直接知財の効用面での分類


最初の情報は警告音であった*1
危険な野獣に襲われたとき、自然の猛威が迫ってきたとき、自らの命は絶たれたとしても多くの同胞の命が救われるのならば、それはその種族の生き残り戦略に貢献することになる。これは多くの生物に本能という形で備わっている。
この情報を受け取った個体は、その情報を活かして警告音から遠ざかるように行動し、それが個体の生命維持に貢献する。つまり警告音には経済的価値があるのだ。
しかしこれは知財としての要件を満たしているのだろうか。保存複製再利用がきわめて限定的にしかなされていない。たとえば台風が近づいたときの避難命令も台風一過の翌朝には何の効力も発揮しない。このような実体性のきわめて薄い情報は財として認められるべきだろうか*2
いや、情報とはすべからくそのようなものではないだろうか。どのような情報も、それが役に立つ状況は限られている。ある人にとっては何の役にも立たない情報が、別の人にとっては人生を左右するほどの情報になる場合がある。今日聞いた言葉が十年後に意味を成す場合もあるし、昨日のうちに聞いておきたかったという場合もある。逆に苦労して手に入れた情報が一生役に立つ場面に出くわさない場合だってある。それでも、一生役に立たない可能性があるからといって、情報の入手をすべて拒むことは馬鹿げている。それならば情報はすべて直接知財として扱うべきなのだろうか。
また、避難命令を伝達する仕組みはそのまま直接知財の流通システムそのものである。口頭であったり、テレビラジオなどの流通媒体であったりと、すべての情報流通システムが警告の伝達に使用されうるし、そこで使われるすべての媒体は警告以外の情報を伝達することが可能である。もしも警告音が直接知財でないとしたら直接知財の流通システムそのものが直接知財とは無縁なものとなってしまい、直接知財そのものの存在が否定されてしまう。
こういった疑問にもかかわらず、直接知財は実在する。ならば警告音は直接知財なのだろうか。僕は警告音は単体では直接知財たりえないと考えている。
「警告音が聞こえたら逃げろ」というノウハウこそが知識だ。そのノウハウがなければ警告音は単なる雑音でしかない。
多くの動物は大音量が聞こえたら、たとえそれが同種の個体が発する音ではなくても逃げるではないかという指摘は的外れだ。それはその動物の本能や経験に大音量からは逃げたほうが安全だというノウハウが組み込まれているからだ。逆にそのノウハウがなければ逃げ出すことはできない。
たとえば強力な紫外線は皮膚癌のリスクを高めるが、それを警告する太陽の強い陽射しから身を遠ざけるべきだという本能は人間には組み込まれていない。しかしその知識を有している人間は初夏の太陽に素肌をさらすことを極力避けようとする*3。また、高緯度地方における宇宙からの高エネルギー粒子の飛来は紫外線の何万倍も危険だが、それを人間は直接感知できるわけではない。本当ならば巨大なオーロラが発生するときには岩盤の下などに身を隠すべきなのだ*4
ここでひとつの方向性が見えてくる。
一つ目は警告音が聞こえたら逃げろというノウハウが直接知財として流通されうるという構造だ。このノウハウは各主体の中で間接知財として保存される。
二つ目は逃げるという行為を誘発するためのトリガーとしての警告音だ。この直接知財はトリガーとしての性質としては、限られた範囲内でしか保存再利用はされない。恒常的に保存されうるのは、「こういったトリガーが発せられました」という事実の保存のみであり、この時点でノウハウや単なる知識としての直接知財に変化している。
昆虫ではこういった直接知財の流通は警告音と交尾のための誘引信号、種によっては食餌の存在のトリガーのみが伝達される。ノウハウは本能でしか存在せず、遺伝子によって伝達されている。
しかし脊椎動物、ひいては哺乳類になるとノウハウ・トリガーの種類は飛躍的に増大する。さらにトリガーだけでなくノウハウも個体間のコミュニケーションによって伝達されるようになった。
そして人類である。
人類も最初はこのノウハウとトリガーの2種類の直接知財に頼って生きていたのかもしれない。しかし人はパンのみで生きるわけにはいかない。人が生きるためには娯楽が必要である。
極論すれば娯楽は生産活動になんらの寄与を果たさない。しかし人は娯楽を欲する。それは人の欲求の多様性の表れだ。人は多様な欲求を満足させるために文明を発達させてきた。もしも娯楽を必要としない程度にしか人に欲求が与えられてなかったならば人はここまで文明を発達させることはなかっただろう。それは脳を発達させるために肥満という宿業を背負ったことに似ているかもしれない。しかしそれは人類にとって必要不可欠なものだったのだ。節制によって肥満を忌避する個人がいると同様に娯楽を節制する個人は存在するだろう。おかれた環境が肥満を許さない場合と同様に娯楽も許さない場合もあるだろう。しかし人類を見た場合に娯楽を否定してはいけない。娯楽は人類とは切り離すことができないものなのだ。
道徳論を持ち出さざるを得なかったのは、ノウハウ・トリガー以外の第三の直接知財があることを理解してもらいたかったからだ。
美しい絵や音楽、低俗な娯楽番組、これらまったく生産的でない直接知財も十分に価値のある情報なのだ。これらの直接知財は連日大量に流通され続けている。これらは一過性のもので、その知識や経験は今後の人生になんの役に立たないかもしれない。しかしこれらを消費するために人間は日々を過ごしているのが真実なのかもしれない。


これらをそれぞれノウハウ直接知財、トリガー直接知財、娯楽直接知財命名しよう。
ただしこれら三種類の直接知財の明確な切り分けは困難だ。たとえば災害に関する報道も受け取る人間にとっては自分が避難するべきかを判断するトリガー直接知財であるし、事が過ぎ去った後や遠く離れた無関係な人にはノウハウ直接知財になる。不謹慎な言い方ではあるが、対岸の火事とあるようにそれを知識欲を満たしてくれる娯楽直接知財と受け取る人間もいるだろう。
これら直接知財の流通形態は情報を発信する側が選択することが普通である。
トリガー直接知財ならば迅速性、時には秘匿性を重視した媒体を選ぶだろう。ノウハウ直接知財は正確性、娯楽直接知財は経済性が重視されるだろう。流通に関しての論は別章で取り上げていきたい。
しかし直接知財がどのような効用を発揮するかは受け手の主観にすべてがゆだねられている。警告音の例にもあるように、同じ情報であっても受け手によってトリガー直接知財となったり、そのほかの直接知財になったりする。そして重要なことだが、送り手は直接知財であると認識して発信したとしても、受け手側がその情報になんら価値を見出さなかった場合、それは知財ではなくなってしまう。財とは取引されるべきものなので、取引されなかった財は財ではないのだ。
例を挙げると、それは郵便受けに無造作に突っ込まれた広告である。この広告を手にした人のうちの少数は、その広告に載っている商品を購入するだろう。しかし、大多数の人は広告の文面に目を通すことすらせずにゴミ箱へと直行させるだろう。その場合は直接知財(紙に印刷されているならば間接直接知財だ)は取引されなかったとみなすべきだ。
また逆に、発信者が発信したつもりのない情報も直接知財になりうる。その際たるものは犯罪者が現場に残してしまっている数々の証拠だろう。これを取引と言ってしまっていいのかは大いに疑問が残る部分である。むしろこの次に述べる自然からの情報採取の範疇で捕らえるべきかも知れない。
自然からの情報採取の代表は天気である。朝、家を出たときにどんよりと曇っていたら、傘を取りに玄関に引き返す*5といったことは誰しも経験しているだろう。雨雲がトリガー直接知財の役目を果たしているのだ。第四次産業では第一次産業と同様に無から有を作り出すことができるため、主体間の取引以外の流通が発生する。
実際の生活を見てみると、直接知財の大部分はトリガー直接知財である。そしてその大部分は、取引とは名ばかりで金銭の授受が発生しない伝達過程であることが多い。これは間接知財の大部分が常識間接知財であることによく似ている。それならば第四次産業を分析することは、経済学ではなく社会学や心理学でなされるべきだろうかという疑問がわく人もいるだろう。しかしこれは経済学で分析されるべき分野であり*6、今までは産業構造に大きな影響を与えていなくても、今後は大きな影響を与えると考えられる。
その予言の大きな前提として、現代社会に流通しているトリガー直接知財が膨大な量になっており、人間の生物学的な処理能力を逸脱しているということが挙げられる。そのため、受信能力の負担を減らすために、受信者にとって価値があるだろうと考えられるトリガー直接知財を編集して送信するという産業が成立する。その代表例はマスコミだ。マスコミは大量のトリガー直接知財を入手して、その中で大衆に影響が大きいもの、つまりは受信者が価値を認めそうなものを限られた情報流通量の枠内で送信し、対価を徴収している。また会員制の情報サービスなどでは、さらに高度な取捨選択が行われた直接知財を取引している。このような情報産業は今後ますます増えてくることが予想される。そしてそれらの産業がより効率よく運営されるためには、直接知財の性質をよく知ることが必要なのだ。

*1:本当の最初は誘引信号かもしれない。有性生物でこの信号を持たない生物は皆無だろう。しかし、警告信号は無性単細胞生物においても有効ではないかと思うので、やっぱり警告信号が最初だろう。

*2:マルクス経済学によると、サービス産業は実物を伴わないために産業としては認められないそうだ。21世紀の日本においてもこんな不思議なことを真顔で語る学者がいることに驚くのを通り越してあきれてしまう。

*3:皮膚科医師会のメンバーで初夏にゴルフ大会を行ったとき、示し合わせたわけでもないのに全員が長袖と手袋を着用していたという笑い話がある。もっとも当人たちはいたって真剣であり、そのリスク回避の努力はそれなりに効果があるのだろう。

*4:不導体である空気分子を発光させるほどのエネルギーがあれば、DNA分子に損傷を与えることは簡単である。地球磁気に守られた低緯度地方でも宇宙線の影響は大きい。はっきり言って劣化ウランの民衆への影響とは桁がいくつも違う※4.5しかし低緯度地方の自然放射線の2倍程度の放射線を浴び続けたほうが、DNA修復能力が刺激されて長生きできるのではないかとの統計データがあるので日常生活で神経質になる必要はない。どうせ逃げられないんだし。

※4.5脚注の脚注になるが、劣化ウランが燃焼して発生する酸化ウランは人体に有害だろう。酸化ウランは人体に吸収されうるし、そのうちの1%未満であるが強力な放射能を持つU235が含まれている。U235が含まれなかったとしても鉛と同様の重金属による化学的毒性も無視できないのではないか。化学的毒性だって十分に非人道的だ。劣化ウラン弾の攻撃を受けた兵士にとっては、有害性が認識できる程度の暴露量になる可能性はあると思う。しかし兵士にとっての最大の危険は劣化ウラン弾の持つ運動エネルギーと燃焼エネルギーであることは論を待たない。

*5:南の島の大王ならばそのまま家の中でお休みしてしまうかもしれない。同一の情報であっても、人によって惹起される行動は違ってくる。

*6:もちろん経済学以外の側面で分析されることが間違っているわけではない。