病院システム近代化計画Q&A その6

すいません。少しやる気を喪失していたのとPCの調子が悪いのが重なってゆっくりになってしまいました。また、やる気とPC以外の個人的理由によって今後(数ヶ月程度?)更新頻度が大きく落ちると思いますので気長にお付き合いください。


まずは「Q&Aその1」でのコメントへの返答を終わらせてから次へ進みたいのですが、前回のコメントへの返答をするための前準備をその間に平行して進ませたいと思っています。
なぜ前準備をしなければならないかと言うとNATROMさんが僕の理論をトンデモだと疑っているからです。そのトンデモ認定をする感覚は非常に正常な感覚だと思います。僕から見ても僕の論法のいくつかはトンデモな人々が行うものに酷似しています*1。そして困ったことに僕の理論のいくつかの部分がトンデモであることはほぼ確実です。ただし僕にはどこが正しくてどこがトンデモなのかは分かりません。
なぜ僕の理論にトンデモが存在するかと言うと、それは経済学という学問そのものの本質がそういうものだからです。経済学は人間の欲望という非常に曖昧なものを起点としています。人間の欲望は極々一般的なものからまったく他人には想像もできない不可思議なものまで存在します。そんなわけの分からないものから出発した経済現象は当然にわけの分からない現実というものになります。言うなれば経済学はアトムが存在しない学問なのです。
そうは言ってもまったく思考実験を放棄したならば、世界はいつまでたってもその輪郭すら我々に示されないでしょう。だから経済学者はある程度のイレギュラーは除外したところで理論を構築し、実践者は自分の周囲のイレギュラーを取り込んだ上で対応策を練ります。これが僕が何度も現場情報の重要性を主張している理由です。イレギュラーを除外した観測結果から帰納的に立てられた理論はイレギュラーな現象を説明する場合にはトンデモになる可能性は非常に高いのです。逆にイレギュラーな状況に特化した理論は一般的な状況ではトンデモになってしまう可能性が高いです。そしてイレギュラーを多く含んだ理論は地動説や労働価値説のように複雑怪奇な理論に成長していきます。そのうちに「科学はできる限りシンプルであるべきだ」という一般原則から大きく逸脱した経営学はだんだんとトンデモな雰囲気を身にまとい始めます*2
一般的な経営学が説明しようとしている世界において、医療産業はイレギュラーの塊です。そのために一般的な経営学をそのまま医療産業に適用すると恐ろしく頓珍漢な回答が得られるでしょう。そんな回答ばかりを聞いてきた医者が経営学者をトンデモな連中だと感じるのは当然の結果です。
経営学者にとって一番楽な方法は、医療産業はイレギュラーが多いから放っておきましょうと無視することです。経営学者が無視したところで、現場の人間は自分の飯の種だから真剣に、既存の経営学を利用できずとも自分の現場を改善する方法を考えるでしょう。世界はイレギュラーが大量に存在するので医療産業以外でもこのように放置されている産業は大量に存在します。しかし医療産業は巨大なマーケットであり、重大な政治的マターです。経営学が世界の多くを放置できなかったと同様に、医療産業を放置できません。これを放置すると経営学的考察によるデータに多くを依存している経済統計やマクロ経済学の予測にも大きな影響が発生してしまいます。
僕にとっては経済統計もマクロ経済学も興味のない分野です。僕にとって重要なことはミクロ経済学と、ビジネスマンとしての僕の能力です。ビジネスマンとしての僕はこれからもいろいろな産業に関っていきます。それらの産業には当然独自のイレギュラーが存在し、僕はそのイレギュラーを計算に入れた経営学的理論を構築して対処に当たらなければなりません*3。医療産業はその練習台みたいなものです。
医療産業は僕にとって練習台なのですが、ここで僕がそれなりに役に立つ理論体系を構築したならば、それは医療産業にとっての資産になるでしょう。これは同床異夢な状態ですが、医療産業と僕はどちらも「それなりに役に立つ理論体系」が出来上がることに対しては共通の利益となります。
僕が「それなりに役に立つ理論体系」を作り上げるためには、僕が「理論を作り上げるために重要だ」と感じる情報を収集する必要があります。しかし残念なことに僕が重要だと感じる視点からの情報をNATROMさんがあまり提供してくれていません。それどころか僕はNATROMさんがどの視点から見ているかすらいまいちはっきりとしていません。だから当然に話は多くの場所でかみ合わなくなります。
この問題を解決して最終目標へと近づくためには、せめて僕が「NATROMさんがどの視点から見ているのか」を知る必要があります。それがここで言う「前準備」です。
この情報提供のお願いはNATROMさんの直接の利益にはあまりつながりません。実は僕にとっても直接の利益にはなりません。なんだか馬鹿げたことに首を突っ込んでいる状態です。負担になり過ぎない程度にお付き合いくださいと利他的精神に訴える以外ありません。しかし上述したように互いに間接的には利益になるだろうとは思っています。しかし「こんなトンデモっぽい奴の話に付き合わされたり、利用されたりするのはあほらしい」と考えるのであればそれはそれでしかたがないことだと思っています。


いつもどおり前置きが長くなったのですが、まずは最初の質問です。イエスノーで答えてください。ノーのときには理由もお願いします。イエスでも文字コメントがあると分かりやすいです。ちなみに今回に限らずほとんどの質問に対する僕の答えはイエスになる予定です。
1.どの産業でも労働者にはお金以外の報酬も与えられている。
2.医療産業においてはお金以外の報酬の絶対値が他産業よりも大きい。*4
3.医療産業従事者を育成するためのコスト*5は他産業の平均よりも高い。
4.医者と同程度に育成コストがかかっている人材は他の産業にも存在する。言い換えれば「医者よりも育成コストがかかっている人材は他の産業にいない」というわけではないということ。
5.医者と同程度の育成コストがかかっている他産業の人材の平均年収は医者よりも低い。(医者・他産業ともに自営業を除く)




>さらに、診療医師とインフォームドコンセント医師が異なる場合、情報を伝達するのにコストがかかります。たとえば気管支炎に対して抗生剤が処方された場合、その理由を明確に伝達しなければなりません。「その病院内だけで通じるコード」では細かいニュアンスは伝わりません。インフォームドコンセント医師と診療医師が分業するメリットをまったく理解できません。限定された情報のみを説明するシステムであれば、現在既にあります(薬剤に関することのみ説明する薬剤師など)。
僕の主張は「供給側からの分類」「インフォームドコンセント医師」で書いていますが、一般的・類型的な症状に対してだけ分業を行うべきということです。一般的・類型的な事柄ならばNATROMさんが挙げられている薬剤師の例でも分かるように適当なコードで意思疎通はできます。
わざわざ「その病院だけで通じる」と書いたのは、これらのコードはたいていの場合、現場でうまく通用するように変更が加えられてしまうからです。最初は誰かが頭の中だけで作り出したコードを使うために意思疎通がうまくできないでしょうが、そのうちに現場でコードにいろいろと改良が加えられ、いつのまにか一つの言語体系を作り出してしまいます。そのために「その病院でしか通じない」コードになってしまうことでしょう。
このような短縮言語は多くの産業の多くの現場で作成され使用されています。同じ社内でも違う事務所では別の短縮言語が使われているなどということもあります。これはわざわざ作り出さなくても、たいていの現場で自然発生的に出来上がります。
当然短縮言語にはデメリットもあり、類型的でない細かいニュアンスは語彙にないためにコミュニケーションができません。そのために類型的でない患者の割合が高い病院においては短縮言語を用いた申し送りは効率的ではなくなります。

インフォームドコンセント医師
しかしCD患者にはこの手法の適用は難しい。そしてCDの種類は非常に多いために診療医師からインフォームドコンセント医師への伝達の手間とかも考慮すると、診療医師が直接その場でインフォームドコンセントを行うことが効率的だろう。



しかし今日はこれ以上インフォームドコンセントに深入りすることは控えましょう。この問題を実効性が期待できる程度に議論するにはもう少し互いの視点を揃える必要があると思います。




>そもそも、待合室で待ちたくない患者は、開業医にいけばよろしい。
僕はこの部分、というかこの問題の最終結論部分に関してはほとんどNATROMさんと同じ意見だと思います。違うのは開業医よりもスーパーマーケット病院のほうが効率がよさそうだと考えているところです。
僕は風邪をひいて大病院に通院する人はすごく迷惑な存在だと思っています。風邪程度の病気を治す(風邪は医者が治せるわけではないけど)のに大病院の設備や、大病院勤務医の能力は過剰だと思っています。また大病院に通わなければならない病気を持った患者にとっても、風邪ウイルスを撒き散らしにやってくる人々はバイオテロのような存在です。公共輸送機関内に風邪ウイルスを撒き散らす人もバイオテロです。




>運転できない高齢者の利便性はむしできるのか?
無視してません。

スーパーマーケット病院
僕は通院距離の問題は乗用車の世帯普及率が高いことで社会的にはカバーできると考えている。病院には駐車場を併設するべきだが、予約時間が明確になっていることで駐車場の満車率も極端にひどいことにはならないだろう。そして乗用車がない人に対しては自治体で病院タクシーのようなものを作って対応することが望ましい。





>よしんば、分業が効率的だと仰るのであれば、大病院の医師には入院患者に専業するのが効率的ではないですか。日本はアクセスフリーが建前であるから、開業医でも診れる外来新規患者を大病院の医師が診させられているのです。たいして効率化にならないスーパーマーケット病院を作るより、病診連携を強化して、大病院の外来のアクセスを制限するほうが効率的であろうと思います。
しかしどうやら日本の法律では彼らをして大病院に来させないことは不可能らしいです。ならば彼らが大病院に行きたいと考える欲求を操作することしか解決方法はありません。その一つの案が大病院での初診料の高額化です。しかし彼らが大病院に通いたいと考えるのは「前近代的な欲求」によるものなので、多少の金銭ではこの欲求を曲げさせることは困難です。
このての議論を見るたびに思うのが「医者から見た合理的な行動を患者が取るだろう」と勝手に期待をしているなあということです。「患者がどのような行動を合理的と考えるだろうか」ということを考えなければ「患者をこちらの思惑通りに誘導する」ことは不可能です。人はそれぞれ異なった欲望と異なった価値観と異なった知識に基いて自分の行動を合理的に判断します。お金だけで彼らを誘導することは不可能ですし、医者の価値観で彼らを誘導することも不可能です。ただし法律ならば強制力があるので不可能を可能にしたりします。
ならば彼らの「前近代的な欲求」を満たす施設を用意することで、彼らの足を大病院から離してしまおうというのが先日、厚生労働省から発表された総合科の新設だと思います。僕のスーパーマーケット病院構想も同じように患者の「前近代的な欲求」を提示して大病院から(もちろん開業医からも)患者を奪い取ることを狙っています。
これは医者に限らない話ですが、人が組織を作ることは単純な分業のスケールメリットだけではなく、知識を共有することも目的とされます。大人数で手分けして獲得した知識を組織内で共有することで個人レベルの知識も一匹狼と比べると増加します。個人的な資質にもよりますが、開業医と病院の勤務医ではどうしても勤務医のほうが能力が高くなります。開業医では勤務医の能力に追いつき続けるための努力はとてもペイしないほど高くなります。患者は勤務医の高い能力を目指して大病院に来るのだから、どうしても開業医では完全な代替案にはなりません。
スーパーマーケット病院程度の規模があれば、知識・能力に関する規模の経済も働くので、厚生労働省の提案する総合科の看板を上げれば大病院から客を奪い取ることができるのではないかと考えています。


一方で「大規模病院の憂鬱」で書いているように大病院の効率化は難しいと考えています。非定型の患者が多いから分業も難しいでしょう。それでも僕がシリーズでいろいろと紹介してきた効率化の手法を現場に応じて導入してみれば多少は効率を高めることはできるでしょう。わけの分からない風習を取り除くだけでもけっこう違ってくるとは思います。ただし頭の固い人々が怒ってくるでしょうが。
しかし本当に大規模病院が利益(効率ではない)を向上させたいと考えるならば、風邪程度の軽い病気の患者を大量に受け入れることが一番金銭的に合理的な方法です。せっかく、来るなといってるにもかかわらず大量の患者がやってくるほどのブランド力があるのならば、それを逆手にとって大々的に初診患者を呼び込めば繁盛間違いなしです。大病院の中にスーパーマーケット病院部門を作ってしまってそこで初診患者を受け入れればいいのです。別にスーパーマーケット病院でなくても、NATROMさんが大好きな開業医を大量出店させてもかまいません。その裏で入院患者部門は初診患者に煩わされずに専門の患者を診察していればいいのです。
もちろん医者の合理からするとわざわざ通院時間をかけて来る患者は馬鹿なのですが、馬鹿に合わせてみると大儲けにつながるというのも経営学の真理の一つです。どうせ風邪でわざわざ医者に行くこと自体が馬鹿げているのですから、それを開業医が面倒見ることも大病院にテナント出店したスーパーマーケット病院が引き取るのも同じだと割り切ってみるのはいかがでしょうか。




>ポケベルやらカードーリーダーやらより、そのほうが効率的です。患者側からの通院のコストも軽減できます。
ここが議論の発端でした。
この部分への単純な突っ込みは「少しでも効率を上げられるものを全部採用しないと民間企業と生産性で勝負はできないよ」です。費用対効果が高いものから着手するのは仕方がないとしても、効率が上がると分かっていることをあえてしないことには何か別の理由があると推測することが妥当でしょう。
それは多くの医者の言葉の端々に出てきていますが、「予約のない(どうでもいい病気の)外来患者を相手にしたくない」です。彼らに来て欲しくないからわざと「顧客不満足」な状態に彼らを押し込めています。
僕は欲望肯定派なので医者や病院がそのように考えることが悪いとは思いません。逆に嫌がられているにもかかわらず大病院にやってくる患者のほうが悪いと思っています。医者や病院は堂々と「一般外来はしたくない」「一般外来に来てほしくないからわざと待ち時間を分かりにくくしている」「一般外来なんてしたっぱの仕事はレベルの低い開業医にさせればいいだろ」と言えばいいのです。
そんなことをはっきり口に出してしまうと「医者のノーブレス・オブリージュが…」「医者の無謬性が…」となってしまうことは分かっています。しかし科学の世界では原因と行動に論理的な因果関係が必要です。「病院の一般外来の診察の効率化はこれ以上は無理」という反証がたくさん出てくる非論理よりも、「レベルの高い医者に一般外来なんてレベルの低い仕事をさせたら社会的な効率が下がるから、あえて一般外来では効率化を進めない」のほうが論理的です。
そういった論理的な本音が出ずに、逆に経営学や経営工学の限界でこれ以上効率が上がらないと言われてしまった日には、どうしても僕はこれに反論せざるを得なくなります。もしも経営学が無力だったなら、それを自分の売りとしている僕の能力の商品価値が下がってしまうからです。

*1:これは僕の論法がトンデモに酷似しているのではなく、トンデモの人々が科学の論法に似せた論法を使うからです。

*2:実際に経営学では多くのトンデモがまかり通っている。知り合いがMBA(経営学修士)を取りに大学院に通っていたが、そこでの講義にもけっこうトンデモが混じっていた。もちろん大部分の講義はトンデモではなかったが。

*3:そのための僕の方法論が経営学のメタであるミクロ経済学を積極的に導入して効用価値説のようなシンプルな理論を作り上げることだ。ただしそれと同時に経済学の曖昧という宿命も背負い込むことになっている。

*4:アニメーターはお金という報酬が低いためにお金以外の報酬の比率が非常に高い。これもかなりイレギュラーな産業だ。

*5:このコストには基礎能力が高い希少な人材を獲得するためのコストも含まれている。

病院システム近代化計画Q&A その5

>「インフォームドコンセント医師の仕事は極端に簡単」というのは、何をどう言っていいのかわからないほど間違っています。診療医師と同じかそれ以上の技量が必要です。
きっとここが議論の大きなターニングポイントになります。
この議論は経済学では労働価値説と効用価値説の対立となります。経済学者は数世紀にわたってこの対立を議論してきました。今では労働価値説を唱える経済学者は少数派です。僕は効用価値説がより本質的に価値というものを説明していると考えています。


労働価値説
「価値=原材料+労働」*1という考え方です。「価値」ってなんだ?とつっこまないでください。「価値」という概念を追求しだすと大変な迷宮に入り込んでしまいます。「価値」という言葉は日本語的に普通の感覚で読んでください。
原材料もそれぞれの原材料と労働の価値を含んでおり、最終的に物やサービスの価値は投入された労働の価値と等しくなります。労働価値説はマルクス経済学の根幹部分として有名ですが、マルクスが言い出したわけではなく、もちろんマルクス経済学以外でもその根幹部分として取り入れられてきました。
かなり古い時代においては労働の価値は単純に労働時間に比例すると考えられていました。しかし実際は大人と子供、熟練労働者と非熟練労働者の労働力の違いがあるため、労働の質×労働時間という概念が取り入れられるようになりました。


効用価値説
労働価値説が供給者から見る形で価値を説明しているのに対して効用価値説は消費者から見る形で価値を説明しています。消費者がその財に対してどれだけの価値を感じているかが、その財の価値であるという考え方です。
この考え方はかなりとっつきの悪い考え方です。同じ財でも別の消費者にとっては別の価値となります。日本人にとっては一物一価*2という考え方がかなり浸透していますが、効用価値説においては一物一価は完全に否定されます。また、この価値は人の心の内面に表示されるもので、まったく客観的ではありません。それどころか本人にも正確な価値が認識できないことが普通です。
効用価値説においては原材料に労働が行われることで価値が下がることがありえます。それどころか原材料の入手価格よりも価値のほうが低いことすらありえます。おいしい生のリンゴならば価値があったのに、下手な料理人が料理という労働を加えることでまずいアップルパイに変化してしまうという事態です。満腹状態ではおいしいリンゴであっても食べたくないと感じるときなどはリンゴの価値は購入価格よりも下がっていたりします。


価値観の対立
この二つの価値説の対立の典型的な議論を引用してみましょう。これは約十年前にネットで僕が議論したときの内容を抜粋したものです。


僕:1個の握り飯を、母親がおなかをすかした子供に与える場面を想像してください。子供が2人いた場合、母親はより腹をすかせた子供のほうに握り飯を与えると思います。(分ければもっといいんですが、ここでは分けられないことにします)そのほうが、家族という1つの社会での富が大きくなるからです。ちなみに誰も食べない(取引がない)場合は、まったく社会的な富は発生しません。握り飯は作られる(生産される)ことではなく、食べられる(取引される)ことによって価値が出ます。


S:また、母親が握り飯作りの労働をすることも事実です。この母親の労働によって、握り飯も生まれることも事実です。ここに、リアルに客観的に価値が生まれているとも、思うのですが。しかも、その握り飯を作るのに30分要したのであれば、時間という客観的な量で明示されている価値です。


僕:確かに握り飯には米代や母親の労働分の価値が存在します。しかし、握り飯分の米や、母親の労働は費消され減っています。そのため、米+労働の価値が握り飯に変化しただけで、価値(社会的富)は握り飯を作る行為によっては増大していません。気をつけてほしい部分は、母親の労働は有限の財であることです。
その価値を認識するのは消費者以外には存在しないので、結局、消費者の手に渡ることによって価値が具現化します。



S:私は、母親はまず、労働を可能にする精神的、肉体的能力(労働力)を有しており、この能力(労働力)が働きとして現れたのが、この場合、お握り作りの労働となり、この労働が価値を生み出していると、解しております。
生計に必要な物資の価値以上の価値を創出することが出来ることになり、ここに社会的余剰(社会的富)が生み出されるということです。



僕:人間の労働だけが価値を生み出すという誤解なんですが、全自動おにぎり製造マシーンで作った握り飯も、空中からいきなり現れた握り飯も、母親が握った握り飯も、板前が握った握り飯も(細かい差異を無視すれば)消費者から見れば同じ握り飯です。
こうした場合も労働価値説では説明がつかない状況が現れます。



専門家同士の議論でないために多分にかみあっていないのですが、二つの価値説の議論の原型の多くがここに顕現しています。要約すると以下のようになります。
効用価値説:同じ財でも消費する人によって価値が違うよ。
労働価値説:そんな価値に客観性はない。労働時間で計るならば客観的だ。労働というのは無から有を生み出す行為だ。そこに価値が発生する。
効用価値説:労働したら労働者の貴重な時間が費消される。労働は労働時間という財を財物に置き換える行為で価値の創出ではない。
労働価値説:労働者の貴重な時間を生成するコストよりも労働による付加価値のほうが高い。
効用価値説:労働で剰余価値が発生するのは事実だが、労働以外でも価値が発生している。それを説明するには労働価値説以外の原理でなければならない。


もう少し議論を補足すると、労働価値説は労働時間という客観性が高いものに依拠しているためにとっつきがいいし、それで説明がつく現象も多いです。しかし労働価値説では説明のつかないことも同様に大量にあり、これらは効用価値説で(客観的ではないけど)説明がつきます。効用価値説からの反論を受けて労働価値説は労働の再生産コストや労働の質という概念を付け加えます。しかしこの時点で労働価値説も客観性という利点を放棄しています。
結局、どっちも客観性がないんだったら、より説明範囲の広い効用価値説でいいんじゃないかなというのが経済学の当面の結論です。そして現在は効用価値説と交換価値説*3が議論されており、それらを用途に応じて使い分けることが行われています。


このように価値というものの計測方法を見てみると、NATROMさんの感覚が労働価値説をベースにしていることが分かります。
医者という労働力を作り出すためには多大なコストがかかっている→医者の労働コストは高い→医者が行う労働の価値は高い
以上のような図式になっています。しかし効用価値説に従うと以下のような図式になります。
医療→必要度が高い→価値が高い
インフォームドコンセント→必要度が低い→価値が低い

もちろんこの問題は労働者が自分が提供する労働に対してどれだけの価値を感じているかなので、ここで効用価値説という消費者から見た価値を持ち出すのは少し筋違いに見えます。しかし実はこの消費者から見た価値が労働者が提供する労働の質に大きな影響を与えます。ここは論理的に難しい部分なので注意して読んでください。


労働の価値
そもそも医者の報酬は他の産業に比べて大幅に高いです。ちらっとインターネットで求人広告を見てみたところ、通常の3倍くらいの相場になっています。しかも尊敬というお金でない報酬も得ることができます。しかしそれだけの報酬が約束されているにもかかわらず、医者を目指す若者はそれほど多くありません。医学部に入るだけの学力を持っていても、別の学部に入学したり、そもそも大学を目指さなかったりする若者は毎年万単位で存在します*4。彼らはなぜ医者を目指さないのかと言うと、医者の報酬と労働が釣り合っている、もしくは労働のコストのほうが高いと感じているからです。
この労働のコストが労働力を作り出すためのコストだったとしたら、医学部以外の学部で修士課程まで進みながら医者ほどの報酬を得られる仕事に就かない人間は非合理的な選択をしているとみなされてもしかたがありません。しかし彼らが非合理的なわけではありません。医者の労働のコストが高いのは、医者を作り出すためにかけられたコストが高いからではなく、医者として働くことのコストが高いことに起因しているからです。
医者として働くコストが高いことの理由の一つはもちろんその勤務時間の長さにもあるわけですが、これは決定的な要因ではありません。医者と同じような奴隷的労働をしている人は多く存在しますが、彼らの多くは医者ほどの報酬を受け取っていません。ならば医者の労働のコストが高いことは医者という職業の中に潜む原因にあると見るべきです。僕はこの原因を「医療に求められる前近代性」と解説したのですが、今回は別の言葉で説明してみましょう。
医療という財は消費者にとって必要不可欠な財であり、そのために消費者は医療に対して大きな効用を感じています。しかし残念なことに消費者に提供される財はいつも完璧なものではありません。完成度が高い財もあれば、完成度が低い財もあります。完成度が高い財であれば消費者は期待していただけの効用を得ることができますが、完成度が低い財に出会ってしまったらその分効用は減少します。消費者にとって効用が低い財でも同じ現象は発生します。完成度が高い財ならば期待していただけの効用が得られますし、完成度が低い財ならばその分効用は減少します。
しかしもともとの効用が高い財のほうが、完成度が低いときの消費者が損失する効用は大きくなります。そのため、消費者はもともとの効用が高い財には完成度の高さを強く要求し、低い財に対しては比較的寛容になります。そして取引というものは双方向的なものであるため、供給者である医者は医療という効用の高い財の完成度を高める努力をせざるを得ません。
財の完成度を高めるためには、質の高い労働力を投入したり、労働力の量を多く投入するなどの手法がとられます。しかしこういった目に見える労働力だけでは財の完成度はそれほど高まりません。財の完成度を高めるためには、責任・緊張・気力といった精神力がどうしても必要になります。医者という労働のコストはこの投入される精神力のために大きくなっているのです。


根性は使えば使うほど減っていく
このように見てみると、診察(医療)とインフォームドコンセントでは同じ労働者が同じだけの労働時間を投入しても、その労働のコストが大きく違うことが分かります。他の産業の労働者の支払う労働のコストが医者の労働のコストと比べて極端に低いことと同じように、診察と比べてインフォームドコンセントの労働のコストは極端に低いのです。
言い換えれば、診察はミスが許されない労働なのでコストが高く、インフォームドコンセントはミスが許される労働なのでコストが低いのです。
もちろんどちらの労働に関してもミスは許されないと多くの医者は反論するでしょう。しかし人間である限りミスは発生します。近代は人間がミスをすることを前提としているのです。ミスを犯さないのは神様と、高貴な人間だけです。僕は医者は能力は高くとも、高貴な人間ではないと考えていますので、医者がミスを犯すことは仕方のないことだと思っています。しかし大事な場面でミスを犯されると困るので、大事な場面でミスを犯さないための精神力の投入に対して大きな報酬が支払われることは当然だと思っています。
もしNATROMさんが今日、どうしても一つのミスを犯さなければならない運命にあり、その代わりにミスの発生場所を選べるとしたら、それを診察とインフォームドコンセントのどちらの場面で発生させることを選ぶでしょうか。まさか診察の場面ではないと思います。つまりそれだけインフォームドコンセントは楽な仕事なのです。


こはちょっと宣伝です
ついでにもう一つの視点からもインフォームドコンセントが楽な仕事であるということを説明してみましょう。自律機械と自動機械という概念での切り分けです。この概念はもしかしたら僕のオリジナルかもしれないので詳しいことはこのブログの「第四次産業」論を参照してください。一応、ここでも簡単な説明をしておきます。
自動機械:入力された内容に対して定まった行動を起こす。
自律機械:入力された内容と関連した行動を起こすが、その行動は常に同じものとは限らない。場合によっては入力がなくても行動を起こす。

診察は自律機械としての行動を要求されます。同じ発熱症状を見ても違う診断を下さなければならなかったり、診断を下すための情報が足りなくても診断を下さなければなりません。
逆にインフォームドコンセントは同じ診断に対しては同じ説明を患者にしなければなりません。これは自動機械としての行動です。もちろん患者はそれぞれ別の人間だから、同じ診断などはめったにあるものではありませんが、偶然にも同じ診断があれば同じ出力が期待されます。そしてこの行動には診断という入力が必須とされます。入力がなければ出力はありえません。
そして自律機械としての労働のほうが自動機械としての労働よりも困難です。コンピューターや辞書ではできるはずのない人間ならではの行動だからです。自動機械としての労働ならば技術とコストが折り合えば本物の機械でも行うことができます。


専門化を進めよう
僕がインフォームドコンセント医師にこだわるのは、ここまで説明したようにこの労働のコストが低いことにあります。診察医師としての労働のコストの負担が割に合わないと考える医者や、医者を目指す若者がインフォームドコンセント医師ならば自分の職にしたいと考えるでしょう。年収700万円で8時間労働の責任が過重でない仕事をしたいと考える人は多数います。
こういった職場を用意して医者人口を増やせたならば、現在の医者不足の解消の一助になるはずです。そしてこういった細かな積み重ねによって、将来の大きな生産性向上が図れるようになるわけです。
このような医者の能力(どれだけ高コストの労働に耐えられるか)による分類は、現状の「医者は万能(全能?)」というテーゼに反してしまいます。厚生労働省関連の報道によると、医者を専門によって分類するなどが検討されているようですが、まだまだ議論の段階のようです。
人間に万能を要求するとどうしてもコストがアップします。特に医者の各専門分野はそれだけでも要求される能力が高いのに、それをすべて修得するべきだとなったら嫌になるくらいのコストがかかります。医療は巨大なマーケットなのでスケールメリットが働き、専門分野を細分化してそれぞれに専門家を養成することが割に合うはずです。
そうは言っても万能な労働者が組織の中に少数いることはそれなりに効率を向上させます。僕の勝手な感覚だと専門家9割、万能家1割くらいがベストな感じがします。




もちろんまだまだまだ続きます。

*1:ここでは分かりやすくするために余剰の概念を取り入れていません。

*2:同じ商品はどこでも同じ価格で販売される。

*3:交換価値説は価値説と名前がつけられていますが、実際は「価値」を分析するものではなく「価格」を分析する理論です。

*4:そういや僕の兄が医学部だった。栄養学科だったから全然医者とは違うコースだけど。

病院システム近代化計画Q&A その4

前回のエントリーに関しては内容に関して双方が合意できなければ議論の意味がないと書きましたが、今回は逆に偶然以外の理由では合意できるわけがない内容になっています。その理由は僕が医療現場に関する知識がないことです。そしてNATROMさんも程度の違いこそあれ、医療現場の知識を持っていないからです。
効率化に必要な現場の知識は、その知識を蒐集するための知識がなければ集めることができません。僕もこの方面、つまり経営工学の専門家ではないために素人に分かりやすく、しかも間違わずに説明するのは難しいのですが簡単な紹介をします。




経営工学とは
工場での生産性を高めるために編み出された方法論。経営に関する多くの分野に応用されている。店舗内の設備配置や避難経路の最適化、物流の効率化など。人間工学、ミクロ経済学、工業簿記などの知識があると理解しやすい。
工場内の各作業を細分化して分類し、その各動作の所要時間(ストップウォッチ)、人員・原料の移動経路(距離や歩数)を調査することから始める。その上で重複した動作や同時進行できる動作を省略したり、移動にかかる時間を経路の変更で短縮する。また、重量物の移動は機械を使ったり上下動を少なくすることで労働者の身体的負担や危険を軽減させる。
また段取り八割と言われるように、段取りを考えるときに動作が中断する時間は馬鹿にできないくらい長い。作業をマニュアル化することでこの段取りにかかる時間を短縮できれば現場の効率化と品質管理の工場の一石二鳥になることも経営工学の手法の一つである。


経営工学の導入例
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/839811.html
参考資料として郵政公社で最先端の経営工学を導入開始した事例を挙げる。賛成派・反対派の感情的なコメントもまた参考にしてほしい。現場がまったく経営学の知識がない場合は導入に多大な混乱が発生するという事例である。
この事業に関ったトヨタの人間の感想はきっと「こんなに馬鹿でぬるくてわがままな連中ばかりだとは思わなかった」だろう。馬鹿とは経営工学の導入で効率が上がることを信じない態度で、ぬるいのは21世紀の今まで経営工学を導入せずに組織が倒産しなかったことで、わがままなのは現状維持を主張してもそれが許される考えていることだ。
この記事に書かれている限りではトヨタ側にもいくつかの失敗が存在する。僕がこのシリーズの初期に解明したような産業特有の「お金でない」利得表を解明する手順を踏んでいないことだ。「自分と同じ常識」を共有していない相手には、常識を共有する手順がどうしても必要だ。この手順を踏まない限り、現場は現場の価値観に基いて改革案を悪だと評価するだろう。
実際は記事には載っていないが*1、これらの意識改革のための教育も平行して行っているだろう。しかし意識は改革しない。この頑固さは郵政職員が馬鹿なことが原因ではない。意識を改革することによる郵政職員の個人的なメリットが存在しないことが原因だ。今までがあまりに優遇されていたために金銭による報酬を上げてもらうことはありえないだろうし、労働強化は確実に要求される。「ダウンオアナッシング」の取引を提案された人間の合理的な反応は取引そのものを拒否することだ。取引が停滞している間は従来のぬるま湯に浸っていられるからだ。意識を改革しないということはつまり、このように取引を拒否している状態であり、これを解決することは相当に難しい。




経営工学のメソッドに従った現場の情報を集めない限り、最適化した状態は考案できるわけがありません。想像で書いた効率化案はこの最適化された状態でないために、突っ込みどころが確実に存在します。そのために僕が書く改革案も、NATROMさんが感じている最適状態もよほどの偶然がない限りぎりぎりまで追求した最適状態ではありえません。そんな内容に合意などありえるわけがありません。
しかしどういった理論に基いた改革案なのかを科学的かつ具体的に僕が解説することで、このゴールのない議論も多少の価値のある議論になりえます。僕が書く具体案は結局は間違いである可能性は高いですが、それを考え付くための方法論は応用の利くものなので、その方法論を議論することに意味が出てくるわけです。
そしてその方法論を基礎知識とした上でさらに専門的体系的な知識を習得した人間が、現場の情報を科学的に蒐集解析して改革案を作り上げるならば、実効的な改革案が成立するでしょう。しかしそれをする立場にない僕にとっては情報蒐集は不可能です。情報収集と改革実行の権力を持った人が、僕を雇うか、別の専門家を雇うか、本人が勉強するかをして改革を成功させるより他の手順は存在しません。そして「Q&Aその2」で述べたように医療産業の効率化は不可避の政治的課題です。




>「3分診療」と揶揄されるように、たいていの外来診療は現状でも、「診断→治療方針→治療→説明→記録」まで、早ければ数分です。外来患者を最も効率よく診察するのは診療所レベルで十分で、分業することにより、かえって無駄な時間が増えてしまうのではないでしょうか。
僕はこれを2分、1分と短縮する方法があると思っています。10秒でも5秒でも短縮できる方法があるのならばそれを実行するべきです。多くの産業ではそのようにどうでもいいようなカイゼンを繰り返して現在の効率を達成しているからです。
例えば患者を診察室に呼び出す際の時間を考えてみましょう。呼び出してから患者が診察できる状態になるまでに20秒かかったとします。逆に患者が診察できる状態になっている診察室に医者が入室して診察を開始するまでに10秒かかったとしましょう。それならば診察室を二部屋用意して、医者が二つの部屋を行ったりきたりすれば10秒の短縮ができます。
部屋を移動することは高度な知能を要求される行動です。病院に慣れている職員と、慣れていない患者ではその移動速度に極端な差が発生します。これは実際にストップウォッチで計ってみれば検証可能です。実際の患者での平均値と、病院職員が患者の役をするロールプレイで比較してみればこれを実感できるでしょう。
このような双子の診察室をもう少し煮詰めてみましょう。左右対称の二つの診察室の間には二つのドアがあります。一つのドアは看護師などが歩いて移動するドアです。もう一つは医者がキャスターつきのイスに座って移動するドアです。診察が終わると看護師は隣室に移動し、すでに入室してる患者に診察の前準備を始めます。その間、医者はパソコンの前に座って電子カルテを入力します。電子カルテを入力し終わった医者は、行儀の悪いやり方ですが、イスに座ったままでイスのすぐ横にあるドアを通って隣室に移動します。隣室は左右対称なので、ここでもドアの横に診察用の机があります。この机の上にもパソコンのモニターがあるわけですが、これは隣の部屋のパソコンのモニターと本体を共有すればいいでしょう。
患者はドアに仕切られている隣室にいる別の患者を気にすることなく、病気に関する個人情報を口にしたり服を脱いだりできます。次の患者がじりじりと待っていることを気にせずにゆっくりと服装を整えてから退出することもできます。看護師の診察の後片付けに時間がかかっても、それは医者の診察時間を侵食させずにすみます。
通常の産業であればこのような重複設備はコストアップの原因になります。しかし医者の高い人件費を考えると逆にコストダウンとなるでしょう。病院のコストダウンの中心は医者の人件費をどれだけ抑制するか、どれだけ医者を医療マシーンのように機械的に行動させるかという命題になります。そのようなマシーンとしての扱いが自分の人間性への侮辱だと感じる医者はそれこそ「開業医になればよろしい」のです。僕は人間らしく働くことよりも、人間らしく休息することのほうが人道的に優先されるべき課題だと思っています。


トリアージ医師については、現在でも、医師が予診をとって振り分けるシステム(大学病院などが多い)は既にあります。専門分野領域の患者が多く来る大病院だから必要なのであって、多くが軽症である一般外来で同じことをやっても効率化にはなりません。
看護師が外観で患者の緊急性を判断できるのならば、軽症専門のスーパーマーケット病院ではトリアージ医師は必要ではないでしょう。手遅れになる前に緊急患者を診察治療するという医療に求められるノーブレス・オブリージュが達成されるならばどのような手段でもかまいません。
大学病院などでトリアージ医師がすでに配置されていることを僕は知らなかったのですが、これに関しては僕が当たり前の方式だと感じていることをその大学病院も同じように感じていただけのことです。これと同様に、僕が「こんなやり方はどうですか?」と得意げに解説する方法のいくつかは、すでに実施している病院があっても驚きません。目的が同じならば同じ解決方法が考え出されることはかなり確率が高いことだと思っています。
さて、この与診が行われることは診察医師の診察時間の短縮につながります。僕はこの分業に関してトリアージ医師とともに問診表の充実も提案しています。この問診表がきちんと記入されているかどうかで診察時間は10秒単位で違ってくると思うのですがどうでしょうか。
問診表が充実されることでストップウォッチに見えるほどの効果があるのならば、この作業に経営資源を投入することは全体的な効率を上げます。しかし問診表での問診内容が増えることは患者側の能力的な負担の増大を招きます。その結果問診表の記入が失敗し、その失敗が逆に診察時間の伸長を招くリスクがあります。能力に応じて書けるだけ書いてくれるならばありがたいのですが、書くことがあまりに難しいと最初から全部書かないという行動を取られてしまうことは十分に考えられる事態です。
患者にきちんと問診表を書かせるシステムを用意できればこの問題は解決します。いくつかの役所では書類がきちんと記入できているかどうかをチェックし、書類の記入項目で分からないところがあれば相談に乗ってくれる人が待合室に導入されています。これによってカウンターで市民がいちいち足りない部分を手で書き込む時間の無駄が削減できています。もちろんその市民にとっては待合室の書類記入机で書き込もうが、カウンターで書き込もうが同じ時間のコストしかかかりません。どちらかといえばカウンターで手取り足取り教えてもらいながら記入するほうが簡単でしょう。しかしカウンターの担当者からしたらそれは無駄な待ち時間でしかありません。書類記入は多くの市民が書類記入机で並列処理してくれることが役所の効率化につながります。そして市民の価値基準と役所の価値基準のギャップを埋めるために、相談員を待合室に配置しているわけです。
当然この問診表の書式にも多大な考慮が図られるべきでしょう。これは特に問診表を書くのが苦手な患者に聞き取り調査を行うことがカイゼンにつながるでしょう。また、きっとアンケートの書式の専門家が広い日本には存在すると思います。
その病院が専門とする領域によって違うとは思いますが、この問診表から診察前の検査をするべき項目が判明します。風邪の患者しか来ない病院だと体温を測るくらいしかできることはないかもしれません。しかしこの事前検査の項目の決定は医者にしか許されていないと僕は想像しているのですが、そうでないのならばその権限を持っている看護師なりがその作業を担当すればいいです。
この事前検査項目決定の作業だけならば医者が直接患者と面談する必要はないかもしれません。それならばわざわざ専任の担当者を仕立て上げる必要はなく、診察医師が診察の合間にパソコンに向かって書類作業を行うことで作業は完了するでしょう。
分業の概念は作業を細分化して、作業をマニュアル化・ルーチン化することで段取りを考える時間を削減することに重要な意義があります。専任担当者がいれば学習効果により作業効率は上がりますが、すごくひまな専任担当者を作るような事態になれば逆効果となります。もちろん規模が巨大になれば、そのような小さな仕事でも専任担当者一名分の仕事量になって効率が上昇し、スケールメリットと呼ばれる状況を作り出せます。


うーむ。全然話が進まなくて申し訳ありません。NATROMさんへの返答はあと一回か二回でとりあえず終わる予定です。

*1:こういった専門知識が要求される現場の論評を専門分野の知識をほとんど持っていないとわけの分からない結論が出たり、ニュースになった事実の是非を判断するための材料が提示されなかったりする。医者もきっと裁判所に対して同じような不満を持っていると思うが。

病院システム近代化計画Q&A その3

前回、途中で根性が切れて変なところで中断してしまいました。「Q&Aその2」の改革は現場と一緒にやっていこうという話の続きです。


さて、改革を現場と一緒にやっていこうと言っても、現場は誰と一緒にやればいいのかを僕はまだ明示していませんでした。その相手は僕のような経営学の専門家でしょうか?答えは否です。
もしも僕が病院に乗り込んで改革を指導してうまくいくでしょうか。医療産業に関する知識が足りないことは取材や観察にある程度の時間をかければ補いはつきます。それらの知識と僕の経営学の知識を掛け合わせれば、ここで書いている曖昧なものではない実現性の高い改革案が作成できるでしょう。誰もがそれが成功するであろうことを疑わないすばらしい改革案が立てられるかもしれません。しかし僕は病院にその計画を実行させることはできないでしょう。
その理想(あくまで理想です)の改革案は病院全体の効率を上げ、その結果患者は喜び、病院のコストは下がります。コストが下がったおかげで病院の経常利益は上昇し、その利益の一部を労働者に給与として分配するでしょう。これならば誰もが得をするから、こぞってその改革案の実行に協力するはずです。机上の空論ではこうなりますが、現実はもっと混沌としていて対処困難です。


なぜ僕が改革実施者になれないか
一番の問題は労働と報酬の問題です。机上の空論では全員の給料が増えて皆がハッピーでしたが、現実世界では給料が増えてもハッピーにならない事態が往々にしてあります。その多くは労働強化と給与増加が結びついているときです。労働強化は単純に労働時間の問題だけではありません。労働時間がたとえ短くなっても、自分が望まない仕事、自分に向いていない仕事を要求されたとき、労働者はそれを労働強化だと感じます*1
次にたとえ労働強化がなくても金銭以外の報酬が減った場合、労働者は不幸になります。金銭以外の報酬は汎用性が低いものが多いので、別の種類の報酬を代わりに与えても大きな効果は発揮できないことがほとんどです。こういった場合には、経営サイドは労働者への報酬を増やしたつもりでも労働者は報酬が減らされたと感じます。
最後の問題は僕の改革案が言葉どおりのものであると現場が信じきれないことです。改革案の内容を信じるならばその労働者にとって望ましい結果になるとしても、ふたを開けてみたら全然ダメな結果しか得られないリスクを考慮すると、現状維持のほうがその労働者にとって期待値が高い場合です。僕と現場の間で信用醸成ができていないということです。


僕が改革実施者になるためには
僕が改革を実現するためには、改革に絶対反対だと主張する労働者を解雇しなければなりません。労働者一人一人に解雇か業務命令に服するかを選ばせなければなりません。この権力を持たない人間は絶対に改革を実現させることはできません。組織の人間が全員一致で賛成するような事案などよほど異常事態でなければありえません。
ここにおいて僕は単なる理論屋ではなく経営者の一員となります。実務的には僕がコンサルタントとして経営責任者にアドバイスをして、経営責任者が彼の責任と権限において改革を実行することになるでしょう。経営責任者もまた現場の一員だと見なすならば、改革は常に現場だけでしか行えないと言えます。別の見なし方をすれば改革は常に経営責任者のトップダウンでしか行えないとも言えるでしょう。
僕は僕の価値観上は労働者にとって得になるような取引は提案できるでしょうが、それは一部の労働者にとって損な取引となるでしょう。これは個人が固有の価値観を持つ限り避けられないことです。僕は彼らに価値観を変更することを強制できません。僕の価値観を認めて改革に協力するか、自分の価値観においてより条件のよい職場に転職するかを選択させることまでしかできません。内心の自由という基本的人権を守るためには労働者の権利の一部は制限されるべきものになります。
そうは言っても経営者はどんな改革案でも労働者に押し付けることができるわけではありません。最低条件としては労働基準法に抵触しないというものがあります。そして解雇にあたってはさらに高いハードルが設定されています。社会的に許容されている価値観の範囲を大きく逸脱したような事案でなければ解雇を強制することはできません。ただしこの価値観は僕が解明した前近代的な医者の価値観ではありません。近代社会にオーソライズされた裁判所が認めるものは近代的な価値観で不当解雇かどうかを判定するでしょう。


改革案の議論を始める前に
しかし僕はそうやって労働者に職場を去られると困ります。去っていった労働力の補充ができるかどうかは不明ですし、たとえ補充ができてもそれは非熟練な労働力である可能性が高いからです。だから僕は労働者ができるだけ現場を去る覚悟をしないような改革案を提案しなければなりません。ここから現場と経営者の妥協が始まります。これこそが民主主義です。
前回の最後にも述べていますが、妥協とは妥当なところで協力することです。そして妥協とは決してゼロサムゲームではありません。妥協の内容をうまく作り上げればいわゆるWin-Winの関係になりますし、下手な内容だと骨折り損のくたびれもうけになります。そしてうまい内容を考え出すには多くの知恵を集めることが必要です。知恵は、僕のような経営学の理論家からも集めるべきですし、現場や顧客をよく知っている労働者からも集めなければなりません。
「みんなで相談」は響きのいい言葉ですが、これを行うと議論はたいてい明後日の方角へと走っていきます。これが許されるのは小学校の学級会だけです。何が悪いのでしょうか。
それは実現されるべき価値が多様すぎることに起因します。「労働者の生活」「労働の満足感」「労働者のプライド」「業務の主目的」「顧客満足」「遵法精神」「経営者の利益」「経営者の権力欲」これらはすべて互いに交換不可能です。「労働者の生活」が100点あるならば、残りは0点でもかまわないというわけにはいきません。交換不可能ということは、足し合わせることができないということであり、当然にこれら全部の価値の合計の最大値の計算も不可能です。ならばどれだけ議論したところで最適解など見つかるわけもありません。
これを解決するための手法が、価値を実現させるための中間媒体を用意すること、つまりはお金です。お金を使って各個人がそれぞれの満足を実現させることができます。こうすれば経営者は労働者各個人への報酬の種類を一元化でき、最適解を見つけ出すための労力が大幅に削減できます。つまりはこれが近代のパラダイムです。
お金という中間媒体を用意することで「労働者の生活」「経営者の利益」を一つにまとめることができました。しかし残りの価値はお金では代替不可能です。近代というパラダイムにもできることとできないことがあるのです。
次に無視するべき価値を探します。近代のパラダイムにおいては「労働者のプライド」と「経営者の権力欲」は無視されるべき価値です。これらは近代において悪と認定される価値だからです。そうは言っても僕は近代マンセーでもないので、完全にはこれらの価値を否定しません。僕はこれらの価値の一部はお金で補償され、残りの部分は「業務の主目的」の達成で代替されるべきだと考えています。「顧客満足」と「労働の満足感」は近代では悪の価値観ではないですが、これもお金と「業務の主目的」で代替されるべきでしょう。
ただしこれらはもともと別の価値ですので完全に代替することは不可能です。これらの価値は人間にとって不可欠なものであり、それを全部別のものに置き換えることは人間が人間であることを否定しなければなりません。言い換えればこれは民主主義の否定です。
人間が人間であることを認めることが民主主義ですが、民主主義社会においてはそのすべてを野放図に認めることはできません。社会を運営するためにはその構成員が互いに価値を譲歩しあう必要があります。具体的には互いに尊重しあう最低レベルを設定し、そこから先は各自の個人的努力によって達成しましょうという合意を成立させることです。そしてその合意が法であり、礼儀やマナーです。
礼儀やマナーも法の一種だと考えれば、これは「遵法精神」という価値に置き換えられます。「遵法精神」という価値をどのあたりまで満足させるかは経営者・労働者・顧客の三者の価値観の最大公約数的なものになるでしょうが、僕は医療産業においては他の産業よりも高い部分に設定されるべきだと思っています。その理由は何度も説明しているように近代社会では医療に対して前近代性が要求されているからです。


そろそろみんなで相談しよう
ここまで価値を整理した結果、最適解を見つけ出すために要求される価値基準は「お金」と「業務の主目的」の二つに絞られました。「遵法精神」は達成されるべき価値ですが、その達成度はすでに設定されているために最大化を果たす必要はありません。
それでも最終的に残された価値は二つあるために完璧な最適解は求まりません。しかし僕はこれ以上の絞り込みは不可能だと思っています。ここまででもかなり強引な絞り込みをしているのに、これ以上の無理をするとまたわけが分からない混沌に突入してしまうと考えるからです。
実務上は「業務の主目的」の達成度を固定した後に「お金」の最大値を導き出す手法が正しいでしょう。「業務の主目的」は青天井でありどこまで行っても完璧にはなりえない以上、どこかに「社会通念上必要」な達成度を設定するしかありません。時代が変わればきっとこの「社会通念上必要」な達成度は変化するでしょうが、それはその都度議論を行うしかありません。
ここまで述べたような、協力の前段階の議論に関しては現場労働者の出る幕はありません。この前段階の部分は純粋に経営学的な議論だからです。もちろん現場労働者が経営学の知識を十分に持っているならばこの前段階の議論に参加しても一向に構わないのですが、それは「現場労働者」として参加しているのではなく「経営学者」として参加することになるでしょう。
しかし前段階の議論が経営サイドとして決定した後の実務的な方法論に関しては、現場労働者は積極的にその知識を議論に提供するべきです。最大化されたお金の分配割合においては現場と経営者と顧客は対立する立場になるでしょうが、お金を最大化することに関してはその三者はまったく同じ方向で努力することが各自の利益につながるからです。


A&A
このエントリーのタイトルはQ&Aなんですが、ここに書かれた文章の中にはまったく「Q」がありません。タイトルに偽りありです。しかし、今日の文章は今後の議論のためにはどうしても必要でした。もしも今日の内容に関してNATROMさんが納得がいかなければ、そして「ちょっと違うんじゃねえの。本当はこうするべきだろう」というNATROMさんの反論に僕が納得いかなければ、ここから先はまったく議論できなくなります。
しかし前近代のパラダイムから生み出される、前近代を固持するための医者のプロトコルを遵守するならば、今日の文章の内容は承服できない内容になります。この文章は科学というプロトコルから作り出されているもので、まったく違う価値を達成しようというものだからです。極端なことを言うとこれは、「古きよき医者」か「科学者」のどちらを選ぶかの踏み絵となっています。もしここで「科学者」のステップを踏んでしまうと、「古きよき医者」からは敵視されるでしょう。「古きよき医者」を選ぶと「科学者」からは敵とされてしまいます。僕はNATROMさんとはネット上の接点しかないのでどちらを選んでいただいてもかまいません。しかしこのような踏み絵を提示してしまったことに関しては申し訳なく思っています。すごく失礼な態度だと思っています。もしかしたら僕があさはかなだけで、「古きよき医者」と「科学者」の両方を満足させるプロトコルが存在するのかもしれません。


そうは言ってもまだまだこのQ&Aは続きます。ご覧の通り「毎日更新」というわけにはいきませんが、できるだけ最後まで頑張りたいと思います。

*1:資料整理室も労働強化かなあ?

病院システム近代化計画Q&A その2

NATROMさんのコメントへの返答です。
返答がかなり長くなっていますが、「読む気をなくさせる大量の文章を提示して煙に巻く」を意図しているわけではありません。長くなるのは以下の3つの理由によるものです。
1.共通の知識的基盤が小さい
2.簡潔に説明する能力が足りない
3.細かく説明するのが好き
長い文章を読むのは面倒くさいことなのですが、できるだけ分かりやすい文章で書くことを心がけていますのでどうかご容赦ください。


>お疲れ様でした。
なんてやさしいあたりまえだろう!このあたりまえの一言をおれは求めていたんだっ!!新約 炎の言霊―島本和彦名言集〈2〉より


>現在の日本の医療システムは効率が悪いというのが前提とされているように思えるのですが、それは事実ですか?諸外国と比較すれば、効率と言う点では日本はきわめて優れています。
「日本の」という言葉の反対語は「世界の」になるわけですが、僕は外国の医療現場についての知識*1がないので、「世界と比較した日本の」医療システムという形では意味のある議論をすることができません。僕ができるのは医療産業が他の産業と比べてどのような特質を持つだろうかということを経済学的に推測することと、将棋板の外から次の指し手はどうするべきかと無責任に語ることの二つだけです。
「近代において人間の生命が代替不可能な財となったために医療産業は前近代的な性質を持つことを要求されるようになった」この命題は国籍に影響をうけません。その国の近代レベルがどうなっているかには大きく影響を受けますが、それは命題の前提条件である「近代」というパラメーターが変化しているだけの話で命題自身の正否には関係がありません。そして近代というパラダイムの次に来るべき「ポスト近代」においてはきっと別の命題が適用されることになるでしょう。
現在の日本には「ポスト近代」というパラダイムの萌芽があるような気がしますが、僕はまだこれに関しては深く考察していません。なので文責を負えない想像でしか書くことができないのですが、「ポスト近代」においては「近代」において罪と認定されている前近代的な感情(名誉が大好き!など)を公式に是と認める価値観が出来上がると考えています。ここにおいて医療産業がどうしても固持しなければならなかった「前近代的な価値観を満たすために近代的思考方法を否定する」というプロトコルを使わずに近代的な管理技術を導入することができます。
さて、日本の医療が諸外国に比べて効率的ということですが、その判定方法には3種類の側面があります。
1.「日本人の遺伝的体質や食生活などの習慣によって日本人の疾患率が低かったり、回復するための基礎体力が高い」「日本人の文化としてクレームを主張する人が少ない」という外的要因
2.公定価格制度によって価格が据え置かれているために、投入されている人的物的コストを安く見積もっている会計的要因
3.単純に本当に効率がよいという内的要因

この3種類の要因の合計によって効率が比較されるわけですが、もしも第3要因が負の値であったとしても第1要因・第2要因が大きな値であれば総合で効率がよいと判定されますし、逆の状態もありえます。
実際は僕は第3要因は結構大きな正の値だと想像しています。日本人の教育レベルは非常に高いですし、工夫が大好きであることや外部不経済を撒き散らすことへの嫌悪感はどのような産業でもその効率を上げることに寄与するでしょう。
第1要因に関してはそれが正か負か知りません。なんとなく正の値ではないかと想像していますが、なんとなくでしかありません。第1要因の前段が正の値であることは社会的に望ましい状態なので、それを強化するための教育を行うべきだと「その10」で言及しています。
第2要因は諸外国と比較した場合にはどうかわかりませんが、国内他産業と比べると明らかに正の値です。名誉という金銭でない報酬を取引通貨とするという簿外取引が行われていることと、医者(とりわけ公的病院の勤務医)の給与を不当に安く見積もることで金銭をベースにした会計上の効率が引き上げられています。簿外取引に関しては、僕はこのような取引は好きではないですが、きちんと報酬が支払われているのならば正義とするべきでしょう。しかし医者に不当な低賃金を押し付けていることは不正義だと思っています。いすれにせよこの部分の関与度を明らかにしない限りは全体的な効率の話はいい加減であやふやな議論にならざるを得ません。
そして重要なことは現在の日本の医療が効率的かどうかではありません。もっと効率をよくできるかどうかです。僕はまだまだ効率化できる部分は多くあると思っています。効率化への道は「血を吐きながら続けるマラソン」ですのでゴールはありません。今日のところはこれ以上効率化はできないとなっても、明日に新技術が発明されればさらに効率化を進める余地が出てきます。


>いったいなぜどこの国もそうしないのでしょう?アメリカ合衆国なんかは喜んで採用しそうですが。
日本は科学技術の点でも経済規模の点でも世界の最先端の国の一つです。もはや我々は諸外国の動きを後ろから見て自分の行く道を決める場所を走っていません。そしてこれは僕の私見ですが「ポスト近代」のパラダイムへは日本が最初に到達できるのではないかと思っています。そうなると日本が最初に医療の近代化を果たす役割を担わされてもおかしくありません。
確かにアメリカはこういった近代化が好きなのでアメリカのどこかの州が先に医療近代化革命に挑戦するかもしれません。もうやってるかもしれません。よく知らないです。ただ、アメリカの文化は「近代化原理主義」みたいなところがあるので、近代というパラダイムが要求する「医療の前近代性」を排除しきれないのではないかとも思っています。
僕の近代化改革案は現在の技術革新を前提にしているものです。その前提となる技術が社会に浸透してからまだ十年程度しか経っていませんから、まだどこの国でもその技術を利用したシステム改革が行われていないことは不思議ではありません。そして他産業に比べると近代化が合理的になるために要求される技術レベルが医療産業において高いことは既に述べています。


>また、たしかに緑の窓口や路線バスは「近代化」して効率的になったのでしょう。しかしそれは現場をまったく知らない人によってなされたものなのでしょうか?
何度も言及していますが、現場の協力なしに現場の近代化は絶対に行えません。しかし現場の努力だけで近代化を行うこともほとんど不可能に近いことです。局所的にはそういった不可能を可能にする天才が出現する可能性がありますが、そういったオーパーツ的な改革は同業他者の理解を得ることは難しく、歴史の波に飲まれてしまうことが社会の常識です。
いくつかの条件が重なったときにはこのような局所的な天才の出現が業界を大きく震撼させる場合はあります。その条件は以下の通りです。
1.その産業は法律的な規制をほとんど受けていない
2.改革時にはその産業の規模は小さかった
3.その産業の急成長を受け止めるだけのインフラが存在する
4.産業規模が大きくなったときも中核組織は比較的少人数のチームで運営できる
(5.軍事上の利点がある)

これらの条件をクリアーして成功を収めた産業はかなり少ないです。巨大産業にまで成長したものは「三国間貿易*2」「コカコーラ*3」「検索エンジン*4」などがあります。しかし多くの産業ではこれらの条件に当てはまらず、特に医療産業は条件が最悪に近いです。
局所的な天才を受け入れる条件が整っていない産業はどのように自身を改革してきたのかという問いには簡潔に答えることができません。各産業が抱えている固有の条件によって方法論が大きく違ってくるからです。そこで医療産業と条件が似ている鉄道産業を基に改革への道程を見てみます。
まずは(昔の)鉄道産業と医療産業の似ている部分を見てみましょう。
1.法律の規制を大きく受けている
2.国民の生命に大きく関与している*5
3.職業固有のプライドがあり、しかもかなり高い*6
4.国民の生活にほぼ必須のものである
5.産業が急拡大することも急収縮することもない
6.新製品という概念が薄く改良品やサービス地域の拡大が主な営業改革である*7
7.国民一般のレベルと比べると高い技術を有している*8
8.客を待たせて自分自身の組織の運営効率を優先する*9
9.主目的がはっきりしている
*10
違っている部分も見てみましょう。
1.経営規模が極端に違う*11
2.現場労働者の学歴が違う
3.国民の利用頻度が違う
4.代替手段の有無が違う

これらの条件の異同を念頭に置いた上で鉄道産業の近代化の道のりを見てみましょう。


前段階 古きよき時代
官僚がひいた青写真にしたがって業界地図が作られたり、主目的を強化するための技術革新が現場主導で行われます。
ここで実施される改革のほとんどは主目的を達成するためのものとなります。これは主目的がはっきりしすぎていることの弊害ですが、主目的がより確実に達成できるのならばコストが上がったり顧客満足度が下がることは重大な問題ではなくなります。ただし主目的は国民の生活に必須のサービスであるために、少しくらいコストがかかっても社会的な効率は向上します。


第一段階 社会的な効率とのずれ
主目的を向上させるための投資は年々限界費用が高まり、それによって得られる限界利益は年々小さくなります。よほど大きな基礎技術上の発明がない限り、このミクロ経済学の一般法則から逃れることはできません。その結果、限界費用限界利益を上回る日がいつかやってきます。他の産業では新製品を開発することでこの限界利益の罠から逃れることができるのですが、鉄道も医療も新製品の概念が薄いのでこの罠にはほぼ確実にはまる運命にあります。


第二段階 高価格化と顧客満足度向上
第一段階の罠を放置すると(しかも放置せざるを得ないことが運命付けられている)前段階で稼いだ効率の貯金が次第に減ってきて最終的には累積赤字に至ります。本来ならばこの段階で技術開発への投資を削減したり、事業の存続そのものを見直す必要があります。しかしこれが国民の生活に必須の産業であるために事業規模の変更は許されません。また現場のプライドや士気を保つためには技術開発をやめることも許されません。
ここにおいて経営陣は経営方針のパラダイムの変更を要求されます。今までは主目的の向上を目指すことが経営方針上の正義だったのですが、これからは別方面での効率向上によって顧客の引止めを行わなければなりません。つまりは顧客満足度を引き上げることを主目的での高コストを背景とした高価格の代償とするのです。
鉄道においてはこれは指定切符販売のオンライン化であり、医療においてはインフォームドコンセントとなるでしょう。これらのサービスは純粋に事業者の持ち出しになりますが、これがなければ顧客は激減することになります。国鉄は当時、日常的な運賃改定が行われていましたし、医療では健康保険の受診者負担割合が改正されています。これは現場にとっては労働強化でしかありません。しかしこの労働強化を受け入れない労働者は職を失うことになります。経営陣も現場労働者に労働強化を押し付けない限り、事業自体の破滅を招くことになります。
しかしこれらのサービスは国民にとって必須のものであるために実際には国民は不買運動を起こすことができません。その代わりに国民は政治家を通して規制内容を変更することでこれらの産業の経営方針に影響を与えます。国民は国鉄を完全解体することもできるし、医療の保険点数を変更させることもできるのです。もちろんこのような破滅的で急進的な意見は実際の政策に直接反映されることはよほど政治が変な国でなければありえないでしょう*12。その代わりに妥協案として上記のサービスが実行されることになったのです。


第三段階 主業務のコスト削減
しかし第二段階の改革は第一段階で直面した業界の高コスト体質を改善するどころか悪化させる方向でしかありません。これは短期的な解決方法であり、長期的な解決を図るためには別のパラダイムを創出しなければなりません。
それこそが主業務を効率化することによるコスト削減です。
注意していただきたいのはこれは前段階における主目的の強化とはまったく別の方向を目指した改革であるということです。主目的の実行能力をできるだけ維持することに努めるべきですが、どうしても必要ならばそれを弱体化させることも許容しなければなりません。
この主目的の弱体化(あえて弱体化と書きます)がなぜ国民に受け入れられるのでしょうか。その産業は国民にとって必須であり、国民の生命そのものにも直結していたはずではなかったのでしょうか。国民が主目的の弱体化を受け入れられるのは、すでにその主目的が相当に強化されているからです。上を見ればきりはないのですが、国民は現状での主目的の達成状況にとりあえず満足しています。日本国内のほとんどの主要都市間は一日で往復可能ですし、よほどの離島でなければ一日で片道を移動可能です。医療も不治の病は相当珍しくなってきています。たとえ不治の病でもそれ以外の原因で死ぬ確率が高くなるほどに病状を安定させることができるようになっています。これ以上の主目的の向上は国民にとっては必須で喫緊の課題ではない、つまり代替可能な財になってきているから市場原理が適用されるようになり、価格の低下が要求されるようになってきているのです。
この改善部門の変更は現場労働者にとって個人的な労働強化になります。現場労働者はこれまで主目的の強化するための個人的なスキルを磨いてきていたのですが、これからは別のスキルを要求されるからです。今まで磨いてきていないスキルを要求されることは、まっさらな状態の新入社員にとっては同じ努力が必要とされる作業でも、熟練労働者にとってはこれまで以上の努力を要求されるということです。
またこの改革方向は労働者の士気を大きく損ないます。労働者は主目的の達成こそが自分の生きる目的だと信じてきたのに、それを否定され、場合によっては逆方向の努力を要求されるからです。
それでもこの改革を行わなければ第二段階と同じ脅迫を国民から突きつけられることになるでしょう。現場労働者はこの脅迫を快く思いません。誰だって脅迫されることは不愉快な現実です。しかし脅迫に抵抗しすぎると国民側も意地になり、最終的には業界が崩壊するような政治選択を行う危険があります。現場労働者は彼らのノーブレス・オブリージュを守るためにどこかで妥協しなければなりません。
国鉄民営化はこの脅迫がかなり最終段階まで進んだ時点で妥協が達成されたために、国鉄労働者は大きな妥協を要求され、国民は巨大な国鉄債務を負うことになりました。もっと早い段階(例えば10年ほど早く)に妥協が達成されたならば、場合によっては国鉄は民営化されなかったかもしれません。その場合には労働者の解雇人数も少なくなり、解雇される労働者も長い猶予期間が与えられることになったでしょう。妥協がもっと遅くなっていたならば国鉄はもっと細かく分割され、現在よりももっと多くの路線が廃線になったでしょう。もしかしたら四国や北海道の路線は今の5分の1くらいの長さしか残らないかもしれません。


妥協とは妥当なところで協力すること
ここまで見たように、鉄道や医療産業では国民と現場労働者の利害は第三段階において真っ向から対立します。この対立だけを見るとNATROMさんのように現場無視で改革が進められるように感じるでしょう。そして現場労働者は国民から裏切られたように感じるでしょう。しかしこの対立は産業の性格からして不可避のものであり、現場労働者にも国民にも非があるわけではありません。
しかしこの対立局面で妥協を拒否しチキンレースから降りないことを宣言する人間は、どちらの側に立つものであっても社会的に糾弾されます。第二段階まで強化され続けたこれらの産業の主目的は国民にとって必須の社会的インフラであり、それを破壊するようなことは許されるべきではありません。
妥協は対立する両者にとって敗北ではありません。互いに受け入れられる部分を譲歩し、受け入れられない部分を譲歩させる行為だからです。こうして突き詰めるとNATROMさんの持たれた疑問、「それは現場をまったく知らない人によってなされたものなのでしょうか?」は言葉上は「そうではない」という答えに行き着きます。しかし僕は言葉上の論理だけでなく実際の方法論においてもNATROMさんを納得させたいと思っています。でもあまりにもたくさん書いたので疲れたから(読むのも疲れるし)また次回ということで許してください。

*1:ERを少し見ただけ。その中で一つだけ印象に残っているシーンがある。救急で運ばれてきた血だらけのエイズ患者を前にした医師が一瞬、彼女の傷口に触れることをためらうシーンだった。その医師はそれを理由に解雇されるのだが、エイズ感染のリスクを冒してまでも治療をしなければならないのはノーブレス・オブリージュだと思う。合理性大好き!近代マンセー!のアメリカでもやっぱりノーブレス・オブリージュは存在するんだなと感心した。

*2:20世紀初頭、国際貿易に従事する貨物船は本国と相手国との間を往復することが普通だった。運良く輸出トン数と輸入トン数が釣り合っている場合は往復ともに満載で運行することができたが、釣り合ってない場合はどちらかの航路を空荷で運行せざるを得ず非効率だった。しかし運行先を固定せずに第三国を経由して貿易を行うことを始めると大幅に積載率が改善される。本国をまったく経由しない第三国間の航路を積荷の発生状況で選ぶならばさらに積載率は向上する。日本では鈴木商店が最初にこれを行った。鈴木商店は他にも一船売りや寄港地を定める前の出航などで莫大な利益を上げ、これらは現在の総合商社にも広く取り入れられている。
 このイノベーションの時点ですでに鈴木商店は大企業となっていて2の条件をクリアーしないが、鈴木商店の内実は中小企業的でよく言えば官僚機構の重石を持たない組織だったので4の条件はクリアーできている。鈴木商店が急成長した時期は第一次世界大戦のときで5の条件をクリアし、同盟国間の貿易は最大限の融通を利かせてもらえたために1の条件もクリアできていた。

*3:黎明期のコカコーラが成功した第一要因は「どこでも同じ味のコカコーラが飲めるようにする」ことであった。当時の清涼飲料水の市場はメーカーがスタンドに原液を販売し、スタンドがそれを水で希釈して客に販売していた。希釈率は一応の目安でしかなく、スタンドの都合や店員の判断で変更が可能なものだった。しかしコカコーラはスタンドを徹底指導してコカコーラの設定した希釈率を遵守させた。これによりコカコーラは「いつでもどこでも同じおいしいコカコーラが飲める」ブランドを確立したのだ。
 コカコーラはこの時点で1と2の条件をクリアーしており、原液の味の管理だけをすればいいので4の条件もクリアーしている。3の条件に関してはすでに存在しているスタンドにコカコーラを採用させることや競争相手の原液メーカーを買収することでクリアーできた。

*4:いわずもがなのグーグル先生のこと。これに関してはいくらでも書籍が出ているので説明は省略する。

*5:昔の鉄道では死亡事故が日常茶飯事だった。客が死ぬことは少なかったが、保線要員や工事作業者がよく死んでいた。

*6:昔のバスの運転手は割り込みをかけてきた車の運転手を引き摺り下ろして説教をしていたらしい。しかしそんな武勇伝を持った運転手その人が現在ではそんな無茶なことをしたら懲戒対象になると苦笑していた。おっとこれはバスの話だ。

*7:鉄道で言えば豪華客船のような旅そのものを楽しむサービスなど。医療で言えば健康な人間に筋力増強サイボーグ手術を施すなど。そして新製品はまったく新しい概念に基くものが多いために、僕の想像力を超えた新製品が多分多数あるはずです。

*8:列車の運転なんて普通の人間が日常生活で身につけられる能力なわけがない。教育や訓練を受ければそれほど難しい技能ではないのだろうけど。しかし彼らはその違いを総合的な人間としての能力の違いだと主張することでプライドを保っている。

*9:これが悪いというわけではない。この方法論で全体的な効率が高くなる産業だということ。

*10:医療ならば患者の治療。鉄道ならば乗客の輸送。切符の販売は主目的ではない。実はここまで主目的がはっきりしている産業は珍しい。多くの産業ではお金が儲かるのならば中間目的などはどうでもよい状態である。そしてお金というのは単なる代替手段に過ぎないので非常に曖昧な目的だと言える。

*11:路線バスやタクシーなどを含めた公共交通機関としてみるならばこの差は縮まる。それでも国鉄は極端に大きな経営規模だったが。

*12:独裁国家ではしばしば変な政策が実施される。その最右翼は中国の文化大革命だ。アフリカや中南米の国家の近代史を紐解くと不思議な政策はいくらでも見つけられる。このような破滅的な政治を行わなかったという一点だけもってしても自民党の歴代政権は高い評価を受けてしかるべきだと思う。

病院システム近代化計画Q&A その1

ちょっとのんびりしてしまいました。
タイトルは「Q&A」となってますが、正確に表現するならば「コメント返答集」とするべきでしょう。Q&Aとしてるのは単にタイトルがあまり長いのもどうなんだろう?という気持ちからきています。Q&Aなんて書くと「知識豊富な俺様が本当のことを教えてやるぜ」みたいな感じに偉そうなのでちょっといやです。そのへんは常に対等な大人の関係でありたいと思っています。


http://d.hatena.ne.jp/shinpei02/20070516/1179323176#c1179418395
Med_Lawさん
>残念ながら、医療の仕事のなんたるかを理解していない駄文でございますな
このシリーズはそもそもこういった脊髄反射的な枕詞がどういった思考回路から生み出されるのだろうかと分析したところから始まっています。自分の言ってる言葉をじっくり聞いてもらいたい人はこのような枕詞を使うのは控えたほうがよいでしょう。


>患者数に応じた医師数を手当てしない限りなんら解決にはならない。
医師数を増やさずに診療できる患者数を増やすための解決案を示しました。


>それにしても5時間待ちで5分ということは、その患者の受付段階で60人の待ち人ですか?3時間待ちの3分というのが、通説でしたが、創作ですか?
創作じゃなくてうろ覚えでした。シリーズの冒頭で述べましたが、僕はこの文言の間違いは認めますが、謝罪するほどの間違いではないと思いますので訂正せずに放置します。


>医師に文句を言う前に
待ち時間が不正確であることに対する患者の文句は実は「医療を行う人」に対してではなく「病院の管理者」に向けられています。現状ではこれらが同一人物であることが多いため、医者も患者も混乱してしまっています。この混乱を解決するためには現場労働と管理の切り分けを明確にしたほうがよいでしょう。


>病院へのアクセス制限が答えになるだろう
医療保険の点数配分とかの資料を持っていないために、このシリーズではアクセス制限の話にはほとんど触れていません。多分僕がこの問題を書いても的を外しがちの議論しかできないと思います。




http://d.hatena.ne.jp/shinpei02/20070516/1179323176#c1179449328
NATROMさん
>外来診療についてはスケールメリットはほとんどないように、現場の人間には思えるのです。
現状の主治医制度ではスケールメリットは出しにくいです。
一応、現状でも検査室で検体検査を集中して行うなどのスケールメリットは多少は発揮されています。しかしどうやっても診察時間がボトルネックになってしまうでしょう。これを打破するためには主治医制度を改めるしかありません。シリーズで述べたように主治医制度にも利点や必要性があります。主治医制度を改革するときにはこれらの利点を大きく損ねないような形を模索しなければなりません。シリーズ中でその利点の分析とそれを損ねない形の改革案を示しています。


>「その病院内だけで通じるコード」がどういうものかは分かんないのですが、
実は僕も分かりません。カルテをじっくり見たこともないし、医者でもないですから。なのでわざとぼかして書きました。
で、シリーズを書いている途中にいろいろと考えたのですが、「電子カルテ医師」は撤回したほうがいいかなと思っています。ボトルネック部分である診療医師の負担を減らしたかったのですが、二度手間によって全体の作業量が増えてしまいそうだからです。その分を診療医師の頭数を増やすほうに使ったほうが効率がよさそうです。
ただし僕が超高給取りの医者だった場合は電子カルテ医師の導入を経営サイドに要求するでしょう。なぜなら僕はこういった報告書の類を効率よく書く能力に欠けているからです。でも世間一般の人々は僕よりも報告書の作成能力が高いようなので、こういった一般論では電子カルテ医師は非効率になってしまいそうです。




http://d.hatena.ne.jp/shinpei02/20070516/1179323176#c1179466051
地下に眠るMさん
厚生経済学の分野でほぼ結論はでてるよ。
僕も常識的な感覚を持った人には国民会医療保険制度が日本の平均寿命を伸ばしていることは証明されていると思っています。しかしこの調査にはいくつかの(アクロバティックな)難癖をつける余地が残っています。「日本人の遺伝的な体質のおかげではないか?」「私が統計をこねくり回してみたら違う結論が出た」などの牽強付会な反論を封じ込められる実験は実施困難だと感じています。経済学のような社会学をしているとそのような難癖にいつも困っています。


>自分たちが恵まれているにもかかわらず、洗脳されて不満を募らせ、自分たちの命を守ってきた制度や人間を非難し崩壊させようとしているというのが多くの人のしていることだ。
洗脳されている人はどうしようもないのですが、洗脳している人は多分高所得者なんじゃないかと思います。高所得者にとっては低所得者の健康を維持するために割高な負担を強いられている現状が納得いかないでしょう。
ただし現在の医療のような規制産業はどうしても効率を上げるための技術革新が滞りがちになるので、規制を撤廃するべきだという意見にも一分の理が存在します。結局のところどこかの妥協点に決着を図るべき問題であり、その議論のたたき台としては崩壊に至るだろう過激な意見も必要になります。




http://d.hatena.ne.jp/shinpei02/20070528/1180350469#c1180402271
拝見しましたさん
>患者はその振り分け役からカルテをもらい指定の診察室に入るようなモデルが考えられる
拝見しましたさんが書かれているように、紙のカルテ(Karte:紙 ドイツ語)では受け渡しミスなどのリスクが発生します。明言はしていませんが、僕はここでは電子カルテが導入されている病院だけを考えています。電子カルテというIT技術の革新が、病院が効率のよいシステムを作るための必要条件になっていると思います。逆に言うと20年前の病院ではここで僕が書いているような改革案など絵に描いた餅に過ぎなかったわけです。


トリアージ医師とはいえ1人1分で診ても、1時間に60人しかさばけませんよね。
前日からの予約患者はある時間帯に集中して来院するわけではないのでトリアージ医師の前にはそれほど長い行列ができるとは思っていません。実際にどれだけの行列になるかは僕には資料不足で推測できませんが。


>つまり、最低でも効率化した分が7人の医師を6人に減らした分を越えなければならない。
拝見しましたさんのコメントの内容をいろいろと考えてみた結果が、「トリアージ医師は直接的に病院の効率を上げることには寄与していない」です。「その11」で詳述しましたが、病院を効率化するにあたって切り捨てられやすいノーブレス・オブリージュトリアージ医師は担当することになります。逆に言うとトリアージ医師がいてくれるから、病院の他部門は心置きなく効率化を進めることができるのです。




http://d.hatena.ne.jp/shinpei02/20070528/1180350469#c1181055643
引用さん
うーん?日本語で書いてくれるとありがたいです。




タイトルは「その1」ですが「その2」があるかどうかは分かりません。

病院システム近代化計画目次

シリーズ終了後に目次をつけるのはなんだか変な気分ですが、分かりやすいように目次を作成しておきます。
このシリーズはもともと病院での待ち時間の表示があまりにも不親切だというネタが発端です。それの解説だけを見たい方は「その6」「その7」へ飛んでいただくとよいと思います。
このシリーズは大雑把に言うと3部構成になっています。その1からその3までで医者という職業の経済学的分析を行い、その4からその7で病院システムの改革モデルの提案を行い、その8からその11で経営学的な分析と予測を行っています。書きながらアップロードしていくという連載形式のために若干の重複などはありますが、その1から順番に読んでいただくと話の全体像がつかみやすいと思います。




病院システム近代化計画 その1
「前書きとしての科学的態度」「近代の前に前近代があった」「ギルドが守るもの」「ノーブレス・オブリージュ
医者と国民の間では近代的なお金に基づく取引のみならず、名誉と尊敬という前近代的な取引が行われている。


病院システム近代化計画 その2
「名誉があればご飯3杯はいけるね」「名誉倍増計画」「攻撃は最大の防御なり」「石化呪文も最大の防御なり」「鏡を見ないとボタンを掛け違う」
医者という職業は共同体を形成し、共同体の利益すなわち報酬としての名誉を増大させるための機能が進化によって作り出されている。


病院システム近代化計画 その3
「前近代の後に近代が来た」「前だけ向いて歩く人」「月並みだけど命の値段」「今も生きる」「明日に向かって書け」
医者が前近代的なのは、近代化した国民が医者に対して前近代的な要求をしているからだ。


病院システム近代化計画 その4
「需要側による分類」「供給側からの分類」「分類して統治せよ」
マーケティングの前処理として需要と医療の機能を分類する。


病院システム近代化計画 その5トリアージ医師」「診療医師」「インフォームドコンセント医師」「スイッチングコスト」
医者の業務を垂直分業させたときの分業案。


病院システム近代化計画 その6
「接客業のノーブレス・オブリージュ」「予約がずれる予約」「予約がずれない予約」「もう少し微妙な調整」
予約業務をまともに運営するためのシステム提案。


病院システム近代化計画 その7
「記号の説明」「診療医師が一人の場合」「複数の診療医師の場合」
予約システムのシミュレーション。


病院システム近代化計画 その8
「無駄無駄無駄無駄!」「必要作業リストの作成」「精神衛生上の問題」
無駄を省くための垂直分業システム提案とその経営学的分析。


病院システム近代化計画 その9
顧客満足度向上計画」「矛盾したパズル」「勝手にさせろ」「知らせるべし」
垂直分業の業務分担先として患者を設定することの経営学的分析。


病院システム近代化計画 その10
「ホウレンソウを減らせ」「ISO9000シリーズ」「スーパーマーケット病院」「大規模病院の憂鬱」「僕だって医療が行える」「多分あと一回」
分業システムの説明最終編およびそれを適用した場合のマクロ的な医療システムの提案。


病院システム近代化計画 その11
「前近代の保護」「近代化の影響」「近代化へのインセンティブ」「とりあえずの完結」
マクロ的な医療システムの提案とその未来。


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その後の議論
Q&Aなど随時新しいエントリーをリンクする予定です。
病院システム近代化計画Q&Aその1
病院システム近代化計画Q&Aその2
病院システム近代化計画Q&Aその3
病院システム近代化計画Q&Aその4
病院システム近代化計画Q&Aその5
病院システム近代化計画Q&Aその6
病院システム近代化計画Q&Aその7


筆者への報酬
お金が一番ありがたいです。でもなかなかそういうわけにも行かないので、賞賛と名誉などの前近代的な報酬を期待しています。
具体的にはこのブログの「第四次産業シリーズ」の読者になってくれると嬉しいです。多くの人にここで述べられている情報ミクロ経済学の知識を身につけてもらうとネットワーク外部性が発生し、間接的に僕の利益になるからです。