民主主義を担保するもの

民主主義とは近代社会における相当に貴重な発明であり、人類の尊厳であることは多くの人が同意してくれるであろう。しかし、民主主義を実現させるためには暗殺を筆頭としたテロリズムの手段の存在が不可欠であることは理解されていないことが多い。ここでは民主主義の機序とその維持について述べていきたい。
民主主義とはなにか。実は民主主義の定義は相当にあやふやである。僕はこれの定義を完璧なものに仕立て上げようという野心を持っていない。しかし、ある程度の正確さをもった定義を作り出すことはやはり必要ではないかと思う。
民主主義は、社会に関与する権利が一人一人の生命に付与されるということではないだろうか。そう定義づけると今度は社会って一体なんだ?という疑問が出てくる。社会は2種類のステージから成り立っている。生命体の集団としての社会と、金銭の媒介を中心とした経済社会だ。
俗な表現をするとお金で買える物とお金で買えない物の社会である。この二つの社会は大部分がオーバーラップしている。お金では絶対買えないものと、お金でしか絶対買えないものは非常に少ない。たいていのものが、お金でないものとお金のどちらでも購入可能である。ただし、相対的にお金でないものでの対価がお金という対価よりも高くつくもの、逆にお金での対価のほうが高くつくものなどバランスは多様である。例えば、借金の利子は合法的な範囲ではお金で払うほうが確実に安いし、愛情や生命はお金で買おうとするとかなり高くつく。心からの感動はお金では絶対に買えないが、見知らぬ他人との取引はお金以外では絶対に支払えない。
昔は現代と違ってお金でほとんど何でも買えた。お金が社会の中で極端に希少な財であったため、お金の価値が非常に高かったのだ。現代ならお金で払ったほうが割高なもの、妾や奴隷、名声も権力も権威も簡単に買えた。いや、お金を手に入れること自体が難しかったため実際は簡単ではなかったのだが、お金を手に入れさえすれば買えたのだ。
逆に現代はお金で買えるものが非常に少なくなった。貧富の差が小さくなり、お金の流通量が増えたから相対的にお金の価値が小さくなっている。特にお金を所有している人口の割合が増えていることが大きくお金の価値に影響している。今の時代にお金だけで妾を十人も囲うことなど、公金横領でもしなければできっこない。それどころか住み込みのお手伝いさんを一人雇うだけでもよっぽどの金持ちでなければ無理である。しかし、愛情さえかければそれなりに安価に愛人を持つことはできるだろうし、配偶者や両親や子供をお手伝いさん扱いすることはできる。
なぜ、現代においてお金でないものの価値が高まったのだろうか。一人の人間はお金ならばいくらでも所有できるが、お金ではないものの所有量はおのずと限界があるからだ。分かりやすい例が時間だが、いくら平均寿命が延びても、人間はいつかは死ぬ。どんなにがんばっても100万時間(約115年)がほぼ限界だろう。
こうしてお金でないものの価値が高まった結果、お金でないものを社会関与の基準にすることに経済学的合理性が生まれてきたのだ。そしてお金でないものは計算の基準を設定することが困難なため、ほぼ唯一計算できる生命の数を基準とする選挙権が考案された。
普通選挙の前の社会では、お金を基準とした選挙権や、お金で簡単に買える権威を基準とした権力がお金で買える社会とお金で買えない社会の両方を動かしていた。現代民主主義では、お金で買える社会はお金を持った人間が、お金で買えない社会はお金ではないもので手に入れた権威を持った人間が動かしている。
旧来の一重権力の社会に比べて、現代の二重権力の社会は当然のように様々な矛盾を内にはらむことになる。双方の社会はオーバーラップしているからだ。しかし、この矛盾は今のところ根本的には存在を認めるしかない。一つの矛盾を解消しようとすれば別の矛盾が持ち上がってくることだろう。もちろん矛盾の総量が減るように努力をするべきなのだが、状況が変わるたびに矛盾の発生条件も変わってくるため、完璧な社会は現代民主主義においては存在することができない。
それでも現代民主主義が、現在知られている中では現代の社会において一番安定的な戦略であることは間違いがないことだと思う。だから現代民主主義を採用している社会は、現代民主主義を採用し続けようとし、それが成功するのだ。いわゆる均衡点というものだ。
しかし均衡は破るだけの力があれば破れる。そして、例えば独裁と恐怖政治という方法で、幾分不安定ではあるがそれなりの均衡点に持っていくことは可能である。しかし、現代民主主義が一度でも本格的に根付いたことのある国家では、長期間現代民主主義以外の均衡点に留まることはまずない。なぜか。
 いや、それ以前にお金が権力に結びついていた社会から、現代民主主義に移行する力はどうやって働いたのか。お金という権力を使えば、既得権を放棄せざるを得ない、しかも矛盾に満ちた現代民主主義などという体制への移行は簡単に阻止できただろう。そして当然のように多くの社会で現代民主主義の導入を阻止する動きが行われてきた。しかし、かなり多くの社会で現代民主主義という均衡点への移行が発生した。
そこには、上に挙げた現代民主主義の経済学的合理性以外の理由が働いている。いや、僕は経済学者なのですべてを経済学的合理性に帰結させることができると信じているので、この不可思議な力もまた、経済学的合理性に導かれていると信じているのだが、とにかく僕がわざと説明を避けた側面が要因なのだ。
テロリズムこそがそれだ。
テロリズムは社会を均衡点から動かす力を持っている。
権力が人によって発動されるものである限り、発動させている人間を殺せば権力は機能しなくなる。一人を殺して足りなければ、十人を百人を千人を殺せばいい。自分以外のすべての人間を殺し尽くせば、確実に最高権力者になれる。たいていの場合は途中で体制側に殺し返される結果に終わるだろうが、自分の命を懸ける意義があると信じるのならば殺せばいいのだ。
しかし、自分ひとりが生き残って最高権力者になるために、自分自身の命をかける意義があるのだろうか。ナンセンスだ。狂人以外はそんな欲望を抱かない。よしんば抱いたとしても、そんなほとんど実現不可能な困難を選ぶよりも、自殺してしまうほうがより簡単迅速に彼の憎んでいた世界を彼の心象世界から消し去ることができるだろう。
自分ひとりのために残りの人類を滅亡させることがナンセンスならば、自分と恋人の二人のためだったらどうだろうか。十人のためだったら、百人のためだったら、一億人のためだったとしたら。いつかどこかでナンセンスではなくなる。僕だってそうだ。もし日本が、スターリン毛沢東ポルポトのような大量殺人鬼に支配されていたのならば、自分の命を顧みずに爆弾を胸に抱くだろう。たとえ実行前に捕まり、恐ろしい拷問にかけられるだけに終わるかもしれないにしても命を懸けるだけの意義がある。
僕一人の犠牲が百万人の同胞の命を救い、一億人の同胞の生活を大幅に向上させることができると信じるならば。そして彼らが僕に感謝と尊敬の念を抱いてくれるのならば。もちろん、ありがたいことに今の日本にはそんなシチュエーションが存在しないため、僕は僕の命を僕のために使用することができる。
逆に僕が最高権力者だったとしたら。その僕が自分自身の権勢欲や自分勝手な理想のために恐怖政治を敷き、大量殺人を犯すだろうか。そんなことは怖くてできない。そんな馬鹿な真似をしたら、いつ暗殺されるか分からない恐怖に眠れない夜をすごさなければならなくなるだろう。そして多分殺されてしまう。想像上の僕のように、いや僕以上に勇気や覚悟を持った人間はいくらでもいるからだ。だから、最高権力者の僕も結局は勇者たちの命に敬意を払わなければならない。命をかけられずに済む程度の悪政しか実施することはできない。
命は権力を変える力を持っている。つまり命は権力を持っているのだ。だから命に権力を与えざるを得ない。命にテロリズムという形の権力を与える代わりに選挙権という形の権力を与えざるを得ないのだ。これこそがお金という権力から現代民主主義をもぎ取るメソッドだ。こうして社会は現代民主主義という均衡点に移行し、その均衡点から強制的にずらされた場合も、やはり現代民主主義に回帰していくのだ。
それほどに命が力を持っているのならば、なぜ現代民主主義はこれほどにも遅れてやってきたのだろうか。なぜ前近代の社会はそれなりに安定していたのだろうか。僕はその理由を技術の未熟さに見ている。刀や弓矢しか武器がなかった時代では、城の中にこもってさえいれば命の保障は完璧だった。やむなく外出する場合も、せいぜい百メートル以内にテロリストを近づけなければ済む話だ。それらの武器で暗殺が可能なほどに腕の立つ人間の数などしれている。それだけの人数の忠誠さえ得ていれば怖いものなど何もないのだ。そして当時の忠誠はお金で買うことができた。どうしても買えなかったら殺してしまえばいい。
その安全が銃火器の発達で、そして爆薬の発達で覆された。鉄砲を使われれば数百メートル先まで狙撃手を探し回らなければならない。見つけそこなった場合はほんの一瞬で頭を打ち抜かれてしまう。爆薬はもっと恐ろしい。まったく訓練されていない市民でさえ確実に僕の命を狙うことができる。10歳の少女が抱えている爆弾をどうやって見つけ出すことができるのか。もうこの社会には僕を殺すことができない人間などいないに等しい。僕は彼らを敵に回すことはできなくなったのだ。命を基準とした現代民主主義の誕生の瞬間だ。
こういったテロリズムが一度も試されることのなかった現代民主主義国家は、寡聞にして僕は知らない。しかし、もしも将来においてこのような幸運な国家が生まれたとしても、その背後にはテロリズムに配慮した政策が行われていることだろう。実際のテロリズムの発動は非常に不幸な出来事であるが、テロリズムを完全な悪として断罪してはならない。それどころか我々は現代民主主義という財産を守るために心の中に爆弾を抱き続けなければならない。
しかしどれだけ善政を敷こうとも防げないテロリズムがある。
それは狂人の存在だ。
すべての現世的利害を超越した人物の欲望は、我々にはコントロール不可能だ。僕が爆弾を抱く理由は同胞の命と幸福という現世的利害からだった。逆に言うと、僕は同胞を人質に取られている。僕が爆弾を抱いた日には同胞のすべてを処刑するといわれた場合、僕は思いとどまるしかない。つまり僕の理想は権力にコントロールされうるのだ。しかしそういった脅迫が効かない人間は非常に危険だ。
一般的にはそこまで現世を超越した人間はきわめて少数であると考えられている。少数である限り、リスクの確率は低いし実効支配も可能になってくる。
だが、もしもそれが少数でなくなった場合はどうなるのか。その恐怖はありえるものだと僕は考えている。いや、実際に世界はリスクにさらされている。異教徒に不寛容な神を信じる人々の存在だ。彼らの神の意思のためには、異教徒がはびこる穢れた地球よりも信者も含めて一人の人間も存在しない死の灰に覆われた地球の方が望ましいと考える人々だ。
この恐怖は僕の妄想であってほしい。しかしイスラム原理主義者やアメリカの福音派の言動を見る限り、単に妄想として切り捨てられないのだ。今のところ全世界の核兵器をもってしても全人類を確実に滅亡させることはできない。しかし銃や爆弾が現代民主主義を切り拓いたように、新しい技術がこの最終戦争を引き起こす可能性を僕は否定しきれない。その恐怖が実現化する前になんとかして彼らの心を寛容と対話の現世に引き戻さなければならない。それは我々人類が我々自身の子孫に対して負っている責任ではないだろうか。
それともう一つ、現代民主主義を根底から覆すだろう技術の進歩がある。それは不老不死の技術だ。この技術はもはや夢物語ではない。さすがに僕が生きている間に実現する可能性はそれほど高くないだろう。しかしいつの日か実現することは確実だと考えている。
不老不死が実現した場合、テロリズムはもはや力を持たなくなる。権力者は生命の危険なしに人々を支配することができる。そしてお金でないものの流通量が増えてお金でないものの相対的な価値が下がった結果、もう一度お金が世界を支配する時代が到来するのではないだろうか。少なくとも、一人一人の命に依拠した現代民主主義は社会の均衡点でなくなることは確実だ。
そして狂信者のときと違って、彼らの不老不死を求める欲望を止める論理を僕は有していない。言い換えれば、僕は狂信者の群れに爆弾を抱いて走っていけるが、不老不死を素直に願う市井の人々を絶滅させる狂信者にはなれないということだ。