第四次産業の定義

第四次産業をインターネットで検索すると、多少の件数がヒットする。
「第4次産業」で196件、「第四次産業」で180件である*1。意外と多いと考えるか少ないと考えるかは難しいところである。しかし、その中で第四次産業を詳細に研究し解明しようというサイトは皆無である。
そのうちの7割くらいが情報産業を第四次産業として定義しようという内容である。しかし、その多くはIT産業をそういった新しい分野であると権威付けするために、とりあえず言ってみただけという感のある内容である。僕自身はIT産業は産業革命と並び称されるだけのものではあると考えているが、結局は第三次産業の生産性の向上であると考えている。僕の考える第四次産業はもっと本質的な違いを持っており、現時点ではIT産業ほどは金にならないものではないかと考えている。


僕の考える第四次産業で生産される財は、いわゆる知的所有権が適用される財が基本となる。知財という言葉が一番適当なのかもしれないが、ほかにもミーム*2、情報、第四次産品などといくつかの言葉が似たような言葉として挙げられる。ここでは、より財としての概念をはっきりと持っている知財を第四次産品として使用していきたいと思う。また、財としての概念を必要としない場合にはミームという単語を使う
これらの財は、人間の精神活動によって生み出され、ほとんどゼロに近いコストで複製が可能である。
主な第四次産業としては、学術研究・発明発見・研究開発・報道・著作物の製作*3が挙げられる。通貨政策も第四次産業ではないかとも思うのだが、まだ不明である。
第四次産業で生産された財は、第二次・第三次産業によって加工流通されることとなるだろう。


詳細な定義に入る前に、第一次から第三次にかけての産業の定義をもう一度見直してみたい。そして、その中で今までの定義とは違った形で定義しなおすべきだと考えている部分も出てくる。
一般的な定義としては以下のようになる。
第一次産業:農業・漁業
第二次産業:工業・鉱業
第三次産業:サービス業・流通業
僕はこの分類でひとつだけどうしても腑に落ちない部分がある。それは鉱業が第二次産業に含まれているという点だ。鉱業は第一次産業に含めるべきではないだろうか。
第一次産業とは自然から財を収集する産業である。そして収集された財を加工するのが第二次産業で、消費者の手元に届けるのが第三次産業となる。この定義方法を使えば、鉱業と工業では本質部分が大きく異なるのがわかるだろう。そういった意味で鉱業を第一次産業に分類したいのだ。
また、調理が第三次産業に含まれていることも少し不可解である。魚をさばく行為ひとつをとっても、漁村の浜辺で行われれば第一次産業になり、水産工場で行われれば第二次産業、レストランの厨房でだと第三次産業になる。本来これは第二次産業に分類されるべき行為ではないだろうか。
このように産業の分類が輻輳する原因の一番大きなものはそれぞれの産業従事者を統計で把握するための技術的な問題だろう。一連の作業のどこまでを第一次に、どこからを第二次、第三次に切り分けるかは、まったく不可能ではないかもしれないが、到底やってられないほど面倒な作業である。
しかし学問の世界ではこれを厳密に分類する意味があるのではないだろうか。その分類により各産業の特徴が浮き彫りになり、世界のより正しい把握に近づくのだと思う。
ここでは特に第一次産業の特異な性質について思考を深めたい。
第一次産業は、自然由来の、本来誰のものでもない物質を誰かの財にしてしまうという行為である。言い換えれば、物質に所有者の名前を書き込んでしまう行為だ。近代経済学において価値とは、主体(法人および自然人)間の取引において発生するものであるが、第一次産業の本質は自然と主体間の関係であり、取引とはいいがたい部分がある。極端な表現をすれば無から有を作り出す行為である。
この不思議な行為を社会的に承認するためには法律が必要になる。
「この土地の使用権は誰それのものにしましょう」という法律だ。この法律がなければ僕だってウニやサザエが採り放題だし、田畑の作物の所有権だって誰のものか怪しいものになる。そして国際法を無視すれば天然ガスだって掘り放題だし、イラクの油田の採掘権を武力で確保することができる。
しかし法律がなくても、第一次産業で収集される物質は物質である限り実効支配が可能である。田畑を環濠や城壁で囲んでしまったり、理論的には空気や水だって支配できないわけではない。大洋の水産物でさえも、水域に近づく漁船を撃沈してまわれば誰にも手を出させなくすることは不可能ではない。もちろん、これはよほど価値の高い物質でない限り割の合わない行動であることは否定できないが、できるかできないかといえばできるのである。
第二次・第三次と産業が消費者に近づくほど実効支配の容易さは増大する。流通業やサービス業で生産される価値を他人が掠め取るのはかなり困難になってくるだろう。


ここで僕の考える第四次産業の特徴を考えてみよう。
第四次産業もまた、第一次産業と同じく無から出所不明な有を作り出す行為である。
実在する物質が介在しなくても、多くのミームには価値があり、取引の材料となりうる。しかしその財は実効支配が不可能である。たとえ新しく作り出されたミームを、作り出した本人が心の奥にしまいこんで他人に漏らすことがなかったとしても、まったく同じものを他人が作り出すことを阻止することはできない。
そしてその財はその財の効用を引き出してもその財が消えてなくなることはない*4。さらにその財は無限に複製が可能である。そして無限に複製された時点で取引可能な財としての価値を失うことにはなるかもしれない*5。経済学においては有限の財しか扱うことはできないのだ。ただし、よほど単純なミームでない限り、複製や保存にはごくわずかではあるがコストがかかるため、一応空気や水程度には経済学で扱える財にはなるだろう。
知財は作成するためにコストがかかり、利用価値もある。社会をより豊かにするためには知財はもっともっと生産されなければならない。そして社会がより効率よくなるためには、流通される知財はより洗練される必要がある。そういったミームを進化させるためには、ミームを進化させる作業を個々人が行う努力、すなわち報酬が必要になる。だから第四次産業を成り立たせるためには人為的なシステム、具体的には法律による保護が必要になる。
知財は自家消費の場合を除き、加工・流通という第二次・第三次産業を必要とする。特殊な条件下では第二次産業を経由せず、直接流通され消費されることも可能だろう。この生産流通消費にいたる機序を見てみると、本当は第四次という順番が与えられる産業ではない。第一次産業の変形、否、第0次産業と名づけることのほうが正しいのかもしれない。しかし、四番目に発見された産業形態として第四次と呼ぶことは便宜上仕方のないところだろう。
知財の特徴として、無限に複製可能であると前述したが、種類もまた無限である。
それ以外の産業における財も、品質の微妙な違いを考慮すると無限であるということはできる*6。しかし、これらの財では微妙な品質の違いはできるだけ小さくすることが求められるため、実質的には財の効能の種類は有限である。しかし、知財は効能が違うからこそ価値が出るため、究極的に種類が無限であることが要求されるのである。
こういった第四次産業の特徴を理解することが、今後、第四次産業を発展させるための礎になる。
第四次産業、知識に関する産業と聞いた場合に多くの人は、それが新しい産業であると感じるだろう。そして新しい産業によくあるように現在の社会ではその育成が社会によって制限されており、だからこそ規制緩和が必要なのだと短絡するだろう。だが僕は逆のことを主張する。第四次産業の規制がゆるすぎる。第四次産品の利用はもっと規制するべきだと。
なぜ第四次産業を保護しなければならないか。どのように法律で保護するべきか、法律の保護が及ばない部分ではどのような自衛策を講じるべきか、どのように第四次産業に高い生産性を与えていくべきか。その知恵(これこそ第四次産品だ)がこれからの社会の成長のために必要となっていくだろう。
そのためにはまず第四次産業の性質について知らなければならない。知識は最初の手段なのだ。

*1:この検索結果は2004年4月19日のものである。その2年半後である2006年10月18日現在で871,000件がヒットした。さすがにこの数では中身の詳細を調べるのは無理である。情報産業を第四次産業として分類しようという内容が大部分を占めるみたいだということしかわからない。「第4次千葉市産業廃棄物処理指導計画」などというのも混じっているのはご愛嬌である。

*2:リチャード・ドーキンス著「利己的な遺伝子」参照。この本は生物学についての書籍であるが、経済学としてもすばらしい書籍である。すばらしい真理は複数の分野において応用が可能なのだ。科学的な考え方の基本こそがこの本の本当の主題なのかもしれない。だからなにはなくともこの本は読んでもらいたい。僕は高校生のときにこの本に出会ったのだが、この出会いがなければ経済学の道に進むことはなかったかもしれない。人生を変える一冊だった。

*3:通常、著作物には制作という漢字を使うべきなのだが、ここでは財を製造するという意味合いで製作という漢字を使うことにした。

*4:後に出てくるトリガー直接知財では、財の効用が消失する場面が出てくる。

*5:すべての人間が同じ情報を所有している場合、取引は実行される必要がなくなる。しかしその情報が価値を失うとは限らない。その情報の所有者はその情報を活用することで利益を得ることができる。

*6:極言すれば米の一粒一粒が、小麦粉の一粒一粒が微妙に異なった質量を持ち、成分の配合も微妙に違っている。ここまで極端な例でなくても、果物の選果場を見学すれば一つ一つの生産物が一定でないことにどれだけ農家が困っているかが実感できるだろう。