トリガー直接知財 信用醸成 その3

相手が信用醸成の必要性に気がついていない


信用できない相手を信用するためには信用醸成を行わなければならない。しかし信用醸成という概念自体を知らなければ効率的な信用醸成を行うことは難しい。信用醸成を行わずに情報取引を強行するから裏切られる。裏切りという事実が発生すると信用醸成に必要なコストはさらに大きくなる。結局、取引の双方の主体はそのコストの高さに嫌気が差し、取引自体を完全にあきらめざるを得なくなってしまう。これは繰り返しゲームの社会実験の初期段階そのものだ。
詳しくはゲーム理論の教科書に譲るが、被験者を募って囚人のジレンマの繰り返しゲームの実験が行われた場合、ほとんどが裏切り戦略の応酬に終わる。本当は信頼戦略同士の均衡状態にもっていきたいと双方が考えているのだが、その戦略に切り替えるタイミングを互いに見つけられないのだ。しかし何度もゲームを行ううちに、最初は仕返しドクトリン(前回、相手が裏切りを出したら今回裏切り戦略を採り、信頼戦略を出していたなら信頼戦略を採る)、そして斥候ドクトリン(本来裏切り戦略を採るべき場面でも、時々は不利益を覚悟しつつ信頼戦略を採ってみる)といった信用醸成を行い始めるようにプレイヤーが進化していく。
もしもプレイヤーが信用醸成という概念を知っていたならばこの進化の速度は速まったことだろう。そして信用醸成を理解できないプレイヤーは早期にゲームからのリタイアを余儀なくされていただろう。しかし、草創期のゲーム理論プレイヤーたちは手探りでドクトリンを編み出さなければならなかった。
さらに信用醸成という概念を相手プレイヤーが知らずに自分だけが知っていた場合、高度な信用醸成を目指した戦略を採ることは結果的に自分の不利益になることも問題点である。先述の実験における斥候ドクトリンがそれだ。実験の初期状態のように相手が裏切り戦略だけを続けた場合、様子見に信頼戦略を採った回数だけ総合点に差がついてしまう。利益を確保するためには相手に合わせたレベルのドクトリンを採らなければならないのだ。
ゲーム理論の世界では(つまり現実の複雑な社会では)、自分だけが物事を知っているということは必ずしも有利な条件ではない。相手が知識を所有しており有能であることが自分の利益に繋がってくるのだ。近い将来、信用醸成という単語が一般的になったならば、信用醸成にかかるコストは半減することだろう。しかし今はまだその時代ではない。効果的な信用醸成を行うためには、非効率な信用醸成手段を採用することが正しいのだ。


・無条件に相手を信用することを主張する人々
互いに信用できないから信用醸成を行わなければならない。もしも相手を全面的に信用しているならば信用を試すことも、そして試されることも必要がない、ように思われる。
そんな幸せ共同体などこの世界に実在しない。
まず第一に、社会の構成員全員がその教義を信じ、全力をかけて守ろうとしていたとしても。人の能力にはそれぞれ限界があり、相手の期待に沿うものを提供できるとは限らない。その期待はずれが故意によるものではなかったとしても、相手は信頼を裏切られたと感じるだろう。
次に、偶然にしろ相手を裏切ってしまった人間は、裏切り行為によって得られる利益の大きさに驚き、そして味を占めるだろう。そうなれば最初は恐る恐る、そのうちに堂々と裏切りによる利益を求めるようになる。こうやって社会は裏切りという疫病に脅かされることになる。
裏切りに対して免疫を持たない人々がこの疫病に対処する方法はたった一つしかない。病原体を隔離することだ。それもできるだけ早く、他の人間に感染しないうちに隔離しなければならない。つまりは、ささいな失敗にも即座に反応して村八分にすることでしかこの幸せ共同体は維持できないのだ。もちろん実際はそんな幸せ共同体は早晩崩壊してしまう。ほんの一握りの人間を残して、ほぼ全員が村八分にされてしまうことだろう。また、村八分を実行するためには村人全員が協力しなければならないのだが、社会の構成人数が増えた現代では村八分の実行は事実上不可能である。
無条件で相手を信用しなければならないと主張する人は、裏を返せば少しの失敗すらも許さない完璧主義者だ。自律機械である人間で構成された社会は完璧を達成することは原理的にありえないのにそれを求めている。それはすべての人々に自動機械であれと求める非人道的態度だ。
しかし彼らの語る理想にそれなりの力があることも認めなければならない。人は互いに信じあわなければ社会生活を送ることはできない。僕には信用醸成という武器があるが、彼らにはそれがない。ならば条件などつけていては、信用できない他人はいつまでも信じることなどできない。だからとにかく信じることから始めなければならない。無条件に信じることが、彼らの生き残るための武器なのだ。
結局のところ、彼らは我々が信用醸成という手段で裏切り主義者を懲罰した結果にできあがった、全面信用ドクトリンが効率的となった社会にただ乗りしているのだ。彼らは裏切り主義者に裏切りの利益を与え続けるために、裏切り主義者はそれなりの割合で生き残ることができる。そして信用醸成主義者は仕返しや斥候といったという余分なコストを支払い続けなければならない。ついでに村八分にされた人々を救済することさえ我々の仕事なのだ。
また全面信用主義者が、裏切り主義者だけでなく信用醸成主義者をも道徳的に非難してくることも大きな問題だ。「幸せ共同体」という揶揄は彼らにとっては馬の耳に念仏なのでダメージはないが、信用醸成主義者は「人は信じあわなければならない」ということの価値を知っているため「なぜ他人を裏切る行為を行うのか」という非難にダメージを受ける。
僕のように確信犯的に信用醸成主義を貫いている人間ならば、この非難に直接の心理的ダメージを受けないだろう。時には意図的に他人を裏切ることが社会に貢献する行為であることを知っているからだ。しかし僕の周囲の人間のすべてが僕のように確信犯的信用醸成主義者ではない。その潜在意識的信用醸成主義者は僕のことを「意図的に他人を裏切ることがある人間」とラベルを貼り、僕に対する信用醸成度を下げることになるだろう。もちろん全面信用主義者がそうするだろうことは言うまでもない。そして僕は傷ついた僕のイメージを回復するために追加的な信用醸成コストを支払わなければならなくなるのだ。


信用醸成の概念を知らないものに対するときと同じように、全面信用主義者に対して最終的な勝利を得るためにもやはり、信用醸成という概念を社会常識にまで押し上げるしかない。我々は何のために人を信じ、そして時には裏切るのかを知ってもらうことが必要なのだ。信用醸成はつまるところ心の問題なのだから、心を通じ合わせることで解決を図ることが正しい道筋なのだ。そうやってこの概念を社会の常識間接知財とすることで、我々は信用醸成コストを引き下げることができるのだ。