ナショナルミニマム

僕は、ナショナルミニマムとは人間の尊厳を確立することであると考えている。かなり、ミニマムのラインが低いほうだと思う。しかし、この小さな望みすらなかなか保障されているとは言いがたいと感じている。


最初に尊厳という言葉を定義づけておこう。
それは人間が肉体と精神と社会を持った存在であることを認めることから始まる。その制約の中で自らの道を歩き、自らの責任をとり、自らの幸せをつかむ権利だ。
その権利の多くが現時点では社会的に認められていないのではないかと感じている。認められていないという言い方は少しずれているかもしれない。重視されていないと言うべきだろう。いや、重要なものとして認識されていないと言うべきか。
人を人として認めあうこと。大人を一人前の大人として扱うこと。子供を一人の人格として認め、その発達の度合いに対応して正当に扱うこと。そんな当たり前のことが、まだこの世界では当たり前になっていない。そう感じることが多い。

最初に、人間は生まれた時点で各人が他者とは違う存在であることを否定してはいけない。
親が違い、生まれた日が違い、肌の色が違い、場合によっては指の数が10本ではなかったり、心臓の壁に穴が開いていたり、誰一人として同じ人間はいない。一卵性双生児ですら指紋が違うなど、完全に同一ではない。これは覆しようのない事実なのだ。
しかし、この事実を覆すべきだと主張する人々がいる。親の収入資産によって子供の教育に差があるのがおかしいとか、黒人は不利な人種だから優遇するべきだとか、果てには男女がまったく同じ生き方をするべきだと主張している。直接に口に出す人間は少ないが、子供たちは生まれたらすぐに全員を施設に収容して、まったくの同一条件で育てられるべきだと心の底で考えている人間は意外に多い。
主張の元になっている思想は一見筋が通っている。
子供たちが自己で選択できない条件はそうすることによって保障されるべきだという考えだ。その考えをラジカルに進めていくと、男女の違い、知能の違い、性格の違い、身体性能の違いも許せなくなる。その違いを保障するためには、みなが同じ教育を受け、同じ職に就き、同じ報酬を得、死ぬまで管理され続けなければならない。
我々は工業製品でもないし、単一の目的(例えば食肉になること)のために育てられるブロイラーでもない。我々は人間なのだ。
平等のラインを死の時点で引くことができないのならば、どこで引くべきだろうか。生まれた時点で我々は個別の個人なのだから、ここに平等のラインを引くことは不可能だ。唯一可能な方法は(現時点では技術的に不可能だが)すべての人間がクローンとして同一の遺伝情報を持ち、工場で厳格に管理されながら生産され、生産に失敗した規格外品は出荷されないという条件くらいだろう。そんな無茶苦茶が人間の尊厳であるわけがない。
しかし、まったく救済のラインを引かない社会も恐ろしい社会だ。何らかの事故にあい、半身不随となった人間は貯金が尽きればのたれ死ぬしかない。借金にまみれた人間はその日暮らしがやっとになり、復活のための努力をする余裕もない。親が初等教育すら受けさせなかった子供は思考能力すら身につかなくなる
これは(さほどでもない)昔の黒人奴隷と同じではないか。これもまた僕の考える尊厳をもった人間の社会ではない。
結局、尊厳を守るためには、やはりどこかにラインを引かなければならない。
それは人生の期間全体に引かれた最低限の生活というラインだ。これこそがナショナルミニマムであるべきだ。人生に絶望しない程度には最低限の生活は保障されていなければならない。
そう。人は絶望させられてはならないのだ。人生に絶望することは、死ぬこととほぼ同義ではないだろうか。絶望的な人生が確定した20歳の若者と余命3ヶ月の宣告を受けたガン患者とどう違うのか。
もちろん、人は死すべき運命にあるため、人の手によっては完全に絶望と無縁になることはできない。それができるのは神様だけだ。しかし、我々は目に見えない神様にすべてを委ねるわけにはいかない。できることは限られていても、努力と工夫を重ねなければならないのだ。
絶望しないということは、逆に言えば、希望を持つということだ。希望をかなえるために工夫し、努力し、競争する。結果的に希望はかなわないかもしれない。物理的に不可能な希望もあるだろう。しかし、人為的に不可能な希望をなくすことが、僕の理想の姿である。


だがそれは不可能な理想だ。
たとえば、無差別大量殺人をしたいという希望は、人為的に打ち砕かれなければならない。他人を受忍限度以上に侮辱する行為もしかりだ。他人の生命身体財産を傷つけることは、基本的に許されるべきではない。
これは人が社会に依存した存在である限り、守られなければならない原則だ。そして社会と完全に無縁である人間の尊厳を社会が守ることができないことは、ほとんどトートロジーである。無人島に流れ着いた人間ですら、彼の帰りを待つ人間が(借金取りも含めて)いるかぎり、もしくは遠い血縁者がいるかぎり、社会とは無縁になりえない。唯一ありえる仮定は、彼が人類最後の生き残りである場合くらいだろう。
また、どうやっても他人を傷つけることしか選択できない状況に陥った場合はどうだろうか。
たとえば、売買春やホームレスは、直接は他人の身体財産を傷つけないが、社会全体の尊厳を広く薄く傷つけることを考えれば、悪というべきだろう。だが、受忍限度のラインをどこで引くかは非常に難しい。
親の財産を食いつぶしながらぶらぶらと遊んでいることとホームレスでは、家があるかないかくらいの違いしかない。キャバクラ嬢と居酒屋の看板娘だってそうだ。
自力で借金を返すために風俗で働くことはいけないことだろうか。
買春だって電車で痴漢をするよりかははるかにましな行為だ。
ホームレスも自殺よりかは賢明な選択だ。
彼ら個人個人を強く責めるわけにはいかない。彼らが社会の尊厳を脅かす存在にならざるを得ないことをなくすための社会システムを作ることが、社会に求められているのだ。もちろん、それでも自発的に紊乱者となった者にはそれなりの罰を与えられるべきだが、それを厳格に適用しないバランス感覚も重要だ。
どんな議論も結局はバランス感覚という思考停止に行き着く。思考停止を極端に嫌う原理主義も例外ではない。だからこそ、どこで思考停止を図るかのバランスを大事にしなければならない。思考停止は一見、人間の知性の敗北だと感じられるかもしれないが、僕はそう考えない。論理を突き抜けて真理を得ることができることは、人間の天才性の発揮だと考えている。


希望をかなえるためには対価を支払わなければならない。
裕福な生活をしたいのならば、どのような出所かは別にとして、金銭を必要とする。時間の余裕が欲しいのならば労働の対価である金銭を犠牲にするだろう。名声が欲しいなら才能や人徳を磨かなければならない、どうしても傷つけたい相手がいるのならば事後に刑罰を受ける覚悟がいる。先天的・後天的ハンデを克服するためには他人よりも大きな努力が必要だ。
対価を支払わずに利益を得ようとする行為を僕は糾弾する。
大きすぎる社会保障を要求することも、汚職も、公園に住み着くことも、暴力で人を支配することも。すべて人間の尊厳を汚す行為である。これらの行為に対する願望からは、人間である以上、逃れることは難しいだろう。しかし、それを実行に移さないことが尊厳ある人間の責任ではないだろうか。
そして、行政にはこれらの紊乱行為を実行させない社会体制の構築が求められている。簡単な例は、刑罰の強化だろう。特に汚職や暴力行為に対しては効果を発揮するだろう。しかし、安易な刑罰の強化は暗黒の社会を到来させるだけだし、対価を取りすぎることも逆にモラルハザードを引き起こす。例えば、人を殴れば死刑になるのであれば、今までの殴り返されるというリスクがなくなるため、簡単に人を侮辱しあう社会が出来上がるだろう。また、殴っても殺しても死刑になるのであれば、いっそのこと殺してしまえとなってしまうだろう。
我々は刑罰の行き過ぎた強化という手法に頼らずに、犯罪を抑止しなければならない。ホームレスを減らすにはホームレスにならざるを得ない人々を収容する仕組みが必要だし、そもそもホームレスにまで追い込まれない仕組みを考案しなければならない。それでもホームレスになる人間はゼロにはならないだろうが、そこまでしてもあえて法を犯す人間にようやく刑罰を適用するべきなのだ。


しかしこれは僕の一方的な価値観に過ぎない。強制はできないことを忘れてはならない。
もし僕が世界の独裁者で、僕が理想とする尊厳を持たない人間には罰を与えるといった法律を作るとどうなるであろうか。「人をだますな」「隣人には優しくあれ」「社会に貢献しろ」そんな単純な戒律でさえ、人を縛る重い鎖となるだろう。「人に媚びへつらうな」という規則など矛盾もはなはだしいものだ。結果、世界中の人間が犯罪者となる日は近いだろう。(僕も早い順番で死刑になることだろう)
 人が尊厳を保つ手段は、自由を与える以外にありはしない。
各個人が自らの由とする尊厳を追求するための自由。そしてそれと社会を適合させるための対価を支払う原則。大きすぎる対価を支払うことを強制しあわない寛容の精神。これ以外の道は、いずれどこかで行き詰ってしまうことは歴史の証明するところだ。
一定限度の社会保障も、自殺をせずに生きていくという対価を支払っている者に対する報酬と考えられないだろうか。障害者だと、生きるために彼が支払うコストが高い分、少々手厚く遇されることに矛盾はないだろう。
ただし、現在の日本の社会保障は、対象者が生きることに支払うコストに比べて大きすぎると感じている。僕が彼らに尊厳を要求することは人道に反していないと考えているが、どうであろうか。
しかし、このコストに対する報酬という概念にもいくつかの穴が残っている。
一つ目は生者でない者の尊厳だ。生きて死んだものならば、彼が生きたという支払いに対するおつりだと考えることができる。しかし、中絶胎児はどうなるのだろうか。もっと言うと受精卵は。いや、受精する必要もない。卵子精子の細胞もいずれひとりの人間になる能力を有している。技術が進めば、普通の体細胞からも、極論すれば化石からでも、遺伝情報を集めたデジタルデータからでも人間を作り出すことは可能だろう。これらの(彼らとは呼びがたい)尊厳を保障するためには、もう少しまとまりのない感情から生まれる価値観が必要となってくるだろう。
次の問題は性風俗産業だ。この産業が人間の尊厳を脅かしていることは確実なのだが、これを撲滅しようという発想はナンセンスだ。人間は肉体をもった存在であり、子孫を残すという機能・本能を中心に進化してきたからだ。
この問題点に線を引くことも非常に難しい。世の中には売春宿以外の性風俗産業はいくらでも種類があるのだ。グラビアアイドルはどうなるのか、漫画はどうなるのか。結婚ですら長期の売買春行為と言えないことはない。(実際、姦淫を禁じたイスラム教では一夫多妻制と離婚の自由を利用して、一晩限りの結婚契約を結ぶという抜け道があるそうだ)
引けない線は引かない、というのも一つの選択肢だ。すべてを否定するために先述した工場生産した人間のみを認める社会よりはずっと健全だ。
しかしより健全なのは、社会保障の問題と同様に最低限のレベルで一応の線を引いておくことだろう。合意の下であること(売る相手と内容と対価は売る人間が選べるべきだ。買う側も当然選択することとなる)、管理売春はNG、子供を対象としない(設定年齢については少し異論がある。16歳から結婚可能ならば16歳未満が子供なのではないのかと思う。これについては結婚可能年齢を引き上げることのほうが普通の対応だとは思うが)くらいだろうか。ごめんなさい。どうすればいいのかよく分かりません。とりあえず、世界中の人間が犯罪者とならなくてすむ場所に線が引かれるべきだろう。


SFになってしまうが、すべての面で人類より優れている宇宙人が地球に来て一緒に生活をするかもしれない。それでも人類は自分自身を猿であるとは感じないだろう。尊厳を持っているという覚悟さえあれば簡単なことだ。そして宇宙人を神様と言い換えたら、どうだろうか。神様がどんなに偉くても、人間が偉いことには変わりはないだろう。さらに神様を隣人と置き換えてみよう。隣人がどんなに偉い人物であっても、自分の尊厳はなにも脅かされることはない。そして自分がどんなに偉い人間であったとしても、隣人の尊厳が失われるわけではない。そんな社会で生きていきたいと僕は願っている。