うまいもんはうまい


週刊スピリッツの「美味しんぼ」というマンガに最近納得がいかない。
頑固親父が揃い踏みでおいしい料理を作って食べて舌鼓を打つという姿はあまり好きではないのだが、あれはあれで固定ファンのついている芸風なのでよしとしよう。なんにせよ、主役の料理が実際においしそうで食べてみたい!と思わせるのでたまに読んでしまう。
しかし最近、本当においしい料理なのかと疑ってしまう内容が多い。
 最近、○○君が落ち込んでるからおいしい料理を食べさせてあげて元気付けよう。というシノプシスが多いのだ。このマンガは料理が主役でストーリーは脇役だから似たような話が続くのは別に問題はない。問題は元気になる理由なのだ。料理の素材やら作り方を聞いて元気になってるのだ。
納得がいかない。
話を聞いて元気になるなら、話だけ聞いていたらいいのだ。今まで他人だった人たちまで巻き込むほどだめになる前に身近な人に元気付けてもらえたのじゃないかと突っ込みたくなる。が、これも納得が行かない部分じゃない。
うまい料理は作り方なんか関係なしにうまいはずだ。そう。これが言いたかったのだ。本当においしい料理を食べたら理屈ぬきで元気になることがある。作り方を聞いてそこから人生の妙を引き出して自分の境遇にたとえてからじゃないと元気が出ないのだとしたら、それは普通程度にしかおいしくない料理だったのじゃないかと。
ごめんなさい。無理な注文をしました。
料理マンガが料理の作り方も描かずにどうするのだ。起承転結を考えたらこうなるしかないだろう。登場人物だけが勝手に感動して読者に感動が伝わらないならば独りよがりとののしられてしまう。「美味しんぼ」はマンガとして実に正しい描き方をしている。これもまた芸風として味わうべきなのだ。
問題は、これが芸風などではなく普遍的な、つまり実生活にそのまま応用可能な物語だと信じてしまう読者が時々発生することだ。
実生活で元気付けられる側になったときのことを想像してほしい。
「なんだかわからないけど元気が出ないんですよ」
「よし分かった。いいところに連れてってやろう。(ガラガラガラ)元気がないときには美味いもんを食うことだ。カロリーこそが今日の活力の源だぞ*1。さあ食え」
「(パクパクパク)うん。おいしいですね、この料理」
「そうだろう。なんたって生命がぎっしりと濃縮されているからな。その命を体の中に取り込むんだ。それで元気が出ないわけがないだろう。お前、屠殺場の現場を見たことがあるか?牛の頭に鉄砲を突きつけて……」
「(うげえ。食欲がなくなる話だなあ)はあ」
「なんだよ元気出せよ」
これはただのうんちく親父だ。まあ、この親父そのものからパワーをもらえるかもしれないが、料理の味は彼の元気の源にはなりそうにない。
はずなのだが、やっぱりこういう勘違い親父は多い。彼らはたとえ話をそのまま実生活に応用する弊害について気づいていないのだ。
一番目の問題は応用するべき寓話でない寓話を使ってしまうことだ。違う状況での解決方法を使用すれば正しい答えに行き着きようがない。まるで「美味しんぼ」に出てきた話のとおりに人を元気付けようとするようなものだ*2。しかしなかなかちょうどいい寓話と言うものは少ないものだ。
寓話が少ないというのは二番目の問題点だ。寓話は無限ではないが、実社会の問題は無限の種類がある。多少の違いは許容できるにしろ、問題を正しく解決するためには非常にたくさんの寓話を仕入れておかなければならない。しかしなぜかうんちく親父の十八番の寓話は三つくらいの話を使いまわしていることが多い。
三番目の、そして致命的な問題は、寓話を聞いて元気になれる人間となれない人間があることだ。そんなふうに理屈で割り切れない悩みを持った相手だからこそ、「うまいものを食べる」という肉体言語に訴えざるを得ないのだ*3。うんちく親父は肉体言語は馬鹿の使う言葉だと思ってるから、ついついうんちくをかたむけて、いわば照れ笑いをしてしまうのだ。男は黙ってこぶしで語ればいいのだ*4
どうしてもうんちくを語りたいのならば、これらの問題点を解決する方向でがんばらなければならない。
まず最初に問題点をしっかりと把握することだ。元気が出ないという結果にも、それぞれに違った理由があるはずだ*5。その理由にあてはまる寓話を使用しなければならない。
しかし、ちょうどいい寓話がない場合は多い。事前に多くの物語を仕入れておくことは少しは役に立つのだが、完璧を期すことは望むべくもない。その解決方法は寓話の創作だ。なければ作ればいいのだ。仕入れた寓話をそのままに使うのではなく、登場人物や舞台をいじってみることから始めて、完全に新しく作ることも試してみるべきだ。嘘も方便と言う言葉があるように、場合によっては真っ赤な嘘をついたっていいかもしれない。
そして最後に、肉体言語を使うことをためらってはならない。肉体言語の使用は理性の敗北ではないと知っておくべきだろう。もしかしたらただ単に腹が減ってるだけかもしれないのだ。そんな相手には百万言を費やすよりも食欲をそそるおいしい食事こそが何よりの解決方法になるだろう。
多分、「美味しんぼ」の作者はこういったうんちくの限界を理解していたのだと思う。その気持ちがにじみ出てくるせりふで今日の話題を締めたいと思う。
「秋の料理を食べるまでは死ねないと言う気持ちになりました」

*1:僕は痩せの大食いで周囲が驚くくらいに多く食べる。味や見た目にこだわって食べ物を選んでいると生命維持に必要な栄養を採りきれない。明日への活力よりも今日を生き抜く活力が必要なのだ。栄養のある食べ物とはすなわちカロリーの高い食べ物なのだ。と言いながらも肉よりも野菜が好きなので余計にカロリーを取るための食餌量(誤字にあらず)が多く必要になってしまう。野菜じゃ腹はふくれないんだよなあ。

*2:うんちく親父を諭すときにこの寓話を使うのは多分、正しい応用の仕方だと思う。

*3:肉体言語の代表的なものはこぶしだろう。意外と効果を発揮することが多い。しかしもう少し文明的な肉体言語、風呂・酒・睡眠などを先に試してみることが大人の知恵だ。

*4:こぶしじゃない!背中で語れ!

*5:こういった複数(かもしれない)原因によって引き起こされる症状を症候群と言う。たとえばエイズの原因が分からなかった時代には後天性免疫不全症候群(英語の頭文字をとるとAIDSになる)と呼ばれていた。今日の医療現場ではエイズHIV感染症と呼ばれている。HIVという原因が明らかになることによって治療方法のめどがつくようになったのだ。元気が出ない症候群もそれぞれ原因を見つけないと偶然によるもの以外は完治はしない。昔のAIDSがそうであったようにモルヒネ安楽死といった対症療法だけしか用意できないのはもどかしすぎる。