全体主義という理想の功罪

全体主義は一つの理想である。
理想はある価値観にとっての大きなメリットとそれを保証するための理論から成り立つ。そして多くの場合、現実という壁に阻まれて時代の波の中に敗れ去っていくものでもある。人々は、最初はメリットの大きさに惹かれ、そして次第に現実世界に存在する理論の矛盾点に気づき、折衷案に落ち着いていく。だから全体主義に傾倒した人を笑うことはできないし、条件によっては今後も全体主義が効果を表す場面も出てくるかもしれない。しかし、我々は歴史を学び、その上で新しい世界を模索していかなければならないのだ。
全体主義とは何か。その定義から始めなければならない。いろいろな定義があるのだろうが、僕は以下のように定義したい。
全体主義は、その名のとおり共同体全体の利益を最大化することが目的であるという主義だ。たとえて言うならば、共同体を一つの生命体とみなす考えである。
僕たち人間は非常に多数の細胞から成り立っている。そしてそれらの細胞一つ一つが生きている。これらの細胞はそれぞれ自己複製機能を持ち、単独で代謝を行っている。しかし、体の深部にある細胞は、身体の他の部分の機能によって運び込まれた栄養や酸素に依存しなければ、代謝を行うことができない。共同体も同じだ。都市の住人は農村で生産された食物が流通機能によって運び込まれなけば餓死してしまう。しかし、都市の住人は単に農村に寄生しているのではなく、都市で生産されたものもまた農村の住人の生存に貢献している。
その生命体の維持には、計画的に細胞が死滅することも要求されている。免疫細胞などはその能力を発揮するときが死ぬときであるものさえある。逆に言うと、その細胞は生きているときはまったく役に立っていないのだ。上皮細胞もほぼ確実に死ぬべき運命にある。しかし、それらの細胞がなければ生命体は生命活動を維持できず、その結果すべての細胞が死滅してしまうだろう。大の虫を生かすために小の虫を殺すのではない。すべての細胞は同じ遺伝情報を持ち、その細胞の生命の価値は他の細胞の価値と等価だからだ。その細胞が生きることも、その細胞が死んで他の細胞が生きることも等価なのだ。
全体主義も同じだ。実質的に生命活動を行っているのは共同体であり、共同体を構成する個々の生命が実際に生きているか死んでいるかは重要ではない。生きて、自己を複製し続けるという生命体の原則に非常に忠実な組織形態である。人間以外の生物で挙げるならば、ミツバチやアリが全体主義の戦略を採用している典型例だ。
しかし、人間の社会は単なる生命体ではない。生きて、自己を複製することだけが人間の生きる目的ではないのだ。さらに困ったことに、実際の社会では全体主義の共同体は結局は生き残ることができない。おおまかに言ってしまえば、この2点が全体主義が衰退していった理由である。


全体主義のメリットとは何か。一言で表すならば、「効率的な社会」だ。
飢えている人がいる一方で余って捨てられる食物がある。いろいろなデザインの服があるが、その一部は売れ残って捨てられる。苦労して新製品を開発したが、他人が類似品を作って安売りをした。通勤に往復3時間、毎日無駄な時間を費やしている。
社会は非効率に満ち溢れており、これらを再編成するだけで、簡単に生活のレベルが向上するはずである。
食料を配給制とする。公共食堂での支給にすれば、調理活動の効率化も図れる。みなが同じ趣味を持てば、娯楽の種類も少なくてすむ。企業を統合し、一業種につき一社にする。工場隣接のニュータウンを作る。
人々の生活スタイルを統一すれば、生活物資の大半を大量生産することができ、安価で豊かな物質生活を送ることができるようになるだろう。
失業者を事実上ゼロにすることもできるだろう。安価に生活ができるということは、最低労働賃金を引き下げることを可能にする。機械設備に投資して省力化を図るよりも安い労働力を大量に使用することのほうが安上がりな場合は多い。また、従来の労働賃金に見合わない程度の能力しか持たないものでも、彼に見合った賃金での労働の場が与えられる。
こうやって消費や生産能力の供給を効率化することにより、余った生産力を社会資本の拡充に使用することができる。
 さらに土地の効率利用による効果も見逃せない。道路鉄道をまっすぐに引いたり、過密過疎のバランスをとることもできる。


これだけ挙げると、なぜ世界中の国家が全体主義に走らないか不思議になってくるほどだ。実際、全体主義を採用する国家は後をたたず、そしてそれらの国々は歴史の洗礼を受け、衰退した。
どこかに落とし穴があるのだ。
一つ目の落とし穴は単純だ。消費は効率化されたのではなく、制限されたのだということだ。
人はパンのみにて生きるにあらずとは有名な言葉だが、それがまったくそのままに当てはまる。人々はパンしか与えられず、本当に欲しいものの大部分は世の中に供給されない。
肉体的には必要な量の消費ができるのだが、精神的に満足できていないという状態は、人々の心に不満を蓄積させていく。どれだけ働いても満足できないのであれば、労働意欲はどんどん落ちていく。この効果は次の落とし穴と組み合わさることにより、社会全体の生産力を確実に蝕んでいく。
 二つ目の穴は、競争の欠如である。
少し矛盾のように聞こえるかもしれない。全体主義は、競争に向けられていた力を他に転用することで生産力を挙げていたのではなかったのか。それなのに競争がないことが衰退の原因になっているとはどういうことなのか。
必要は発明の母、も有名な言葉だ。通常の社会では競争に勝つという必要のために発明が加速されるが、全体主義の社会では競争する必要がないため発明の頻度が鈍るのだ。発明による生産効率の向上は10年、20年の期間で、全体主義の効率性を上回るだろう。さらに前記の労働意欲の衰退と合わせると、この差はもっと大きくなっていく。


これでは、共同体を一つの生命体とみなしたときの、共同体の利益の向上という目的は果たせなくなってしまう。
しかし、それでも全体主義が必要とされる場面は存在する。それは共同体が生きるか死ぬかの瀬戸際に置かれたときだ。
典型例を4つ挙げよう。
1.原始共産社会
これを全体主義と呼ぶには共同体の規模が小さいかもしれない。
この社会では生産力が小さすぎ、その小さな生産物を確実に分配するためには全体主義を使用する必要がある。
2.都市国家スパルタ
正確にはスパルタの貴族社会の中だけの話だが、彼らは他の都市国家との戦争の日々の中で生き抜くために全体主義を採用し、一時代を築いた。その後、勝ちすぎて全体主義を採用する必要がなくなり、軟弱になったところを他のポリスに滅ぼされた。このことから全体主義こそが最強の戦略だと論じる人間が多いが、たとえ全体主義を続けていたにせよ、最終的にはより優れた戦術を発明したマケドニアかローマに力で破られる運命だっただろう。
3.明治維新後の日本
全体主義というほどの拘束力はなかったが、富国強兵政策は全体主義の思想を必要としていた。列強に征服されて植民地化されるという危険を回避するためには、できるだけすばやく基礎工業力と軍備を整備しなければならなかった。日清・日露戦争の勝利の結果、植民地化の脅威が去ると全体主義を終了させた*1
4.ドイツ第3帝国
第一次世界大戦での敗戦により、天文学的な賠償金を課せられたドイツは全体主義で食い扶持を確保するしかなかった。その指導者がヒトラーであったことは彼らの不運だったが、どちらにせよ全体主義化することは不可避だったのではないだろうか。


結局、全体主義は完全な悪ではないのだ。全体主義も必要なときに適切に運用される限り、共同体の構成員にとっても悪くない手段なのだ。
ここで全体主義の効率的な運用方法を考えてみよう。その基本は前述の落とし穴を埋めることから始まる。
第一に消費者の不満の解消をしなければならない。全体主義を採用しないことによるデメリットが大きいうちは、消費者は大きな不満を溜め込まない。何のために働いているかが分かっているからだ。逆説的な話だが、全体主義を維持するためにはデメリットを維持し続けなければならない。侵略されるというデメリットを維持し続けるために他国と戦争を始め、その戦争が原因で国家の安全保障がさらに揺らいでいくことなどは典型例である。
第二に外部からの技術の導入を行うことだ。共同体内部で独自に技術を開発できなくても生産効率を上昇させることができる。ただし、常に他国の後ろを走るという不名誉に目をつぶらなければならない。
 そして、最後はコロンブスの卵なのだが、全体主義の目的を達成したら、全体主義をやめてしまうことだ。もちろんこれは政治的に非常に難しい。たいていの場合は多くの血が流れる。だから最初の時点で血を流さずに全体主義をやめるシステムを用意しておくべきなのだ。
明治の全体主義は奇跡的なくらいにスムーズに民主主義国家に移行することができたが、時代が悪かった。結局は直後の世界大恐慌によって、もう一度全体主義を復活させる羽目に陥った。
戦後日本の高度成長期を支えた全体主義は割合うまくやめることができた。しかしそれも戦争寸前の外圧*2と、バブル崩壊のつけという負債が発生している。


さて、ここまで来たら全体主義の本質が浮かんでくる。
全体主義の全体は決して世界全体になりえないことだ。全体主義の成立のためには必ず他の主体が必要である。他の主体と競争するために全体主義を採用し、他の主体から自力で成すよりも安価に技術を導入することで全体主義の弱点をカバーする。
全体主義の維持には植民地の拡大や戦争が有効であるが、これもやはり他の主体を必要としている証拠だ。
植民地の拡大で生産力の悪化を補うことができる。戦争は競争をもたらし、自力での技術の向上を促し、さらに勝利すれば共同体内部の団結力を高めることができる。
全体主義は世界に寄生しているのだ。しかも単に寄生するだけでなく、世界中に迷惑を撒き散らしている。その習性から全体主義は悪だと断罪されるのだ。
だが僕はそれでも全体主義を完全な悪とみなしたくはない。
人間だってそうだ。生命の危機に瀕したとき、他者の世話になったり、迷惑をかけるときがあるだろう。それは完全な悪だろうか。とりあえずの危機が去った後、真人間になって負債を返し、よき隣人に戻ればいいのだ。
つまり、全体主義が必要でなくなったにもかかわらず全体主義を続けることが悪なのだ。たいていの場合、この時点で全体主義が追求する利益の対象が全体ではなくなっている。植民地などは典型的な例だが、全体に組み込まれたにもかかわらず、宗主国の利益のために使役されている。共同体は一部の独裁集団にのっとられているのだ。
独裁集団は独裁集団の利益のために共同体を運営し、共同体内部の不満を戦争でごまかしたり、恐怖政治で押さえ込んだりする。このように方向を見失い、変質してしまった全体主義共同体は、いや、共同体と世界を食い物にしている独裁集団には、もはや同情の余地はない。
第2次世界大戦時のドイツも、残念ながら日本も悪だったといわざるをえない。連合国側もそれなりに非はあるのだが、日独が変質した全体主義をやめることができていれば、たとえ戦争は不可避だったとしても半世紀をすぎても非難し続けられる羽目にはならなかったのではないだろうか*3


さらに全体主義の変形として共産主義があるが、これには同情の余地は最初から存在しない。彼らは共同体の利益すら目的ではないからだ*4共産主義という教義を、言い換えれば宗教を実現させるためだけ全体主義的な国家を建設するからだ。
本来の全体主義は生き残るという目的のために採用される手段だと解き明かしてきたが、共産主義の場合は共産主義自体が目的であり、共産主義の教条の一部が全体主義的国家運営である。つまり彼らは何があっても全体主義を放棄しないし、共同体の構成員の幸せも考慮しない。その結果、理不尽な戦争や恐怖政治を行っても絶対に反省することのない国家が出来上がってしまう。
ただ一言、共産主義を弁護する言葉を言うならば、歴史上すべての共産主義国家は成立後すぐに(いや成立の以前からかもしれない)、共産主義は人民教化の手段であると達観している無神論者の独裁集団が共同体を支配しているということだ(よく知らないがポルポト共産主義を心から信じていたのかもしれない)。だから共産主義の名前を使って数千万の命が奪われたことも、キリスト教の名前の下で十字軍遠征や魔女狩りが行われたことと同様に、共産主義の実際の罪ではないのだ。

*1:その後、世界恐慌を引き金に全体主義へと再び突入していくという後日談があるが、明治期の全体主義と昭和期の全体主義の間には断絶があると見るのが正しいだろう。

*2:日米貿易摩擦のときに日本が受けた外圧は、世が世なら戦争に発展してもおかしくないものだった。特に極端な速度で進む通貨切り上げは、日本の持つ米ドル資産を不当に奪われていくものだった。僕も子供心に戦争してでも日本の意見を通すべきだと考えたものだ。しかしアメリカから見れば、日本がわがままな経済競争を続けると言うのならば戦争してでもやめさせるべきだと考えていても不思議ではない。

*3:もちろん連合国側の非をごまかすための不当な非難を受けている部分は減らしようがない。残念ながら負ける奴が悪いのだ。

*4:人民の政府と言いながら、党のために人民を弾圧し、収奪し、そして殺していく。あそこまで大掛かりに目的と手段を履き違えた組織はそれまでの人類の歴史に存在しない。