。もし彼がそれを支払いたくないと考えたならば、いやむしろ彼がそれを支払いたいと考えたときのみ対価は支払われることとなる。
しかしほとんどの場合、彼は取引の対価を支払うことを選ぶだろう。支払いの動機は二種類に分けられる。一つ目は、彼は自分のことを対価を支払わない人間だと思われたくないということだ。もし彼が周囲の人々からそのように見なされてしまえば、次回からは誰も彼と取引をしてくれなくなってしまう。取引は彼にとって利益を得るチャンスであり、たった一回の支払わずにすんだ対価よりも今後の取引で得る利益のほうが彼にとって大きなものなのだ。
もうひとつの理由は、周囲の人間から制裁を受けたくないからだ。対価を受け取りそこなった取引相手が実力を行使して彼から対価を奪い取ったり、円滑な取引ができる環境を乱された共同体が制裁を加えたりするだろう。そしてそれは多くの場合、支払わずに住んだ対価よりも多くの被害を彼にもたらすことになる。
これら二つの理由が彼をして取引の対価を支払うように強制されていると感じさせるだろうが、ぎりぎり言うとこれは強制ではない。「人の意思によってなされる行動はすべて本人の自由意志によるものだ」ということも経済学の基礎にある共通見解なのだ。

*1:もうひとつの中国の現状説明は「拝金主義」という言葉で表現できるだろう。何度も言っていることであるが「お金」は経済の一部分でしかない。その一部分である「お金」に極端な重点をおけば、経済的合理性を大きく逸脱するのは当然の帰結だ。