直接直接知財と間接直接知財 その2

ノウハウ直接知財のこの先の説明をするためには、直接知財の流通形態、つまり直接直接知財と間接直接知財のより深い説明をしておかなければならない。
本来、以前にこの分野の説明をしたときにこの項も説明するべきであった。しかし今になってようやくこの項が書かれている。これは深い意図があってした行為ではない。単純にそのときにはこの項に書かれている内容を僕が発見していなかっただけのことだ。このように直接知財について書き進んでいくことで、ようやくこの新しい世界を発見することができた。多分今後もこのように加筆や訂正を行うことになるだろう。


発信コスト
間接直接知財は工業製品を流通媒体とするために、その工業製品の生産コストが発信コストに加えられる。しかし一度生産してしまえば発信者は流通コスト以外に発信コストをそれ以上要求されない。逆に直接直接知財は、発信者と受信者が地理的・時間的に接触することが必要なために、発信者は受信者が受信しようとするたびに発信コストを要求される。直接直接知財の流通に関して、発信者は言いっぱなしということができないのだ。
直接直接知財において情報の取引時に発信者と受信者が接触しなければならないということは意外に大きな負担を発信者に強いることになる。取引のたびに発信者が支払うべきコストに加えて、発信者は発信に備えて待機するコストが必要とされるからだ。また、取引のたびに発信コストが必要なため、大量発信には瞬間的に大量のコストが要求される。そしてそのコストは発信時に支払わなければならず、間接直接知財のようにつくりだめをすることができない。
たとえばテレビ放送では視聴者が見ていようがいまいが電波を発信しなければならず、見ていない視聴者のために発信することは待機コストである。またテレビ放送を大量の視聴者に見せるためには、電波塔の建設や受像機の普及など大量のコストが必要となる。そのため放送範囲、つまり受信可能な受信者の数はコスト的に制限されることになる。
インターネットの情報もこの制限を受ける。ネットで情報を発信させるためにはサーバー上にデータを用意しておかなければならないが、これが待機コストとなる。現在のIT技術革新によりこの待機行動は自動機械で行うことが可能になっているため、非常にコストが小さいものになってはいるが、それでもコストはかかるのだ。そして大量のアクセスに対応しようとするとそれなりのインフラを用意しておかなければならないため、同時発信量が制限されることになる。
もっとヒューマンな直接直接知財ではこの傾向はもっと強くなる。スタッフよりも観客が少ない舞台などは日常茶飯事だし、場合によっては観客がいないのに舞台を進行させなければならないことすらある。そして人気が出れば出たで、ホールの収容人数以上に観客を入れることはできない。
間接直接知財ではこれらの制限が非常に小さくなる。間接直接知財の生産が終了すれば発信者はもうなにもする必要はない。あとは流通業者の仕事だ。また工業力の低かった時代には、大ヒットが予想される間接直接知財の生産に数ヶ月をかけて在庫を貯めてから発売することもあった。間接直接知財を利用することで、どれだけ非力な発信者も多くの受信者にも情報を発信することができるのだ。


即時性
間接直接知財はいったん工業製品にしてから流通するために、どうしても情報の発信にタイムラグが生じる。経済学、いや経営学上、情報の価値の大きなものに情報の新鮮さが挙げられる。情報の命はその早さにあると言ってもいいくらいなのに、間接直接知財はその命を放棄している。
直接直接知財は発信者と受信者が直接に接触するために、受信者は新鮮な情報を手に入れることができる。そして多くの場合この接触は双方向的なものであるため(テレビ放送などは一方向にしか情報が流れない)、発信者もまた受信者の情報を得ることができる。これにより発信者と受信者はインタラクティブな情報取引を行うことができ、それは流通される情報の質を向上させることに繋がりやすい。特に受信者が受信に失敗した場合、発信者は情報を再発信することにより情報の劣化を防ぐ手段を講じることができる*1
しかし上述のようにこの即時性を手に入れるためには大きなコストが必要であり、同時に大量の受信者と接触しようとするとさらに大きなコストが必要になる。


情報の完成度
即時性とはつまり情報を生産した瞬間に発信するということだ。そして情報を発信すると受信者がそれを受信してしまう。もし不適当な情報を発信してしまっても、発信した事実を取り消すわけにはいかない。生放送では放送事故は起こりやすいし、記者会見では政治家が失言をしてしまい、ビジネスマンは意図しない情報まで発信してしまう。
逆に間接直接知財では発信するべき情報のコントロールが比較的簡単だ。何度もリテイクを繰り返した音楽をCDにプレスすることができ、必要ならばデジタル処理でさらにミスを消去することができる。推敲に推敲を重ねた小説を発表し、外交折衝を重ねた上で共同声明を発表し、ぐうの音もでない契約書を作成することができる。
もちろんモーツァルトは即興で完璧な音楽を紡ぎだすことができたし、どれだけ事前に準備しても穴だらけの論文を書く間抜けな大学教授もいる。即時性が比較の問題だったことと同じように、間接直接知財は比較的情報の完成度が高くなるというだけのことだ。
放送という直接直接知財においても、録画放送のような完成度の高い情報の発信が行われているではないかという指摘もあるだろう。これはほとんど言葉遊びのようなものであるが、録画された間接直接知財を放送業者が受信して直接直接知財として再発信したと考えるべきだろう。このような間接直接知財と直接直接知財輻輳は、今日の情報技術の発達において突然現れた現象ではない。古代においても、教師が間接直接知財である書物を学生たちに読み聞かせる、つまり直接直接知財として発信するということは普通に行われてきた。新しい技術の目新しさに目を奪われてはいけない。学問という武器でもって新しく見える世界の本質を抜き出せば、意外に我々が慣れ親しんでいる従来の世界と違わないことが分かるはずだ。

*1:僕は英会話がまあまあ得意だが、テレビ放送の英語は全然といっていいほど聞き取れない。電話はなんとなく分かるが、分からない場合は聞き返せば何とかなる。もちろん何とかならない場合も多い。フェイストゥフェイスな会話だと、こっちが分かってなさそうな顔をすればわざわざ聞き返さなくても言い直してくれるのでありがたい。