ゆずれないものの交渉 その4

今日のまとめ
倫理は対立する別の倫理を弾圧しようとする。しかしいろいろな方法でその弾圧に対抗することができる。その結果、倫理は「互いに弾圧しあわない」という倫理でもって停戦条約を結んだ。
しかし心の底では互いの倫理をキモチワルイと感じている。しかし互いに殺しあわないためには互いのキモチワルイを我慢しあわなければならない。
キモチワルイと感じる心のままに行動すると原理主義に陥り、むちゃくちゃな結果を招来してしまう。
猫最高!


倫理戦争
倫理も強制されているように感じるかもしれないが、従うも従わないもこれまた自由意志によっている。そして倫理に従わない人間には無視や制裁といったペナルティーが待ち受けているのも同様だ。
この原則を裏返せば、倫理を他人に押し付けるときの方法となる。自分の信じる倫理に従わない人間に対して無視や制裁を加えればいいのだ。ただし制裁の発動に関して、若干のルールの変更が生じる。
Aという倫理と対立するBという倫理があったとしよう。倫理Aを信じる人々が倫理Bを信じる市民Cに倫理Aに従うことを要求した場合、市民Cは倫理Aに従うことを拒否するかもしれない。倫理Aを信じる人々は市民Cに無視という制裁を加えようとしても、市民Cにとっては倫理Bを信じる人々が彼との付き合いを続けてくれる限り大きなトラブルと感じないだろう。
無視という手段で市民Cを転向させられなかった倫理Aチームは市民Cに暴力による制裁で脅迫を加えるかもしれない。市民Cには二つの選択肢が与えられる。倫理Bチームに援護を頼むか、倫理Aに転向して今度は倫理Bチームから迫害されるかである。ここでは倫理Bチームに援護を頼んだことにしておこう。
今度は倫理Aチームが決断を迫られる。市民Cの説得をあきらめるか、倫理Bチームと戦うかである。戦うからには勝たなければならない。倫理Aチームは彼我の戦力を比較する。戦闘員の数は?戦闘員は士気は?別の倫理チームは援軍に来てくれるか?もし倫理Bチームの戦力が極端に強ければ倫理Aチームは全滅させられてしまうかもしれない。
ただし倫理は内心の問題でもあるので、殺されない限りは内心における倫理まで消滅させられるわけではない。単に倫理Aチームの構成員の目の前で自分は倫理Bを信じているとの信仰告白を行うことができなくなったり、倫理Aにおける行動規範を遵守しなければならなくなるだけだ。
もちろんこれは内心の自由表現の自由の侵害だが至極普通に見られる現象だ。たとえば「人を殺してはいけない」という倫理は社会の中で多数派であり「殺したいときに殺せばいい」という倫理を弾圧している。そしてこの弾圧は「公共の福祉のためには倫理を弾圧してかまわない」という多数派の倫理によって正当化されている。


無倫理主義者は存在しない
倫理を弾圧する方法もまた倫理によって規定されているのだが、この弾圧のための倫理は時代によって変化する。これが変化する時期には社会の大きな混乱が起きる。いや、社会を混乱させている力が弾圧のための倫理を強制的に変化させていると見るべきかもしれない。
倫理を変えさせる力はいつも二つの力がせめぎあっている。現在の倫理を強化する力と弱めようとする力だ。多くの場合、ある倫理を信奉している人はその倫理がきちんと人々によって守られていないと感じている。そのために彼は倫理の内容を厳しくしたり、守られなかったときの罰則を強化することを願う。そのようにしても彼は倫理の崩壊がようやく守られたと感じるだけで、倫理が強化されたとは思わないだろう。そしてある倫理を強化することは対立する倫理を弱体化させることにつながる。結局のところ倫理の総量自体はほとんど変化していない。どちらかというとゆるやかに倫理の総量は増えているのが現在までの歴史の流れである。


自由はキモチワルイ
現代においてもっとも厳しい内容を持ち、そしてもっとも罰則の厳しい倫理は「他人の自由を尊重する」ことだろう。これが倫理であることに多くの人は気づいていない。そのためにしばしば破られ、手痛い罰則を被るはめに陥っている。
他人の自由を尊重することは非常に多くの生理的嫌悪を味わう行為だ。他者が好き勝手に行動し、自分が持っている倫理を他人がいともたやすく踏みにじる姿を見ることはとても悔しいことだ。自分は倫理を尊重し、それがたとえ自分の利益になる行動だとしても倫理を逸脱する行為を自制しているというのに、彼は利益第一主義で野放図に生きているように見えるからだ。
自分の行動も同様に他者から生理的嫌悪を抱かれていることを忘れてはならない。どんな些細なことからも生理的嫌悪というものは発生する可能性があり、その感情を止めることは人間にとって不可能なことだ。
生理的嫌悪を解消するための手段のひとつはその行為をやめさせることだが、彼はその行為が彼にとって生理的嫌悪を引き起こさないからしているのであり、それをやめるように強制されることはなかなか納得できないだろう。第一、逐一他人の生理的嫌悪に反応していたら、すぐに生きていることすら許されないと言う状況になることは目に見えている。それでも行動を規制されたとしたらもはや彼にとってそれは死活問題だ。文字通り命をかけて、倫理による弾圧と戦わなければならなくなる。
「他人の自由を尊重する」という倫理は「生理的嫌悪を我慢する」という気高い倫理である。そしてその倫理は我々が殺しあわずに社会を運営するという経済的合理性を備えている。それは何億人もの、何十億人、歴史を遠く遡れば何百億人かもしれない膨大な犠牲を支払うことでようやく人類に根付き始めた倫理なのだ。


犬はともかく猫は高貴な生き物だろ?
そうは言っても僕自身は「ペットを虐待すること」に生理的嫌悪を抱いている。もしも僕の友人がペットを虐待していたら僕は彼との交友を考え直すくらいにおぞましい行為だ。それどころかペットを業として販売することにも生理的嫌悪を感じる。入手が困難な生物ならまだ許せるのだが、犬猫といったメジャーな生き物ならば保健所で毒殺の順番待ちをしている連中がいるのだ。もし犬猫を愛しているのなら彼らを引き取ることが先決だと感じるのだ。
しかし一方で僕は熱烈な動物愛護原理主義者からは生理的嫌悪を抱かれる思想を持っている。所詮ペットはけだものであり、彼らを人間同様に扱ったりねこっかわいがりするべきではないと考えている。犬は家に上げるべきではないと思うし、好きなだけ餌を与えて肥満させてはいけないと考えている。実験用動物も積極的に肯定している。
ペットに食餌制限を課すことは、そのペットを苦しませることでもある。これは虐待なのかそうでないのか。避妊手術は虐待なのか。これを虐待だと断じる論理も分かるが、虐待でないと論じることも可能だ。もっと原理主義を進めよう。動物が繁殖することは彼らの幸せなのだから積極的に繁殖させるべきだ。そしてすべての市民は動物を飼って、なおかつ繁殖させなければならない。
だから僕は動物愛護という倫理を社会に強制させることに反対する。公共の(というより人間の)福祉という制御機構を持たない倫理すべての強制に反対する。各人がそれらの倫理を個人的に信仰することはもちろん彼らの自由であり権利だ。しかしそれと同様にそれらの倫理を持たないこともまた個人の自由であり権利であり倫理なのだ。