やりたいことをやりたいようにやれ

僕の座右の銘である。
人はやりたいことをやりたいようにやらなければならない。これは権利や扇動ではない。義務の言葉だ。人は人として生まれたからには、それぞれの自由と真実と尊厳のために生きなければならないのだ。
これは社会を破壊する思想ではない。逆に個々人がそれぞれの幸せのために工夫と努力を重ねることで神の見えざる手が働き、より豊かな社会へとつながっていくことは21世紀に生きる我々にとっては常識だろう。見知らぬ誰かのために犠牲になれと強制されるような世界なんてくそくらえだが、ぼろぼろに崩壊した社会で、一人だけ幸せなのもやっぱり居心地が悪い。
やりたいことをやりたいようにやるということは、つまるところ個人の経済学的合理性に基づいて行動するということだ。
経済学を学んだ人間には常識だが、経済学で扱われる利益はお金だけではなく、非常に多くのものを含んでいる。世の中にはお金では買えないものはたくさんある。そしてお金でしか買えないものもたくさんある。で、利益という言葉を使うとお金の話と混同しやすいので効用という単語が経済学では使われることになる。


さて、経済学的合理性をもった行動とはどんなものだろう。
典型的なものが日々の労働だ。毎朝眠い目をこすって早起きし、机にしがみついたり、下げたくない頭を下げたり、へとへとの体で夜遅くに家に帰ってくる。この膨大なコストよりも労働に対する報酬が大きいと考えるから働くのだ。もしコストが大きすぎたり報酬が少なすぎたりしたら転職を考えるようになる。転職のコストが大きすぎたり、期待できる報酬が小さかったら転職をあきらめる。つまりは割に合う行動ということだ。
その労働で人々は二つのものを得ることになる。お金とお金ではないものだ。でも説明が面倒くさいのでここではお金ではないものだけにまとめてしまおう。どっちにしろお金でお金ではないものを買うのだから一緒のことなのだ。
その得たものを自分や家族を養うことに使ったり、生活以外の自分の趣味につぎ込んだりする。
しかし、なぜ自分や家族を養わなければならないのか。また、自分の趣味といえば聞こえがいいが、つきつめれば無駄とも言えることに苦労して得たお金をつぎ込むのか。
あからさまに無駄な行為ではないだろうか。どうせ人は百年程度で死んでしまうのだし、それならば今日を生きる意味なんてないのではないか。生きることに、苦しい労働の成果をつぎ込む価値があるのだろうか。
ある。なかったらわざわざこんな手の込んだ苦労をしょいこんだりしない。結局、無駄になってしまうことはわかっているのだが、そうしたいからそうするのだ。
いくら虚無的な理由を並べても、やっぱり人生は楽しい。だから自分を養うのだ。
家族にもこの楽しみを味わってほしい。だから家族を養うのだ。
おいしいご飯を食べたり、温泉でくつろいだり、恋をしたり、クロスワードパズルを埋めたりと無駄だけど楽しいのだ。無駄だから楽しいのではない。その楽しさの理由が説明できないから無駄に思えるだけなのだ。人によって楽しさを感じるものが違うから、他人の幸せの源が無駄に見えるだけなのだ。
結局、人は経済学的合理性に基づいて行動するが、その根本の動機は不合理極まりないものなのだ。
その不合理の存在を認めなければならない。それはどう見ても実在するものだからだ。すべてが無駄なことならば、せめて自分のやりたい無駄をやるべきなのだ。


しかし、やりたいことを直接やるわけにいかないことは多い。
絶海の孤島にでも住んでいるのでない限り、自分や家族を養うためにはお金という媒介物が必要になる。そしてそのお金も強盗などで調達するわけにもいかない。
いや、強盗という行為自体が好きで好きでたまらないのであればそれもいたし方はないのだが、大多数の人は強盗よりも通常の労働という無用の軋轢を生まない方法を好むだろう。さらに言うと犯罪行為はたいていの場合、家族を養うという目的自体を危うくしてしまう。
この論法に従うと冒頭の言葉は以下のように解釈できる。
やりたいこと(人生を楽しむ)をやりたいように(社会のルールに従って)やる(稼いだお金をつぎ込む)。
これは非常に健全な人間の営みであり、人は胸を張ってこの原則を貫かなければならないのだ。


しかし、この原則に従っているようで実は従っていない行動がある。その中で一番わかりやすい例が深夜の暴走族である。
他人に不快感を与えることで快感(効用)を得る。
この行動原理自体は不合理でも不可思議でもない。
嫌いな人間を殴りたいと思うことは、まあまあ普通の感情である。殴るまではしないものの嫌味を言ったり、わざと手伝わなかったりするくらいは誰しも経験があるだろう。他人に不快感を与える行為は何物も生まない(無駄)ように見えるが(実際無駄なことは多い)、しばしば満足という効用を得ることができる。そして相手が態度を改めれば、もっと現世的な利益が得られるだろう。
だから騒音を撒き散らして他人の安眠を妨害する行為は彼らの中では正しく経済学的合理性に基づいた行動なのだ。
しかし彼らは間違っている。第一に彼らは迷惑をかけるべき相手を取り違えている。彼らが本当に憎んでいるのは、親や教師、そして意のままにならない自分自身だろう。決して国道沿いの名前も知らない一般家庭の人々ではない。
もし親や教師が憎いのならば直接殴ればいいのだ。殴られた人は痛みを避けるために彼らに対する態度を改めるかもしれない。また、これ自体は傷害という犯罪行為だが、殴られた人の態度が悪かったのであれば情状酌量の余地もある。しかし、いくら騒音を立てて関係のない他人を痛めつけても事態は改善しない。
さらに、彼らは自分の行為に対してどのような代償を支払わなければならないかを理解していない。たとえば民事訴訟が行われた場合、慰謝料と損害賠償を合わせて一人当たり10万円だとしたら千人の安眠を妨害したとして1億円になるのだ。連日連夜にわたる騒音行為ならば、とっぴな数字ではない。もしその金額を知っていたのならば彼らはそれでもあえて暴走行為をすることができるのだろうか。
こういった若者の無軌道な行動を精神医学では行為障害と定義づけているらしいが、こんな程度の判断のぶれで精神病に分類されるのであれば、世の中、正常な人間など一人もいなくなる。彼らの罪は単純に、自身の欲望に対する方法と結果の無知と想像力の欠如なのだ。自身の欲望に対する真摯な態度が欠けている。つまり、やりたいことをやりたいようにやっていないのだ*1


もうひとつ例を挙げてみよう。
それは名誉が好きな人に顕著に見られる事例だが、「夢を語る」という行為にはしばしば虚偽が入り込む。
「夢を持っている」ことは人々の尊敬の対象となりうる。だから「夢(それもわかりやすいもの)を持っている」ふりをする人がいる。「やりたいこと」が夢であるはずなのに、他人が尊敬してくれるような夢を、本心ではたいしてやりたいことではないはずなのに、自分の夢としてしまう。それは幸せへの階段ではない。
なぜ「夢を持っている」ことは尊敬されるのか。それはその人が夢のために多大なコストを支払う勇気を持っているからだ。
しかし、偽物の夢には本当に大きなコストを支払うことはできない。だいたいにおいて、途中で我に帰り、あきらめてしまうだろう。コストを支払う勇気を持たずに虚像への尊敬で満足することは人間の尊厳を著しく汚す行為だ。もし彼が自分を直視する勇気を持つならば、そんな嘘にまみれた人生よりも、無名でも誠実な人生を選ぶだろう。
第一、夢を持たないことは勇気の欠如ではない。夢を持たないことはすでに満ち足りているということであり、敗北主義者の証拠などではないのだ。


やりたいことをやりたいようにやれ。
この至極簡単で快楽主義的な言葉は、本当は真逆であることはわかってもらえたと思う。
これは自分を直視する尊厳(やりたいこと)と他者を認める寛容(やりたいように)と自由を貫く勇気(やれ)の言葉なのだ。そして、自分自身が本当に幸せになるための手段となる言葉だ。
そして他者もまた、尊厳と寛容と自由を有した存在であるということを忘れてはならない。我々人間はすべからく、やりたいことをやりたいようにやるべきであるし、そして、できるのだ。

*1:見方によっては、「やりたいように(後先考えるのは面倒くさいから考えないで)」なのかもしれない。しかし、本当のところは無謀な行動がかっこいいという価値観、つまりは名誉を守るために考えていないふりをしているのだろう。