娯楽直接知財 その4

娯楽直接知財の再受信 後編


再受信時の効用逓減
娯楽直接知財の多くは完全な形で蓄積することが困難なために、受信と同時に効用を利用するしかない。不完全な形でなら蓄積は可能だろうが、そのように蓄積された娯楽直接知財の効用は大きく低下してしまう。そして同じ情報ならば、一回目に効用を発揮したときが一番効用の量は大きい。二回目以降も効用は発生するのだが、それでも少しずつ効用の量は逓減していく。その二回目が主体内に不完全に蓄積された情報ならばなおさらのことだ。
受信に失敗し、蓄積に失敗した受信者にとって再受信する娯楽直接知財は、極論すれば半分程度は新しい情報だ。同じ娯楽直接知財を何度も受信すると効用は逓減するのだが、半分ほど忘れてしまった情報ならば、効用の減少率は小さいものになる。
受信するたびに新しい発見があるという場合もあるだろう。これは受信の失敗を起こして、その失敗した部分を補完するために受信していると見るべきだ。ただし、発見をことさら重要視する場合には受信者がその情報を娯楽直接知財として認識しているかどうかに疑問が生まれてくる。発見が重要視されるということは、その中に含まれている情報を間違えずに受信したいという欲求から来るのだが、そこまで受信内容の正確さにこだわらなければならないのはトリガー直接知財とノウハウ直接知財においてのことだ。
トリガー直接知財・ノウハウ直接知財の受信で失敗してまったく正反対の意味にとってしまった場合、その失敗した受信内容に応じて行動すると大きな損失を被ってしまう危険性があった。しかし娯楽直接知財の受信はたとえ失敗したとしても効用を感じるし、特殊な条件をつけないのならばそれで損失を被ることはない。


効用の最大化
娯楽直接知財から得られる効用を最大化するためには最初の受信において正確に受信して、その情報の持たらすだろう効用をきちんと理解しなければならない。このために娯楽直接知財の受信において受信者は非常な緊張を強いられることになる。なんだか娯楽を楽しむ姿勢にしては気合が入りすぎているが、その情報から得られる効用に対して気合のコストが割に合わないと判断するのならば、片肘をついてのんびり受信すればいいだけのことだ。
この不恰好な緊張感を見ると、ついつい受信に成功したときだけ効用を感じればいいではないかと考えてしまう。これは物質財の世界では当たり前の考え方だ。成功率が低い試験では成功した結果だけを利用する。歩留まりの悪い部品を使う場合は良品だけを選び出して使用する。しかし情報財、いや不完全な肉体を持った人間の世界ではこれは通用しない。残念ながら娯楽直接知財の受信に失敗していても人間は効用を感じることを回避できないからだ。情報財は使用したからといって消え去ることはないが、逆に言うと知ってしまったことを意識的に無にすることはできない。だからどうしても受信者は一期一会の精神で娯楽直接知財を受信しなければならない。


再受信という効用期待値最大化
どのような娯楽直接知財も結局のところ効用逓減の現実からは逃れることはできない。どれだけ複雑な内容で、しかも簡単に記憶から抜け落ちてしまうような内容であっても、やはり人間の記憶力はそれなりに高いからだ。再受信した端緒は自分がそれをすでに受信した経験があることに気づかなくても、ある程度受信した時点で記憶が呼び出されてしまう。もちろん最後までそれが再受信であることに気づかないこともあるかもしれないが、同じ情報に対して何度もこのような忘却がなされることは期待しにくい。
ならば毎回違う娯楽直接知財のために時間を割くことが効用最大化のためになるのではないか。そう結論づけたくなるのだが、実際は再受信と分かっていながらも人はコストを支払って同じ娯楽直接知財を何度も受信する傾向にある。
一つには入手可能な娯楽直接知財の数が限られていることもある。多くの種類を受信しようとすると膨大なコストがかかってしまう。逆に一つの娯楽直接知財を間接直接知財の形で入手したのならば、再受信にかかるコストは違う情報を受信することに比べて小さくてすむ。だがこの説明では、例えば何度も同じ映画を映画館に見に行く人の行動は説明できない。
この状況の説明には情報財の一般性質を思い出すことが必要だ。情報は受信するまで内容が分からないという性質だ。娯楽直接知財の効用を最大限引き出すためには最初の受信時に大きな受信コストを支払わなければならない。しかしそうやってコストを支払ったにもかかわらず、受信した情報からどれだけの効用が引き出せるかが事前には分からないのだ。
この無駄な受信を防ぐためには、すでに効用の量が分かっている情報を受信するしかない。再受信の場合には効用は逓減してしまうのだが、それでも未知の娯楽直接知財を初受信することの効用の期待値よりも高いのならばそれは合理的な行動となる。そしてあまりに同じ情報を再受信しすぎてその情報の発揮する効用が未知の情報の効用の期待値よりも低くなった時点で消費者は新しい娯楽直接知財の受信を開始することになる。
また忘却によってすでに受信した情報の再受信時の効用が高まれば、消費者は再度その情報を受信することを望むだろう。効用の量は効用の内容ほどには忘れやすくなるわけではないからだ。




コラム 娯楽直接知財と報道

ABCは「一報として価値はあったが、何度も繰り返すことで嫌悪感をもたらすものになった」とし、今後、放送する価値はないと述べた。
産経新聞(平成19年4月21日)より

バージニア工科大学乱射事件の容疑者が米メディアに送りつけた自身の犯行動機を説明するビデオをそれぞれのメディアが繰り返し報道して問題になったらしい。
犯行の動機、犯人の人となりを知って多くの人は今後の自分の行動の参考にすることができるだろう。これはトリガー直接知財・ノウハウ直接知財としてこの情報が機能したことを意味する。しかしこれらの目的のためには一度受信すれば十分だ。その後も発信・受信されたということは、これらは娯楽直接知財として発信・受信されたことになる。
多くの人は(多分僕もこの中の一人だ)殺人事件というゴシップにも娯楽性を感じる。ならば視聴者に効用を与えることで対価を得ている報道機関がこの娯楽直接知財を発信することに経営的な動機を感じることは仕方がないことだろう。
繰り返し報道されたことに対して被害者の遺族が不快の念を表明したことは十分に理解できる。自分の家族の死を娯楽目的に扱われたことは耐え難い屈辱だろう。
この報道は言論犯罪だ。
報道の自由は必要だし、尊重されるべきだ。しかしそれは公共の利益に反しない範囲に限られる。一回目の報道も被害者を冒涜するものだっただろうが、それでも公共の利益のために必要だった。しかしそれ以降の報道にはこの免罪符は通用しない。
ただしこれら刑法上の犯罪であるかは微妙なところだ。辣腕検事ならば有罪に持ち込めるかもしれないし、法体系によってはどうやっても無罪かもしれない。その問題のビデオを見ていない僕はこれ以上の実学的コメントは出しようがない。
僕が指摘する問題点は、この事件が極端な報道自己規制につながらないかという心配だ。極端な報道自己規制が行われると、視聴者は言論犯罪に接することがなくなってしまう。そして言論犯罪で傷つく人の気持ちも分からなくなった人間は、平気で言論犯罪を行う人間に育ってしまう。個人的な場面で犯される言論犯罪はフィードバックがききにくいために、その犯罪者は自分が犯罪を犯していることになかなか気づかず、何度も罪を重ねることだろう。そしてそのたびに被害者が発生することになる。
今回のABCのコメントは、そのような無垢な暗黒社会を到来させないためにもよかったと思う。ABCは今回の報道を言論犯罪であると認識しているが、今後も公共の利益のためには言論犯罪を犯す覚悟を表明している。その節度と勇気がきっとよりましな社会の実現に貢献するだろう。