間接知財とは その2

「その2」と書いているが、これは本来「その1」の内容だ。ちと手違いで昨日の話を先にエントリーしてしまった。なので、昨日の文を「その2」として、今日の文を「その1」として解釈して欲しい。

間接知財は、その知財の内容が消費者に直接伝えられる形では利用されない第4次産品である。代表としては特許やノウハウが挙げられる。
もちろん、この特許の内容そのものを知りたいという消費者にその内容を届けた場合は、この特許は直接知財として消費されたことになる。ほとんどの知財は主体間の流通時には直接知財、主体内での自家消費時には間接知財として機能することになる。
例えば、直接知財の一つに映画があるが、これも間接知財として機能する場面がある。
映画監督がその映画を見てインスパイアされて、さらによい映画を作った場合などがそうだろう。一つ目の映画は二つ目の映画を作製するための間接知財として機能したと言える。しかし本質的には、映画という直接知財が監督の心の中で間接知財に変換されていると言うべきだ。監督の心の中では直接知財は細切れに分解され、ノウハウとして整理されることになる。この観点については文化の継続的発展を論じるときにもう少し詳しく分析したい。
ここではまず間接知財の特徴の概略を述べることから始めたい。そのためここでは分かりやすい例として一般的な特許やノウハウを題材としていく。
間接知財の特徴であるが、すでに述べたように、間接知財はその効用のみが利用されるため、違う内容だが同じ価値・効用を持つ複数の知財が存在することができる。この事実は実効支配可能性に大きな影響を与えている。一つ目は、同じ効能をもった知財を法律に触れることなく他人が製作・所有・行使できることである。もちろん法律の内容を変えればこれを規制することができる。しかし、そこまで規制を強化することは社会的にはメリットよりもデメリットが大きいだろう。
もう一つは、他人が勝手に同じ間接知財を用いて財やサービスを生産しても、それを立証することが困難であるということだ。別の間接知財を用いて製造したと抗弁された場合、侵害を立証するには相手の生産現場に立ち入らなければ立証ができない場合が多い。そこまでしても結局立証できないということも十分に考えられるだろう。
逆にすでにある間接知財の存在を知らずに(知っていてもかまわないが)、まったくの偶然でまったく同一の間接知財が製作してしまう可能性もある。その場合、二番目の開発者は特許法などに触れてしまうことがある。そうするとその製作作業が無駄になるばかりか、損害賠償責任まで負うことになってしまう。そのリスクを恐れて開発意欲が損なわれるというデメリットがある。そのリスクを低減させるためにも特許法によって特許は公開されているのだが、米国のサブマリン特許など特許を公開せずに、偶然に同じ技術を開発した者を訴えることができるという、非常にアンフェアな制度も存在している。
間接知財の範囲は広いため、特許などのように法律で守れる範囲をどこに設定するか決めることは非常に難しい。実際に応用する部分で新規性を持っていても、それが公知の事実の組み合わせだった場合、保護できる部分がまったくないということもよくある話だ。
たとえば家電量販店のポイントカードという仕組みがある。これはヨドバシカメラが業界で最初に導入したらしい。ポイントカードという仕組みが家電量販店にぴったりの仕組みであると見抜いた慧眼はすばらしいものだ。しかし、この仕組みは以前から存在し、つまり公知の事実であるため法律の保護の対象にならない。そのため、他社も当然のように真似をして、今では家電量販店でポイントカードを導入していない会社はほとんどないと言っていい。
この問題を解決するにはどのように法制度の構築はすればいいのだろうか。よほど厳密にしなければ単なるザル法に成り下がるだろうし、厳密にすればささいなことでも法律違反になるという息苦しい社会になってしまうだろう。アメリカにビジネスモデル特許というものがあるらしいが、デメリットばかりが伝わってくる。しかし、こういった手法の保護がなされていない現在、先行者の不満は大きいものになっている。実際、僕自身も以前働いていた職場で業界地図を塗り替えるほどのビジネスモデルの構築をしたのだが、二年ほどで他社にもまねをされ始める事態になってしまった。(これには後日談があり、この手法は客とライバル会社には評価されたのだが、なぜか上司には評価してもらえなかったため、頭にきて会社をやめることにした)
システムやサービスに関する間接知財の保護が難しい背景には、これらが実際の物質に依存していない知財であるということだろう。そのため社会常識が醸成されておらず、妥当な法制度が構築できない。また、自然科学に基づく技術であれば、主体内で客観的な評価が行えるために、公知の事実となる前に技術の確立を行うことができるのだが、社会科学に基づく技術の場合は客観的な評価を行うためには、主体間での試行錯誤が不可欠である。そうやってリファインされ役に立つ技術となったときには、それは公知の事実となってしまう。つまり、物質に依存しない社会科学的な間接知財の保護制度を構築するためには、現在の特許制度を大きく改造しなければならない。
先述の僕の例でも、ビジネスモデルがどこに出しても恥ずかしくない形になるまでは一年くらいの試行錯誤が必要だった。いくつもの失敗や、逆に幸運だけで成功した事例をビジネスモデルの戦略から取り除かなければならなかったからだ。こうして出来上がったビジネスモデルは、当初僕が企図したものとは、全然とまでは言わないまでも大きく異なるものだった。
さらに言うと、法制度を構築するための社会常識もまた、間接知財である。この間接知財を製作するためには大きなコストが支払われていることは忘れてはならない。
発展途上国が先進国に追いつくためには、この社会常識という間接知財の習得が不可欠である。少数のインテリが先進国に留学して表面的な知識を身につけて帰国しただけでは、先進国になれないのだ。また、社会常識という間接知財もすべてが社会の発展に効果を発揮するわけではない。たとえば社会主義などがそうである。これも立派な間接知財であるが、自然科学技術の一部が社会の発展を阻害した歴史*1と同様に、社会主義という社会科学技術も社会の発展を阻害してしまう結果になった。(という歴史認識もまた間接知財である)
他にもいくつか社会常識という間接知財を挙げてみよう。日本型経営、アメリカンスタンダード、封建制度、人権思想、私有財産制度、奴隷制度。技術とは、間接知財とは目的と結果をつなぐための手段だ。奴隷制度も自由市民共同体の利益を追求するという目的のためには、それなりに役に立つ間接知財であった。さらに言うと、結局は奴隷制度よりも自由主義と人権思想の組み合わせのほうが、自由市民の利益に、当然社会全体の利益にも効果を発揮することが判明してからは奴隷制度という社会常識は活用されることがなくなっている。
間接知財とはつまるところ結果を導くための手段である。ついつい我々は目に見えるものだけを追いかけ、よりよい結果のみがインセンティブを得られるシステムを作ってしまいがちになるが、よりよい結果を生産するためにはよりよい間接知財の生産が必要とされている。そしてよりよい間接知財を生産するというインセンティブを与えるために、間接知財の保護は必要なのだ。どのように保護育成すべきかは今後議論していきたいが、一部を除いてまだ暗中模索の状況であるということを理解してもらいたい。

*1:たとえば灌漑技術の発展により少雨地域でも大規模な農業が可能になったが、深刻な塩害が発生して農地のすべてを放棄せざるをえなくなったことがある。大規模な投資が無駄になったばかりか、以前に存在していた小規模農業すら不可能になったのだ。