ゆずれないものの交渉 その4

今日のまとめ
倫理は対立する別の倫理を弾圧しようとする。しかしいろいろな方法でその弾圧に対抗することができる。その結果、倫理は「互いに弾圧しあわない」という倫理でもって停戦条約を結んだ。
しかし心の底では互いの倫理をキモチワルイと感じている。しかし互いに殺しあわないためには互いのキモチワルイを我慢しあわなければならない。
キモチワルイと感じる心のままに行動すると原理主義に陥り、むちゃくちゃな結果を招来してしまう。
猫最高!


倫理戦争
倫理も強制されているように感じるかもしれないが、従うも従わないもこれまた自由意志によっている。そして倫理に従わない人間には無視や制裁といったペナルティーが待ち受けているのも同様だ。
この原則を裏返せば、倫理を他人に押し付けるときの方法となる。自分の信じる倫理に従わない人間に対して無視や制裁を加えればいいのだ。ただし制裁の発動に関して、若干のルールの変更が生じる。
Aという倫理と対立するBという倫理があったとしよう。倫理Aを信じる人々が倫理Bを信じる市民Cに倫理Aに従うことを要求した場合、市民Cは倫理Aに従うことを拒否するかもしれない。倫理Aを信じる人々は市民Cに無視という制裁を加えようとしても、市民Cにとっては倫理Bを信じる人々が彼との付き合いを続けてくれる限り大きなトラブルと感じないだろう。
無視という手段で市民Cを転向させられなかった倫理Aチームは市民Cに暴力による制裁で脅迫を加えるかもしれない。市民Cには二つの選択肢が与えられる。倫理Bチームに援護を頼むか、倫理Aに転向して今度は倫理Bチームから迫害されるかである。ここでは倫理Bチームに援護を頼んだことにしておこう。
今度は倫理Aチームが決断を迫られる。市民Cの説得をあきらめるか、倫理Bチームと戦うかである。戦うからには勝たなければならない。倫理Aチームは彼我の戦力を比較する。戦闘員の数は?戦闘員は士気は?別の倫理チームは援軍に来てくれるか?もし倫理Bチームの戦力が極端に強ければ倫理Aチームは全滅させられてしまうかもしれない。
ただし倫理は内心の問題でもあるので、殺されない限りは内心における倫理まで消滅させられるわけではない。単に倫理Aチームの構成員の目の前で自分は倫理Bを信じているとの信仰告白を行うことができなくなったり、倫理Aにおける行動規範を遵守しなければならなくなるだけだ。
もちろんこれは内心の自由表現の自由の侵害だが至極普通に見られる現象だ。たとえば「人を殺してはいけない」という倫理は社会の中で多数派であり「殺したいときに殺せばいい」という倫理を弾圧している。そしてこの弾圧は「公共の福祉のためには倫理を弾圧してかまわない」という多数派の倫理によって正当化されている。


無倫理主義者は存在しない
倫理を弾圧する方法もまた倫理によって規定されているのだが、この弾圧のための倫理は時代によって変化する。これが変化する時期には社会の大きな混乱が起きる。いや、社会を混乱させている力が弾圧のための倫理を強制的に変化させていると見るべきかもしれない。
倫理を変えさせる力はいつも二つの力がせめぎあっている。現在の倫理を強化する力と弱めようとする力だ。多くの場合、ある倫理を信奉している人はその倫理がきちんと人々によって守られていないと感じている。そのために彼は倫理の内容を厳しくしたり、守られなかったときの罰則を強化することを願う。そのようにしても彼は倫理の崩壊がようやく守られたと感じるだけで、倫理が強化されたとは思わないだろう。そしてある倫理を強化することは対立する倫理を弱体化させることにつながる。結局のところ倫理の総量自体はほとんど変化していない。どちらかというとゆるやかに倫理の総量は増えているのが現在までの歴史の流れである。


自由はキモチワルイ
現代においてもっとも厳しい内容を持ち、そしてもっとも罰則の厳しい倫理は「他人の自由を尊重する」ことだろう。これが倫理であることに多くの人は気づいていない。そのためにしばしば破られ、手痛い罰則を被るはめに陥っている。
他人の自由を尊重することは非常に多くの生理的嫌悪を味わう行為だ。他者が好き勝手に行動し、自分が持っている倫理を他人がいともたやすく踏みにじる姿を見ることはとても悔しいことだ。自分は倫理を尊重し、それがたとえ自分の利益になる行動だとしても倫理を逸脱する行為を自制しているというのに、彼は利益第一主義で野放図に生きているように見えるからだ。
自分の行動も同様に他者から生理的嫌悪を抱かれていることを忘れてはならない。どんな些細なことからも生理的嫌悪というものは発生する可能性があり、その感情を止めることは人間にとって不可能なことだ。
生理的嫌悪を解消するための手段のひとつはその行為をやめさせることだが、彼はその行為が彼にとって生理的嫌悪を引き起こさないからしているのであり、それをやめるように強制されることはなかなか納得できないだろう。第一、逐一他人の生理的嫌悪に反応していたら、すぐに生きていることすら許されないと言う状況になることは目に見えている。それでも行動を規制されたとしたらもはや彼にとってそれは死活問題だ。文字通り命をかけて、倫理による弾圧と戦わなければならなくなる。
「他人の自由を尊重する」という倫理は「生理的嫌悪を我慢する」という気高い倫理である。そしてその倫理は我々が殺しあわずに社会を運営するという経済的合理性を備えている。それは何億人もの、何十億人、歴史を遠く遡れば何百億人かもしれない膨大な犠牲を支払うことでようやく人類に根付き始めた倫理なのだ。


犬はともかく猫は高貴な生き物だろ?
そうは言っても僕自身は「ペットを虐待すること」に生理的嫌悪を抱いている。もしも僕の友人がペットを虐待していたら僕は彼との交友を考え直すくらいにおぞましい行為だ。それどころかペットを業として販売することにも生理的嫌悪を感じる。入手が困難な生物ならまだ許せるのだが、犬猫といったメジャーな生き物ならば保健所で毒殺の順番待ちをしている連中がいるのだ。もし犬猫を愛しているのなら彼らを引き取ることが先決だと感じるのだ。
しかし一方で僕は熱烈な動物愛護原理主義者からは生理的嫌悪を抱かれる思想を持っている。所詮ペットはけだものであり、彼らを人間同様に扱ったりねこっかわいがりするべきではないと考えている。犬は家に上げるべきではないと思うし、好きなだけ餌を与えて肥満させてはいけないと考えている。実験用動物も積極的に肯定している。
ペットに食餌制限を課すことは、そのペットを苦しませることでもある。これは虐待なのかそうでないのか。避妊手術は虐待なのか。これを虐待だと断じる論理も分かるが、虐待でないと論じることも可能だ。もっと原理主義を進めよう。動物が繁殖することは彼らの幸せなのだから積極的に繁殖させるべきだ。そしてすべての市民は動物を飼って、なおかつ繁殖させなければならない。
だから僕は動物愛護という倫理を社会に強制させることに反対する。公共の(というより人間の)福祉という制御機構を持たない倫理すべての強制に反対する。各人がそれらの倫理を個人的に信仰することはもちろん彼らの自由であり権利だ。しかしそれと同様にそれらの倫理を持たないこともまた個人の自由であり権利であり倫理なのだ。

ゆずれないものの交渉 その3

今日のまとめ
多くの古い倫理が失われているが、新しい倫理が増えていて、結局は倫理の総量は増えている。倫理は他者から押し付けられることが多いが、新しい倫理は人間の自由を奪ってでも押し付けられるべき正当な理由を持っている。
それでもやはり生理的嫌悪が多くの倫理の基礎にある。他人に押し付ける正当性を持たない倫理もいまだ多く残っていて、それらは周囲の圧力という旧来手段でもって押し付けられている。


思考停止しない倫理
倫理を構成員に押し付けるための言い訳を喪失した道徳的な人々は「現代社会は倫理を喪失した」と嘆くだろうが、その見解は大きく間違っている。「他人に何かを要求するときには自分自身の言葉で要求しなければならない」という、今を生きている我々からすればなによりも重要と感じるほどの倫理を現代社会は獲得したからだ。
また、古い倫理のすべてが喪失されたわけではない。「人を(むやみに)殺してはいけない」から始まって多くの倫理は維持されている。生き残った倫理のほとんどには「なぜその倫理を守らなければならないか」言い換えれば「なぜその倫理を他人に要求してかまわないか」という理由が明確に説明されるようになっている。説明できない理不尽な倫理だけが除去されていったのだ。その理由をもってして我々は他人に「俺のためにこうしてくれ」と自分自身の言葉で要求し、要求される側も「その理由ならしかたがないな」と要求を受け入れるようになったのだ。
経済学はその概念を変化させることで、旧来の倫理の擁護者から一転して倫理を積極的に破壊する紊乱者へと立場を変えることとなった。その破壊の過程で、経済学的には維持されるべき倫理までをも崩壊させることもしばしば発生している。特に近年の中国が酷い状況で「汚染物質を垂れ流さない」という経済学的合理性から説明(要求)できるはずの倫理までが無視されている。このような過渡期の現象を見た懐古主義者は信用醸成の罠にはまり「経済一辺倒の社会を賞賛する経済学は悪だ」と見なすようになる。しかし本当は中国よりも日本のほうが経済学的合理性をより深く追求しており、より「経済一辺倒」なのだ。現在の中国の惨状は経済学的合理性よりも「中国を大国にするべきだ」という説明のつかない倫理を追求した結果だと見るべきだ。*1


市民だけが市民権を持っている
注意しなければならないのが、この「他者に要求できる倫理」は「自分自身に課す倫理」ではないということだ。「自分自身に課す倫理」は基本的には他者に押し付けることができない。他者はその倫理に共感できれば受け入れてもかまわないし、共感できなければ受け入れなくてもかまわない。しかしながら「自分自身に課す倫理」であるにもかかわらず多くのパワーゲームを通じて他者に強要させる場合がよく見られる。
「ペットを虐待しない」という倫理は他者に強要されることの多い典型的な「自分自身に課す倫理」だ。誰かが自分の所有するペットを虐待したところで、その周囲の人々は生理的嫌悪感以外の実害を被ることはない。しかし多くの人はその倫理を他者に強要する。ペットを虐待したい人はその強要を理不尽だと感じるだろう。この倫理は理不尽だが多くの先進国では重要な倫理として扱われている。
牽強付会の理由をつければ、ペットの虐待は奴隷の虐待に通じるからと言える。ペットを虐待する人は奴隷を虐待することにも倫理的な抵抗感を感じないだろうと類推し、奴隷の虐待を防ぐために必要な予防措置だということだ。奴隷(二級市民)の虐待も社会を構成する奴隷じゃない普通の人々(一級市民)には関係のない悪徳だ。二級市民を一級市民と差別してしまえば社会の安寧を損なうものではなく、経済学的合理性からは禁止するべき倫理規定ではないとなる。
だが奴隷の虐待(というよりある種の人々を二級市民であると差別すること)は経済学的合理性から見ても悪徳だ。一級市民もいつ二級市民にランクダウンされて虐待されるか分からないというリスクを考えると、奴隷の虐待を放置することは他人事ではなくなるからだ。しかし人間は人間以外の生き物に変化しない。だから奴隷の虐待とペットの虐待はやはり別物なのだ。


キライキライは大嫌い
「ペットを虐待するような攻撃性の高い残虐な人は、周囲の人間(一級市民)にも同様に残虐な態度をとるだろう」という理由も牽強付会でしかない。その人がペットの虐待をやめたとしても攻撃性がなくなるわけではないからだ。逆にペットを虐待することでその人の残虐嗜好が満たされて、人間に対しては紳士的に接することができるかもしれない。
こうしてぎりぎりつめていくと、やはり「ペットを虐待しない」という倫理は「偶然に多くの人が個人的に持っている生理的嫌悪」でしかない。そして個人的な生理的嫌悪を理由とした倫理は社会規範とすることを是認することは、多くの弊害をもたらすことは容易に想像できる。「無駄に食べ物を残す人に生理的嫌悪を感じるから連中を二級市民にしてしまおうぜ」は「ペットを虐待する人には生理的嫌悪を(略)」と生理的嫌悪を感じる人数以外にどう違うのか僕には説明できないのだ。
しかし「ペットを虐待すると多くの人に嫌われるからやめておこう」と自分自身の欲望を曲げる人が(多分)いる。要求される倫理が理不尽であると感じても、彼我の力関係によってはその強要に屈せざるをえないだろう。昔はもっとこの理不尽が横行していた。「黒人は差別されるべきだ」という倫理を当の黒人にまで強要できていたのだ。
そもそもなぜ他人に倫理を要求することができるのだろうか。いや、それ以前に例えば取引の対価のような要求できて当たり前に思えるようなものですら、なぜそれを他人に要求できるのかに答えることは非常に難しい。
取引の対価を支払うことは当人の自由意志に委ねられている。もし彼がそれを支払いたくないと考えたならば、いやむしろ彼がそれを支払いたいと考えたときのみ対価は支払われることとなる。
しかしほとんどの場合、彼は取引の対価を支払うことを選ぶだろう。支払いの動機は二種類に分けられる。一つ目は、彼は自分のことを対価を支払わない人間だと思われたくないということだ。もし彼が周囲の人々からそのように見なされてしまえば、次回からは誰も彼と取引をしてくれなくなってしまう。取引は彼にとって利益を得るチャンスであり、たった一回の支払わずにすんだ対価よりも今後の取引で得る利益のほうが彼にとって大きなものなのだ。
もうひとつの理由は、周囲の人間から制裁を受けたくないからだ。対価を受け取りそこなった取引相手が実力を行使して彼から対価を奪い取ったり、円滑な取引ができる環境を乱された共同体が制裁を加えたりするだろう。そしてそれは多くの場合、支払わずに住んだ対価よりも多くの被害を彼にもたらすことになる。
これら二つの理由が彼をして取引の対価を支払うように強制されていると感じさせるだろうが、ぎりぎり言うとこれは強制ではない。「人の意思によってなされる行動はすべて本人の自由意志によるものだ」ということも経済学の基礎にある共通見解なのだ。

*1:もうひとつの中国の現状説明は「拝金主義」という言葉で表現できるだろう。何度も言っていることであるが「お金」は経済の一部分でしかない。その一部分である「お金」に極端な重点をおけば、経済的合理性を大きく逸脱するのは当然の帰結だ。

ゆずれないものの交渉 その2

今日のまとめ
経済学の基礎にある概念の説明。
人はそれぞれ違った価値観を持っているが、経済学ではそれらの価値観の善悪を問うことはしない。というか善悪を判断するような機能を経済学は有していない。
だいたい人間の欲望は多様すぎてそれらを逐一判断するなんて無理。善悪を語るのは常に個人であって、その個人が自分勝手に善悪を語っているだけ。
だから「客観的に見てお前は悪だ」なんて語る奴の言葉なんて信じてはいけない。「俺はお前を悪だと思う」しか言えるはずがないのだ。


正義がないことは不正義ではない
経済学の非常に基礎の共通見解に「人はそれぞれ違った欲望(価値観)を持っている」というものがある。
これをわざわざ「経済学の」という断り書きをつけなければならないのは、「人は同じ欲望(価値観)を持つべきだ」と考えている人もまたいるからだ。この「持つべきだ」という思想は一見独善的でファシズムのように聞こえるが、そうとも限らない場合も多い。例えば法学においては「とりあえず人権思想くらいは共通価値観としておこうよ」となり、医学では「人命って尊いですよね?」となり、神学では「教義を統一しておかないと話にならん」となる。
もちろん「持つべきだ」という理想と「持っている」という断定は大きく違う。「そもそも人権思想に共通見解があるのか?」「人命のために全財産をつぎ込むのはやっぱり無理」「つきつめすぎると宗教戦争になるしなあ」と理想と現実のギャップがあることを認めざるを得ない。だから「持つべきだ」という理想を掲げている学問においても、その理想を人類に押し付けることにある程度の躊躇を持つことが普通だ。ここで「理想の状態にならない人間は死刑だ」と突っ走るとファシズムになってしまう。
ファシズムは甘美な果実だ。自分は完璧で最高の人格を持っていると感じることができ、他人との衝突もないストレスレスな生活を満喫できる。理想に合致しない他者は大量にいるだろうが、彼らにとってすればそのような愚か者は二級市民であり、同じ人間ではない。二級市民との衝突は増えるが、彼らの人格を受け入れるという苦痛に比べればどうと言うことのない信仰のための苦行に過ぎない。
経済学が人々の価値観に規定を持ち込まないですむ理由は、経済学がファシズムを嫌っているからでも、大人の包容力を持っているからでもない。経済学が他人の価値観を揺り動かす機能を持っていないからに過ぎない。
経済学は人の行動を予測する機能しか持っていない。それは例えるなら物理学のようなものだ。アポロロケットを月まで到達させるためには物理学による軌道計算が不可欠だが、物理学がロケットを軌道に乗せたのではない。ロケットをその軌道に乗せたのはあくまでも人間の意志だ。多くの人がロケットを飛ばしたいと願い、そのためにどのような推力をロケットに与えればいいかを物理学で計算し、それを人が実行したのだ。
人間の経済活動も同じだ。自分や他人がどのように行動するかは経済学で(ある程度)予測できるが、その行動を引き出すためにどのようなインセンティブを与えるかを決定するのは人間の意思だ。経済学はあくまでもツールでしかない。


魔法学校へようこそ
経済学はまだまだ歴史の浅い学問であり、その対象となっている人間は絶望的なほど複雑で精密な計算を拒否するカオスを含んでいる。必要な行動をとらせるためには初期状態を精密に観測し、正確な行動法則を適用しなければならないが、そのどちらも今の経済学には不足している。そのためになんとなくの予測しかできず、その点では物理学よりも気象学に似ていると言うべきかもしれない。
低い予測精度は逆に経済学をまるで魔法のように見せている。正しい予測ができることのほうが珍しいために、偶然に予測が的中してもそれが誠実な計算の結果であることを信じてもらえない。そして多くの場合、誠実に計算された予測は常識で考えたものとは大きく乖離している。さらにはしばしば意図した結果とはまったくの正反対の悪夢を招来するし、それどころか招来された悪夢が意図どおりのことすらある。これでは科学ではなく、呪術レベルの未開人の魔法だと思われてもしかたのないことだ。
しかし実際の経済学はまぎれもない科学だ。未熟で不正確でしばしば深刻な誤りを含んでいるが、科学なのだ。科学は無謬でなければならないと無邪気に信じている人々もいるが、完璧な科学などはこの世界に存在していない。数学*1ですら不完全性定理という矛盾を原理的に内包していることを忘れてはならない。
経済学の予測能力は、特に正確な行動法則を発見するという点で20世紀後半から驚異的な進歩を遂げている。その進歩の原動力のひとつはゲーム理論で、もうひとつは壮大で多くの悲劇を含んだ社会実験だ。しかし僕はさらにもうひとつの原動力を高く評価したい。それは経済学というものの概念の変化だ。


幸せは個人的な価値観だ
20世紀前半までの経済学の概念は「人間を幸せにしなければならない」という価値観を含んでいた。古くはベンサムの「最大多数の最大幸福」に始まって、マルクスの「労働者の解放」や帝国主義国家の「未開人への啓蒙」、全体主義国家の「富国強兵論」などだ。この価値観を否定するような理論や事象は無視されたり弾圧されることとなった。しかし20世紀のなかばあたりから概念が大きく変化した。
「幸せになりたい」という人間の欲望は所与のものであるとして、そこに経済学は立ち入らなくなったのだ。それによって「(世間が常識と考えている)幸せはほしくない」という欲望も経済学の予測範囲に含むことができるようになった。この変化は一部の保守的な人々からしたら不評なものだった。「楽園」を目指した社会主義者からはもっと強く非難された。しかしこの変化は経済学が呪術から科学へと進化するためにどうしても必要なハードルだったのだ。
この概念レベルでの変化によって経済学は社会への影響力を一部において喪失した。それまでは「最大多数の最大幸福」に反する政策を「それは経済学的に間違っている」と非難できたのだが、今はできない。利潤の追求を「反革命」と非難することもできない。未開の状態であることを是とする部族を「神の摂理に反する」と非難できない。「贅沢は敵だ」も言うことができなくなっている。
社会(というか社会で規範とされる倫理を信奉する人々)はその構成員に「このように行動しろ」と要求するときに、昔は「それが経済学的に正しいことだからだ」と責任を経済学に押し付けることができた。しかし今は違う。誰かに倫理を要求するときには「俺がそうしてほしいからだ」と自分の言葉で、つまり自分の責任において要求しなければならなくなった。

*1:ポパー的には数学は検証不可能なので科学ではないらしいのだが、僕は数学を科学だと思っている。ポパーを語れるほどポパーに関して詳しくないのでつっこみ不可だけど。

ゆずれないものの交渉 その1

序文とまとめ
交渉というものを経済学で解き明かそうとすると、いくつもの壁に突き当たります。もしも経済学がお金だけを扱うものだったとしたらこんな壁などあろうはずがありません。冷徹に計算を進め、交渉を行う前から結果が見えることになります。しかし経済学の世界にはラプラスの悪魔*1は存在していませんでした。
交渉を不確実なものにさせているのは何か。このような質問を受けた経済学者の多くは「それは情報の非対称性だ」と答えるでしょう。たしかにその通りです。しかし僕はここに別の答えを用意するべきだと思っています。僕は「それは人間の欲望だ」と答えるでしょう。
交渉とは何か。それはなにかを他者に要求することです。どのように要求すればその要求が実現するかを考えたときには情報は非常に重要な要素となるでしょう。しかし僕はもう少し根源の部分を見ています。「なぜそれを要求したいのか」を見なければ交渉というものの存在自体が成り立たなくなってしまうと考えているのです。そして「なぜしたいのか」の問いには「したいからしたいのだ」という答えしか返ってきようがありません。このように交渉の基礎にはどうしようもないくらいに曖昧で不可思議な「人間の欲望」があるために、そこから生まれてくる交渉もまた不確実なものとなってしまうのです。
そして交渉は二者以上の主体が行うものですが、要求を受け入れる側もまた「人間の欲望」に基いた行動を起こします。「なぜ要求を受け入れるのか」と聞かれると彼は「受け入れたいから受け入れるのだ」と答えるでしょう。交渉は本当に不確実でわけの分からない事象なのです。
しかし「わけがわからない」で放置していると科学は進歩しません。少しずつでもそこに顕在する法則を解明することで、いつかはもう少しわかりやすい世界が到来するのです。
今回は交渉を「なぜその要求を受け入れるのか」という側面からときほぐしました。しかしテーマが大きく、しかも切り口がけっこう斬新なために非常に長大な文章となってしまいました。そのために一日目の今日はまとめの文章から書き出すという本来とは逆の順番で始めることにします。


当事者全員が利益を得る交渉は特に難しいものではありません。商店での買い物などのように我々は思い悩むことなしに日々交渉を繰り返しています。しかし互いにゆずれないと思っているものを交渉するときには非常にタフなやりとりを要求されます。
「そんな不毛な交渉はしない」と言い切ってしまえれば楽なのですが、なかなかそうもいかないのが世界の実情です。不毛な交渉をしなければならないときでも、結果的にはなんらかの結果が出ます。なぜそのような結果になるのか。そこにはどのようなルールがあるのかを見ていくと、「このように要求された場合、受け入れなければならない」という社会の倫理があり、その倫理に従って要求が通されていることが分かります。
その倫理は時代によって変化しており、その変化には経済学的な理由が存在しています。倫理というものはとかく人間的なものと見られがちですが、そこには冷徹な経済学的合理性が潜んでいたのです。
そして議論は「なぜこのように倫理は変化したのか?」「現在の倫理はどのような経済学的合理性を持っているのか」と進んでいきます。「どのようにして倫理を他者におしつけるのか」を調べると「どのような倫理なら他者におしつけられるのか」を知ることができます。
理解を深めるためには原論だけでなくケーススタディーも併用するべきです。ここでは捕鯨問題とイラク問題をケースとしています。どちらもとてもタフな交渉です。前者では倫理によって交渉が成立し、後者では倫理以外の理由によって交渉が成立しています。


まとめのつもりでしたが、全然わけの分からない文章になりました。明日からの本文には冒頭にその日のまとめを書いていくようにします。


目次
ゆずれないものの交渉 その2
正義がないことは不正義ではない/魔法学校へようこそ/幸せは個人的な価値観だ
ゆずれないものの交渉 その3
思考停止しない倫理/市民だけが市民権を持っている/キライキライは大嫌い
ゆずれないものの交渉 その4
倫理戦争/無倫理主義者は存在しない/自由はキモチワルイ/犬はともかく猫は高貴な生き物だろ?
ゆずれないものの交渉 その5
本題は遅れてやってくる/地球は人類のモノだ/正義の変遷/僕は時々嘘をつく正直者です/アイムシリアス(I'm serious)
ゆずれないものの交渉 その6
計算された勇気/チキチキバンバン/造反有理
ゆずれないものの交渉 その7
空想の兵器/敵の敵の敵/数の暴力
ゆずれないものの交渉 その8
会議は踊り、いつのまにか去っていく/私のために争わないで/信念と死と

*1:説明するのがめんどくさいです。”ラプラスの悪魔”で検索をかけてみましょう。

高速道路無料化反対

今回も常識にチャレンジです。
高速道路無料化に反対です。woodさんが無料化反対という意見は信じられないと言ってるのですが、僕はどっちかというと無料化のほうが無邪気すぎると感じています。タダより高いものはないのです。
ちょっと長くなって読みづらいのですが骨子としては「償還主義は変」「資本コストという概念を適用」「無料化はモラルハザードになる」です。


高速道路建設財源の歴史
だいたい一般常識かと思うが、日本の高速道路建設財源の歴史を少し振り返ってみよう。うろ覚えで少々しか裏が取れていないので少し間違ったことを書いてしまうかもしれないが、今回の話の筋道に大きな影響がないので大目に見てほしい。
日本の高速道路は1960年に名神高速道路を世界銀行からの融資によって建設することから始まった。1963年には東名高速道路がこれも世界銀行からの融資を受けて建設されており、この借り入れは1990年に返済が終了している。もちろん世界銀行からの融資だけが資金だったわけではなく、郵便貯金を原資とする財政投融資も大きな財源だった。
そもそもの償還主義の採択理由は融資を世界銀行から受けていたことであったのかもしれない。ドイツのアウトバーンアメリカのフリーウェイなどの例を見ても、長大な高速道路網は無料で解放されており、どちらかというと料金制のほうが常識に逆行する方式だったようだ。しかし1960年当時の日本はまだ高度成長期も迎えておらず、当時の先進国の中では貧乏な国だった。貧乏だったからこそ世界銀行からの融資を必要としたわけだが、貧乏だからこそ世界銀行はその融資に対して担保を要求した。その担保が高速道路の料金収入であり、融資をぎりぎり返済できるだけの料金設定の基準が償還主義だったわけだ。
この問題の原点を忘れてはならない。借り入れを返済できるだけの料金収入がなければ日本の大動脈*1は建設に着手することはできなかったのだ。ついでに言うと、今の日本の礎の一部は世界銀行(というかアメリカ合衆国)の好意によって形成されていることも忘れてはならない。*2
高度成長期を経て日本が豊かになると、この償還主義は変質した。新たに建設された高速道路の建設資金も全部ドンブリに入れて償還することにしようという、いわゆる料金プール制である。これによってドル箱の東名・名神高速道路の利用料金を使用して地方高速道路の建設資金の償還が可能になり、多少採算が悪い高速道路も建設されることになった。
この変質は建設財源の変化から来たものだと僕は考えている。もしもこの資金が世界銀行のような外部主体から調達されたものだったとしたら、その主体は融資の担保として融資した物件(単体の路線)の料金収入を要求したことだろう。しかしこの融資は財政投融資という日本政府の意のままになる主体から調達されたため、融資の担保は日本政府の口約束だけで十分だったのだ。
このようなお手盛りの予算はほぼ例外なく腐敗する。日本の高速道路建設行政も当然のように腐敗し、地方活性化という美辞麗句を口実に不採算・高コストな高速道路が何本も建設された。そして不採算路線建設費償還のためにドル箱路線の料金値上げへとつながり、当初に約束された償還終了路線の無料解放は償還主義を採る限りほぼ不可能な状態へと陥っていった。


償還主義の功罪
償還主義とは一言で言えば、料金収入で借金の利子と元本を何十年間かかけて返しましょうということである。借金を返し終わったら高速道路を無料で開放しましょうというのも償還主義に含まれるのだが、僕自身は借金返済終了が無料化を意味しなくてもいいと思っている。
借金を全額返済することはついつい常識だと思ってしまうが、この常識の罠にはまってはいけない。無借金経営の企業は少数派であることからもこの常識が非常識であることは簡単に理解できる*3。法人においては自己資本も借入金も等しくどこかの自然人からの資金調達であり、それらの資本コストよりも大きな営業利益を生み出すことだけが法人に課された義務なのだ。
しかし融資をする側からしたら元本ごと返済してほしいという要求はしごくまっとうなものだ。永久債というものもあるのだが、現代ではあまりまっとうな調達方法ではない。だから企業では長期債務は期限毎に借り換えを要求され、場合によっては銀行から借り換えを拒否される場合もある。だから日本道路公団世界銀行からの借り入れを返済しなければならず、そのために償還主義を採用する必要があった。
しかし償還主義には会計学的に大きな落とし穴がある。借金を返済し終わった資産の所有者は誰になるのだろうかということだ。私有財産制度の下では(人工的な)資産の最終所有者は常に自然人でなければならない。例え簿価がゼロでも資産はそこに存在し、経済的便益を生み出しているのだ。ならばこの資産の所有者は誰か。日本政府(最終所有者は国民)か日本道路公団(国の100%出資のため最終所有者は国民)か。実は違う。償還資金を出資した、つまりは割高な利用料金を支払った過去の利用者となる。そしてこの所有者とその所有割合を確定することはまず不可能だ。
償還主義における高速道路の無料解放は、この特定不可能な利用者が引き続き高速道路の利用者であろうという前提から成り立っている。これは近似的には正しいかもしれない。しかし帳簿上の価格がゼロだからといって所有者を曖昧にすることは資本主義の精神に反する。やはり解決策としては国(つまり国民全体)が帳簿上の所有者となることしかないだろう。もちろんこれは国が勝手に正当な所有者から資産を奪い取るような方法であり、本質的には不正義だ。だから償還主義そのものが世界銀行に担保を提供するためのたんなる方便だったとすることが政治的に正しい解決策となるだろう。


資本主義社会における高速道路投資
まず最初に言っておくべきは「資本主義」なる「主義」は存在しないということだ。もともとはマルクスが言い出した言葉らしいが、「資本主義社会を作り出そう」と誰かが言い出して資本主義社会が出現したわけではない。「もっと自由な私有財産制度を実現しよう」と資本家が主張していたら資本主義社会が発生したと見るべきだ。だから資本主義というのは例えば封建制度と同じように単なる社会現象を追認した言葉に過ぎず、その言葉自体に守るべき正義が存在しているわけではない。
本当に守るべき正義は私有財産制度(というか私有財産主義)である。私有財産制度が守られる限りは資本は利潤を要求し、資本主義社会にならざるをえない。分かりやすい言葉を使うことが僕の信条なので「私有財産制度という主義を守るために」という意味合いで「資本主義社会の実現のために」という言葉を使うが、実際は資本主義という制度は絶対に固守しなければならない価値ではないことを理解してほしい。そして「私有財産制度という主義自体が私の思想に反する」という人にとっては、私有財産制度も資本主義も等しく不正義となるだろう。ちなみに「私有財産制度は正義だが資本主義は不正義だ」という主張は論理的に破綻している。
資本主義社会において資本は利潤を要求する。そして固定資産のほうが流動資産よりも、物的資産のほうが貨幣資産よりも大きなリスクを持つために大きなリターンが要求される。だから高速道路という物的長期資産の所有者はその資本を貨幣で所有していたときよりも大きな利潤を稼ぎ出さなければならない。しかし「償還主義:無料解放」という方式をとった場合、資本所有者は貨幣固定資産と同じだけのリターンしか得ることはできない。
このことにより高速道路所有者は物的資産としての高リターンが期待できる、つまり高採算な路線の新規建設にインセンティブを感じなくなる。逆に償還不可能な路線であってもそれを建設しない理由がなくなる。要するに「どうでもいいや」と思ってしまうのだ。そうなると建設すれば地元民が手放しで喜んでくれたり、投票してくれたり、賄賂をくれたりする路線の建設のほうが個人的に楽しくなってしまう。つまりはモラルハザードだ。
資本主義社会において、たとえその主体が国であったとしても投入資本に対して適切な利潤を要求しないことは悪である。その資本の本来の所有者は国民であり、それを低い利潤で運用することは政府の国民に対する裏切りである。ただし国は資本の適正運用以外のサービスも国民から要求されており、そのために費用を支払うことは裏切りにはあたらない。何を言いたいかというと、たとえ不採算路線であっても、不採算をカバーできるほどに経済効果があったり、国民の福祉の向上につながるのであれば建設は可能であるべきということだ。
しかし償還主義の下ではこのような微妙な不採算路線は建設不可能になる。償還主義では道路単体で採算が採れなければならないからだ。償還主義のような硬直した制度では資本主義の基本である「お金に色はついていない」が実現できなくなってしまう。本来ならばこのような微妙な路線には国や地方自治体が補助金を支出するべきなのだが、料金プール制にすると、微妙な路線に補助金を出したつもりが全体に補助金を出した形になってしまい補助金の経済効果が薄まってしまう。


フリーライダーの防止
フリーライダーとは誰かが資本を投入して作り上げた社会資産を料金を支払わずに利用することだ。もしも償還主義が実現して高速道路料金が無料化した場合、高速道路の利用者が増大することは目に見えている。今まで高速道路料金を支払ってきた人が利用量を増やすことはかまわない。彼らの当然の権利だ。しかしそれまでは一般道路を利用して高速道路料金を支払っていない人たちも高速道路を利用することになるだろう。彼らは文字通りのフリーライダーとなるわけだ。
償還後の高速道路資産の所有者が国となるのならば、国の財産を利用することは国民の当然の権利だ*4。しかし上述したように償還主義を貫いた場合の高速道路の所有者はそれまでの利用者と見なすべきであり、新規利用者がそれを無料で利用することには問題があると言わざるをえない。
具体的には運送業への新規参入が劇的に増大するだろうということだ。もちろん彼らが利益を出して税金を払ってくれることは社会の利益になるわけだが、既存の運送業者はいい気持ちはしないだろう。彼らは今まで高い高速道路料金を支払い、ぎりぎりの利益に我慢してきたのだ。「この高速道路は俺たちの金で作られている」と考えるのも当然だ。そして無料化した途端に新規業者が大量に参入してきて売上が減少したら納得がいかないどころの話ではない。
無料化すること自体はこの問題にとっての本質ではない。本質なのは償還主義だ。無料化したとしても国は「今までの高速道路料金はサービスの対価であって資本投資ではなかった」という建前を堅持しなければならない。


道路機能の維持
高速道路、特に日本の高速道路のように品質のいい道路は維持費がべらぼうにかかる。その維持費のために利用料を取らなければならないという理屈は少し説得力が弱い。しかし維持費とは日常的なものだけでなく、非日常的なものもリスクの一環として計算に入れなければならない。
償還主義による償還が終了した高速道路の一部、数キロ程度が地震によって倒壊したとしよう。もちろんその区間は建て直されることだろう。そして償還主義を採るならば、その区間だけもう一度料金を徴収して償還しなおさなければならなくなる。償還主義では償還済み区間の所有者は利用者であり、その一部の国民のために国が費用を負担して資産を献上するわけにはいかない。
日々のメンテナンスすらも償還主義の下ではこの論法によって不都合が生じてくる。多分維持費用以外にもいろいろな部分で会計学的な不都合が生じてくるだろう。「じゃあ会計学的に考えるのをやめたらいいじゃん」と言いたくなるのだが、日本は資本主義社会なので会計学を使って資産の所有者を明確にしなければならないのだ。


償還主義を放棄しよう
償還主義とは結局、「利用者が金を出し合って建設費の借金を返しましょう。借金を返し終わったら今まで借金の担保になっていた高速道路は誰のものでもなくなります。誰のものでもないんだからそれをタダで使っても誰も文句ないよね。」ということだ。ごみのようなものならともかく、高速道路のような不動産(土地も込みかな?)が無主物になるのはちょっとアクロバティックすぎる解釈だ。
償還主義という会計手段は、当初は仕方がなかったにしろ早々に放棄するべきだった。利用料金とは関係なしに国家予算で借入金の利息支払いや返済を行うべきだった。今すぐにでもそうするべきだ。
償還主義の放棄と聞くと「償還しないんだったら無料化しろ」と言う人たちが出てくるだろう。彼らの言い分も分からないではないのだが、有料であるべき理由もまたあるのだ。


資本コストとしての道路料金
道路建設はべらぼうに資金を必要とするものである。しかし交通需要がそこそこにある路線で建設が行われた場合、その投入資金を上回る効用が発生する。問題はこの資金をだれがどのような形式で負担するかである。利用者か、それとも国という中間業者に税金を納める国民か、その両者があるバランスで負担するのか。
無料化主義者は高速道路が無料化された場合に国民が税金でそれを負担しなければならないことを理解しているのだろうか。道路資産に充当される資本が永久債という形で固定されようともその資本コストは誰かが費用として負担しなければならない。償還されたところで、その資本の所有者が郵貯から国に移行しただけでやはりその資本コストは負担しなければならない。国家予算はなぜか非常に古臭く問題点の多い単式簿記を採用しているために、道路が国有資産になった場合の資本コストは国民の目から隠蔽される。しかし国家予算を複式簿記で(そして時価会計で)表現したならば資本コストが現実に発生していることを我々国民は目の当たりにするだろう。
この資本コストの問題は高速道路だけでなく、一般道路および国の所有する全資産で発生している。近代社会の実現には巨大なインフラ投資が必要であり、その資本は我々国民が出資し、その資本コストを支払い続けなければならない。その資本投資を効率よく行うためには中央集権国家が有効であり、その中央政府は昔の国家と比べると巨大なものにならざるをえない。
資本主義社会の原則から言うと、本当はその資本投資はその資産から効用を引き出す主体が負担しなければならない。しかし効用を引き出す主体とその効用の特定が困難であり、さらにはゲーム理論で解明されつつある市場の失敗が発生するために我々は仕方なく中央政府がドンブリ勘定することを容認しているだけだ。本来は個別に資産の効率を計算し、その計算結果をもってどれだけの資本投資を行うべきかを判断するべきなのだ。
高速道路はインターチェンジで管理することで一般道路とは比較にならないほど、利用者とその利用量を特定することができる。ここまで管理が容易な資産を無料解放することは資本主義の原則に逆行する政策だと言わざるをえない。
資本コストを利用者が負担してくれるのならば、低い税率のまま投資効率の高い路線の建設が可能になる。資本コストの回収が見込めない路線は当然、建設されない。高速道路投資の運用成績を複式簿記で国民がチェックできるのならばより効率よく行えるだろう。
次は投資効率の計算方法が問題になる。その計算対象は3種類ある。利用料金収入・経済効果・国民への無償サービス提供量だ。この中で一番お手盛りになりやすいのが国民への無償サービス提供量である。サービスを受ける側はこれがいかに大きくても文句を言わないだろう。しかしその路線を利用しない国民にとってはどうだろうか。地域住民一人当たり年間一千万円の無償サービス提供など認められるはずもない。どんな僻村であっても年間百万円が上限だろう。それを超えるならば要請に応じて無料ヘリの送迎サービスを提供したほうがよほどましだ。
経済効果は、実はこれが道路建設の一番の目的なのだが、この計算にも官僚の恣意が入りやすい。我々は彼らの経済効果計算は額面の3割くらいにしか信じることはできない。
これらに比べて料金収入は冷酷だ。これをごまかしたら明らかに詐欺だ。担当者は実刑をくらい損害賠償すらも請求される。だから我々は官僚の作文を回避するために高速道路の有料化を要求するインセンティブを持っている。
しかし投資効果の回収量において料金収入を偏重すると、つまり料金設定を高額にすると利用量および経済効果が低くなり、総効果が減少する。これも市場の失敗のひとつだ。東名・名神高速道路の投資効果回収においてはこの市場の失敗が発生している可能性がある。
投資効率が高い路線において高速道路を建設すると、料金収入と経済効果の合計は確実に資本コストを上回る。いや、これはトートロジーだ。この合計が資本コストを上回る路線が投資効果が高い路線なのだ。
この高い投資効果と有料化へのインセンティブを勘案すると、料金収入単体で資本コストを上回ることに何の問題もないことが分かる。国が事業で儲けていけないという命題は共産主義的でナンセンスである。何度も言うが我々は資本主義国家の国民なのだ。利用者はサービスの対価(つまり料金)よりも効用が大きければその高速道路を利用するし、国は前述の3種類の効果の合計が資本コストを上回る投資をすればいいのだ。


無料化によるモラルハザード
本当は高速道路は有料で運営されることが望ましいことは理解してもらえたと思う。しかしそれを理解してもなお有料化に反対する人々がいるだろう。その反対派の一部は個人的な利害において無料化が望ましい人々だ。しかし一部は個人的な利害と無関係に無料化を要求するだろう。それはなぜか。
彼らは国が運営する事業のコストが割高だと感じているのだ。もしその事業が民間並みの効率で運営されたならば社会的効用を生み出すものであったとしても、公務員の非効率な労働ではとうてい割に合わないものになるだろうと危惧している。同感だ。
その危惧の下では、国が運営する事業が少なければ少ないほど社会的な効率が上昇することになる。無料化し(当然増税にも反対し)、国のキャッシュフローが減少すれば必然的に国が運営できる投資案件は減少する。そして国が生み出す社会的効用もこれ以上増大しなくなる。あまりいい状況ではないが、対症療法としては十分に理解できる。
だが国が自由になるキャッシュフローを十分に持っている、もしくは増税を敢行してキャッシュフローを増大させる場合にはこの無料化という対症療法は大きな副作用をもたらす。無料道路の建設理由は経済効果が十分であることだが、官僚はいともたやすく経済効果の粉飾を行うだろう。そして有料時のような料金収入による監視効果もなく、投資効率が低いが賄賂などの個人的欲求充足が期待できる路線の建設が大量に行われるだろう。
公務員が国家予算を無駄遣いしていることに憤慨する気持ちはよく分かる。僕も憤慨している。公務員という単語は馬鹿で愚鈍で無能な利己主義者の代名詞となっている。その公務員に無駄遣いさせないために国に税金などのキャッシュを渡すことを嫌う気持ちは本当によく分かる。だがその方法では無駄遣いを少ししか減らすことはできない。公務員は国債発行や年金基金の流用で無駄遣いを継続していくだろう。
我々が本当に行うべきは公務員の支出のチェックである。無駄遣いを発見し、無駄遣いを実行した公務員を懲戒し、行政を効率化させなければならない。その目的のために必要とされることは高速道路の無料化ではなく、有料制の維持なのだ。

*1:東海道新幹線世界銀行の融資で建設している。

*2:もっとも昔の日本の礎の一部はアメリカ合衆国の敵意によって破壊されていることも知っておくべきだろう。

*3:貨幣経済を適切に運用するためには国は絶対に多額の借金をしていなければならないという非常識はマクロ経済学では常識だったりする。

*4:日本のような島国では外国人利用者も確実に日本に経済効果をもたらしてくれるため十分に容認できるだろう。

食料自給率って上げなきゃならないの?



こちらで生徒(?)が落第したので模範答案を作成しました。


日本の食料自給率は低い。1億人もの人口を抱える巨大国家としては異例なほどに低い。それに関しては誰も異論を唱えたりしないだろう。しかし「安全保障のために食料自給率を100%に近づけるべきだ」という極端な意見には異を唱えたい。
この極端な意見はけっこういろいろな場所で耳にする。このような感情的な意見は口に快い。自分が正義で、政府やいまどきの若い者は間違っている。日本はおかしな方向に走っている。このように他人を批判することは無常の快楽だ。そんなアジテーションを真に受けてはいけない。もっと科学的に現状と対策を考えるべきなのだ。


いったいお前は何を言いたいんだ?
まずは食料自給率100%論者の意見を整理することから始めよう。
・国際関係や異常気象の影響で食料輸入が突然に途絶する可能性がある。
・食料が足りなくなり、多くの日本人が餓死する。
・どれだけ可能性が低くても、このような破滅的状況は看過できない。
・だから日本は食料自給率を100%にするべきだ。
いくつかのバリエーションはあるだろうが、基本的にはこのような展開の論理が多い。たしかにこれだけを見ていれば100%の食料自給率がなければ枕を高くして寝られない感じがしてくる。
この論理でまず疑うべきは、100%論者は本当にこのような論理で食料自給率100%政策を目指しているのだろうかということだ。きっとこんな論理などためにする話でしかない。僕は農業関係者の誰かが「輸入品と価格競争したら全然儲からなくなってしまうから、非関税障壁を作って保護してほしい」と考えてこのような与太理論を考案したのだと思う。
次に実際にこのような論理で日本人は餓死するのかと疑っている。後述するが僕は食料輸入が途絶したとしても日本人は餓死しないと考えている。
そして最後に食料自給率100%体制を整えたとして、それで日本人の餓死が防げるという論理を疑おう。食料輸入が途絶しても餓死者は出ないが、エネルギー輸入が途絶したら日本人は餓死するだろう。
ならば目指すべきは食料自給率100%の日本ではないはずだ。もっと違う方法で解決を目指さなければ、破滅的状況は回避できないだろう。


潜在的食料自給率は高い
食料自給率の計算方法はいくつかあるが、ここではカロリーベースと金額ベースのそれを比較してみよう。カロリーベースでは40%と低いが、金額ベースでは70%もある。これはつまり、日本の農家は野菜などのカロリーは低いが価格は高い作物を多く生産する傾向にあるということだ。穀物でも価格の高いおいしい米は面積あたりの収穫量は低く、安くておいしくない米は面積あたりの収穫量が高い傾向にある。
また農産物の供給市場が大きいということは、それだけ多くの農業従事者と農業生産用の資本が日本の国土に存在しているということを示している。
この二つの要因と食料輸入の途絶を掛け合わせてみると、どのような状況が予測されるだろうか。
1.多くの農地で優先的にカロリーベースの収穫量が高い作物が生産されることになる。
2.土地は痩せるが、これを化学肥料の大量投入で補う。
3.肉や果物などの高付加価値食料の供給は極端に小さくなる。
4.カロリーベースでの食糧供給は100%を簡単に達成し、野菜の生産は多少縮小するが健康を維持できるレベルは確実に確保される。
面倒くさいし興味もないのでこの状況を証明するだけの計算はしない。そのかわりにいくつかの数字を挙げておこう。
・日本の耕地面積 500万ha
・米の収穫量(コシヒカリ)5トン/ha
・米のカロリー 3500kcal/kg
・日本人の必要カロリー 2600kcal/日
エタノール生産用の米の面積あたり収穫量 コシヒカリの1.7倍
これらの数字は出典によって様々なものがあるので鵜呑みにはしないでほしい。しかしこの数字だけで日本のカロリー自給率は130%となり、休耕田などを復活させ、労働者を大量に投入すればさらなる増産が可能になる。だから「耕地面積のすべてで稲作可能であり、米さえ食べていれば生きていける」という非現実的な仮定をしなくても日本人は餓死せずにすむのだ。


エネルギーはどうするんだ?
しかしこの緊急食糧増産計画には一つの穴がある。この計画を実行するためには農業機械を稼動させ、農産物を流通させるためのエネルギーが必要だということだ。しかし食料輸入が途絶するような状況ではエネルギー輸入も途絶している可能性が高い。
エネルギー問題が発生すれば、たとえ現時点でカロリー自給率が100%だったとしても、その農業インフラは絵に描いた餅に過ぎなくなる。農業機械は稼動せず、農薬も肥料も供給されない農地では作物の収穫量は半減し、生産された農産物は国民の口に届かない。そのような日本での人口の均衡点は5,6千万人くらいではないだろうか。そして均衡を超えた人口は残念ながら餓死するしかない。
この問題の単純な解決策はエネルギー自給率を向上させることだが、今の日本では物理的に不可能だ。メタンハイドレードなどの開発で多少は向上するだろうが、焼け石に水程度の供給しか期待できない。二百年後くらいならば核融合技術によって日本のエネルギー自給率は飛躍的に向上しているだろうが、ちょっとこれは今のところSFでしかない。
結局のところ、食糧問題はエネルギー問題に集約し、エネルギー問題は外交で他国に頼る形で解決するしかない。日本が独自に解決できる問題ではないのだ。


エネルギー輸入途絶のシチュエーション
外交問題はいくつものシチュエーションが考えられるのだが、大別すると二つになるだろう。エネルギー産出国から供給を断られる場合と、エネルギー輸入経路をどこかの国家に妨害されることだ。
エネルギー産出国から供給を断られた場合、その分量をどこか別のエネルギー産出国から供給してもらわなければならない。そのとき、世界市場には日本に供給されるはずだったエネルギーが過剰に供給されているはずだ。もちろんそのうちの一部は別のエネルギー需要国が買い占めるだろう。しかしそのすべてを日本以外の国が買い占めることは不可能である。ならばその過剰分を買い取った国から転売してもらうことである程度の供給は確保できる。残りは別のエネルギー生産国が増産してくれるのを待つしかない。そしてエネルギーの備蓄はその間の供給減少の補填に役立つことだろう。
問題は他のエネルギー産出国が日本のためにエネルギーの増産をしてくれるかどうかだ。このような状況で増産を要求するためには、その国が「日本が経済的に安定していることが自国の国益になる」と考えていなければならない。その国がその国での過剰資源を日本に購入してもらいたいと考え、日本からは高品質の工業製品を販売し続けてもらいたいと考えるならば、日本の経済的安定のために有限で貴重な地下資源を供給してくれることだろう。


国際関係ゲーム
潜在的なエネルギー供給国と親密な関係を維持していることこそが、日本のエネルギー安全保障に大きく役立つことが分かる。その関係を維持するために、日本は日常的にその国家と多額の貿易をしていなければならない。そしてその貿易の重要な品目の一つが食料だ。日本は餓死しないために、あえて食料自給率を下げてでも国際関係を親密なものに維持しなければならないのだ。
潜在的なエネルギー供給国とはもちろんアメリカ合衆国だ。アメリカ合衆国は世界で有数の産油国で、膨大な埋蔵量を現在も保持している。そして同時に日本に大量の食料を販売したいと考え、日本から高品質の工業製品を輸入できることを期待している。また世界中のエネルギー資源大国の中でもっとも誠実な国家であり、日本を世界一必要としてくれている国家だ。
これは対米従属の思想ではない。日本がアメリカ合衆国を頼りにできるのは、アメリカ合衆国が日本を頼りにしているからこそ可能なのだ。そしてアメリカ合衆国が日本を頼りにできるのは、日本がアメリカ合衆国を頼りにしているから可能なのだ。需要と供給という観点から、我々は対等なのだ。
もしも100%自給論者の言うとおりに日本が食料輸入を完全に絶った場合、アメリカ合衆国は日本をそこまで必要としてくれるだろうか。それは日本にとって明らかに亡国への道のりとなるだろう。


そんなに戦争が好きなのか?
エネルギー輸入途絶のもう一つのシチュエーションが、他国からの輸入経路妨害だ。
この問題も前述の問題の解決方法と同様に国際関係の向上が予防策となる。日本を妨害することよりも、日本が安定していることの利益のほうが大きいならば、その国家は良好な国際関係の維持を選択するだろう。
しかし日本のエネルギー輸入経路に影響を与えることができる位置に存在する国家は大量に存在しており、もしもその国家の一つが発狂して戦争の暴挙に訴える可能性は皆無というわけにはいかない。
発狂した国家には理性的な国際関係の利益を説いたところで聞き入れてくれないかもしれない。そうだとしたら日本は交渉ではなく、物理的手段で妨害を排除しなければならない。つまりは戦争だ。
戦争は不幸な出来事であり、経済的にも損失のほうが大きいことはいまや自明の理である。しかし戦争の回避は日本だけが独自にできることではない。いくら日本が戦争をしたくないといっても、発狂した国家には言葉は届かない。日本が事前にできることは戦争を吹っかけられても国家が滅亡しなくてすむように防衛力を整備しておくことだけだ。
もちろん戦争が勃発すること可能性は非常に小さいだろう。そして現在の日本の自衛隊の能力ならばほぼ確実に敵国の海軍力を殲滅し、エネルギー輸入経路を維持することができるだろう。しかし戦争の可能性はゼロにはならないし、自衛隊が偶然に大敗を喫する可能性もゼロではない。だが、100%自給論者の言うようにほとんどゼロの確率の事象にまでも対応しなければならないのだろうか。もしもそうならば、日本は国民の餓死という最悪の状況を回避するために極端な軍拡に走らなければならなくなる。そして極端な軍拡は近隣諸国との関係を悪化させ、本来目指すべき国際協調による食糧安全保障という目的を損なう結果になるだろう。


じゃあ食料自給率はどうするの?
僕はカロリーベースの食料自給率はもう少し低い数値であるほうが、食糧安全保障に関して良好な結果をもたらすだろうと考えている。ただし金額ベースでは現状から大きく低下させるべきではないと思う。勝手な予想で文責はとれないのだが、カロリーベースで25%、金額ベースで60%くらいが妥当なのではないかと思う。
つまりは貿易の維持で国際関係を向上させ、農業インフラの維持で最悪の事態に対処するという戦略だ。そしてそれは国内農産物の付加価値を高めるために、農家は収入が増えるし、国民はおいしい料理が食べられることを意味している。いいことずくめな戦略だ。
しかしこんなことを言うと、多分多くの人にお叱りをうけるだろう。叱られるのはあまり好きではないので困ってしまう。でも誰かが正論を言わなければならないので、あえて言挙げしてみた。これを読んだ皆様もこれを機にいろいろと考えを深めてください。

病院システム近代化計画Q&A その7



「更新の頻度が極端に落ちます」と宣言していたのですが、ここまで間を空けてしまうつもりではありませんでした。更新頻度が落ちる原因の一つは解消したのですが、まだ完全には片付いていません。当面、ひきつづき更新頻度が落ちることを予告しておきます。
コメントに対する返答が全然間に合っていないのですが、できるだけ全部のコメントに返答していきたいと思っています。まだ力尽きていないです。

woodさん
>待ち時間の短縮=医師の診察効率向上=診察数向上と理解しました。
最初はそのつもりで書いていたのですが、考察を進めていくうちにこういった構図ではないと気づきました。
「待ち時間の短縮=顧客満足度の向上」と「医師の診察効率向上=診察数向上or診察時間短縮」の二つの問題に分かれています。後者に関してはそれが実現できたならば明らかに経営者のインセンティブとなります。しかし前者は直接には経営者のインセンティブになりません。
「待ち時間の短縮」が実現できたならば、病院は「患者が待つための設備」を小さくすることができます。しかし既存の病院においてはその設備はすでに存在するために、この設備に対する費用は埋没費用となっており、「待ち時間の短縮」ができたとしてもこの費用が返ってくるわけではありません。逆に駐車場利用料金という収入が減ってしまいます。
もしも医療産業が医療保険などのない完全市場の場合には、我々国民はこの「顧客満足度の向上」という問題に対して直接の要求を行う権利は存在しません。どの程度の顧客満足を提供するかは病院側の完全な自由です。顧客にできるのは顧客満足の高い病院を選択して利用することで間接的な影響を与えることだけです。
 しかし日本の医療産業は規制産業であり、しかも医療保険への加入は国民の義務となっています。日本国民(医療保険に加入している人間なら国民でなくてもいい)は医療産業の経営に直接の利害関係を有しており、これに口を挟む権利を持っているのです。ただしこの権利の行使方法の王道は選挙を通じて政治を動かす方法であるべきです*1
どの規制産業でも同じことが起きていますが、このような間接的で途中に役所という人為的ファクターが存在する市場ではどうしても他の競争市場の産業と比べると効率化の速度は落ちます。その結果、これらの規制産業の効率化は政治的マターとなります。政治的マターを議論するためには「なぜ医療産業はこうなのか?」という考察から始めないと解決の糸口はつかめないというのが、長々とシリーズを続けざるを得なくなった理由です。


>通常企業では「規模の効果」は同じ事を同じ人数で行う事を意味しません。
おおむね正しいのですが、現在の経営学はもう少し先を行ってます。経営学においては「規模の経済はどのような理論で発現するのか」をつきつめ、その理論を適用することで同じ人数でもより効率的なシステムを構築することが可能になっています。
そうは言ってもあまりに少人数だと規模の経済の発揮は難しいので、たいていの場合は人数を増やすことで効率化を実現させます。なので「おおむね正しい」です。


>shinpei02氏は専門家でない立場で提案がなされました。
僕はミクロ経済学経営学に関する専門家です。僕は「人間の欲望」と「人間が欲望を満たすためにどのように行動するか」ということに関してはたいていの医者よりもはるかに深い知識を持っています。そして医療産業も人間が従事しているので、僕の知識はこれらの組織の効率化案の作成にはあきらかに有用です。
もしも人間が個人的な欲求を完全に押さえ込み理性のみで日々を過ごすことができるのならば、僕の持っている能力なんかよりも産業の主業務に関する専門知識を持った人間のほうが現場の効率化にははるかに有用でしょう。しかしそのような理想は言葉の上でしか実現しません。人間は誰しも自分でもよく分からないさまざまな欲求に突き動かされて生きているものです。

読者さん
>Q&Aができたのでこちらに書き込みます。
返答が遅くなってしまいもうしわけありませんです。


>スーパーマーケット病院に限れば、患者さんの平均通院回数は2回くらいとの見積もりですが、糖尿病など慢性疾患で定期的に通院が必要な患者さんもそこに通うとすると、平均5回くらいにならないですかね。
慢性疾患にかかったことがなかったので見積もりが甘くなってしまいました。実際の平均はどれくらいなんでしょうか。2回が5回でもスーパーマーケット病院の有利は大きくは揺らがないとは思いますが。


>前日までの予約患者が多いのでトリアージ医師の前に行列はできない、ということは、基本は電話予約のアクセス制限で自分で急患と思う人だけが飛び込み受診ということでしょうか?
なぜ行列が発生するかというと、答えは至極単純で「業務時間のある時間帯に処理能力を超えた患者が集中するから」です。業務時間全体の処理能力を超えた患者が集中する場合は、もはやそれは行列処理の効率化では対応できない事態となってしまいます。
ならば「なぜある時間帯に患者が集中するのか」の理由を探し出し、その理由を解決してやれば「業務時間の全般にわたってまんべんなく患者が来院する」状況を作れ出せます。もちろん患者は患者の都合でそれぞれ勝手に来院するのである程度の揺らぎはどうしても不可避で、その結果、時々行列が発生することも不可避です。
なぜある時間帯に患者が集中するのか、もっと正確に言うとなぜ朝の始業時間に患者が集中するのかを考えてみましょう。
一つ目の理由はすごくわかりやすいものです。それは夜に発病した人が朝まで我慢して、病院の始業時間にやってくることです。出物腫れ物ところかまわずなので24時間営業の病院がある程度増えない限りは解決が不可能でしょう。
二つ目の理由はゲーム理論的なものです。行列の先頭に近ければ近いほど病院での待ち時間が短くなるので、多くの患者が行列の先頭を目指して早い時間帯に殺到することになります。患者は自分以外の患者もそのように行動するだろうと予測して、それを出し抜くためにより早い時間帯に来院する行動を選択します。常識的な理性では、緊急性がない限りまんべんなく来院することがそれぞれの待ち時間を短くすると思うのですが、ゲーム理論の支配する実際の世界ではこのような理不尽な現象が発生してしまいます。
待ち時間が不透明な状況ではこのゲーム理論的現象はさらに加速します。行列の先頭に近い者ほど待ち時間のブレは小さくなるからです。行列の後ろの方にいる患者はいつ呼び出されるか分からない状況で何時間も待合室で待つことを余儀なくされてしまいます。この状況では始業時間の1時間くらい前に病院の前で行列を作るか、終業時間の2時間くらい前に来院するかの二つの選択肢しか患者には与えられません。
逆に言うと待ち時間がある程度透明になればこの患者の集中は緩和できることになります。患者はどの時間帯に来院しても、始業時間に来院したときと同じ程度の待ち時間のブレしか強要されないことになります。どちらかというと、始業後の緊急患者の処理という不確定要素が一段落したあとに来院するほうが待ち時間のブレという点では有利な状況が発生します。
ただし当然のことですが、それでも早く来院したほうが早く診察は終了します。そのために患者にとっては早く来院することが利益になります。しかしその利益と、始業前に病院前で行列に並び始業後も病院内で行列を作ることの不利益を比較すると、病院内の行列がすいているだろう時間帯を狙って来院することを選択する患者は増えます。そしていったん病院がすいている時間帯に来院することが患者の利益になるようになれば、今度は患者がそれぞれすいているだろう時間を予測し始め、患者の来院タイミングはさらに分散化することとなります。神の見えざる手が発動するわけです。
そうやってお膳立てをしても、日常的に患者が集中するいくつかの時間帯は残るでしょう。そしてその混雑具合にあわせて診察医師を一名か二名、トリアージ業務に応援に派遣する解決方法もありだと思います。これもまた規模の経済が発揮される一場面です。


>大病院では、紹介が基本でトリアージはそれほど重要でない代わりにインフォームドコンセントが重要になりそうですね。ここでは1人の患者あたりの診察時間を手術時間も平均して15分とし(現行の制度では医師1人で1日の患者30人では経営が成り立たないかもしれませんが)1日の手術件数は医師一人あたり2件とすると、5人の診療医で1日10件の手術に対してインフォームドコンセント医は1人で足りるか。
非定型な患者が多数派をしめる大病院では僕のスーパーマーケット病院用のシステム案はあまりうまく機能しないと思います。もちろんその前段階で述べてきた様々な効率化理論の応用は可能だと思いますが、どれを応用するべきかはちょっと分かりかねます。
このような病院でもインフォームドコンセント医師を設置することは有効かもしれません。ただしこれは流れ作業的な効率を目指しての設置ではありません。患者への説明説得は得意だけど手術は苦手な医者と、その逆で患者への説明説得は苦手だけど手術は得意な医者で役割分担をするのが目的です。両方得意な医者ばかりだと分担する必要はありませんが、そのような人材の育成には大きなコストがかかってしまいます。多くの人間は残念ながら万能ではないのです。


>経済学的には、どれくらいの人口にスーパーマーケット病院1つ、大病院1つが適当か、そのためにはどれくらいの医師が必要かというあたりまで踏み込んでいただきたかったです。
この分析を行うための知識がないから無理です。期待に添えなくて申し訳ありません。この知識を得るための調査には大きなコストと権限が必要になります。両方とも僕にはないものです。




NATROMさんとの問答
返答を要求しておきながらほったらかしにするという失礼なことをしてしまい申し訳ありません。できるだけ最後まで問答を頑張りたいとは思っていますが、僕が先にやる気をなくす可能性もあります。そのときには「ごめんなさい。やる気なくしました」と宣言してからやめることを約束しておきます。


NATROMさんの返答へのコメント
2.医療産業においてはお金以外の報酬の絶対値が他産業よりも大きい。
他の産業についてはよく知らないが、イエスだろうと私は思います。


よく考えるとお金以外の報酬はそれを計測するための客観的尺度が存在しないため、大小を絶対値で問うことなどはおかしな質問でした。そうは言っても感覚的にはなんとなくこうじゃないかと言うことができるのが人間のすばらしい能力の一つです。しかし正確を期するためには「思います」という若干曖昧な答えしかしようがないものでした。

5.医者と同程度の育成コストがかかっている他産業の人材の平均年収は医者よりも低い。(医者・他産業ともに自営業を除く)
よく分かりませんが、多分イエス


転職サイトなどで少し情報を仕入れてみたのですが、概観で医者の転職後の平均年収は他産業の3から5倍くらいかなという感じです。もちろん育成コストがかかっていない人材と比べると10倍ちかい差が生じています。きっと3倍くらいが妥当な比率ではないかと思います。2倍を下回ることはなさそうです。


NATROMさんへの質問
1.医者は労働契約で規定されている以上の労働(医療業務)を要求されることがあり、よほどの事情がない限りそれを断ることは倫理上よくないとされている。
2.1のノーブレス・オブリージュは他産業でも業種ごとに存在し、多くの労働者はそれを実行することを倫理的に必要と感じている。
3.医者に課されているノーブレス・オブリージュは他産業(軍隊を除く)のそれに比べて大幅に過酷である。
4.医者のノーブレス・オブリージュの重要なものは以下の通りである。
・目の前に患者がいる状態での休息が許されない。
・どのような患者(軽症者・クレーマー)に対しても手を抜くことが許されない。
・目の前で人が死んだり苦しんだりする。
・私生活での乱れが許されない。
5.ノーブレス・オブリージュの部分に関する報酬をすべて金銭でもらうとしたら法外に感じられてしまうほどの金額を要求したくなる。
6.医者が他産業の同レベルの人材に比べて高い報酬を得ているのは以下の理由による。
・規制産業である。
・医者の提供するサービスが消費者にとって個人的に代替不可能なもの(生命・健康の維持)であるために代替物があるサービスと比べて高い価格となる。
ノーブレス・オブリージュに対する報酬の一部分が金銭で支払われている。


6に関しては少々の補足が必要かと思います。まず最初に医者の報酬が高いことの一番単純な理由は「医者の育成コストが高い」からだと僕は思っています。しかしこの質問の前提条件に「医者と同レベルに育成コストが高い労働者と比べて」がありますのでこの要素はニュートラルとなっています。
次に「規制産業である」ことを医者の高報酬の理由と挙げていますが、僕は「医者が高い金を分捕ってるのは法律で守られているからだよ、簡単だろ」とは逆の考えを持っています。「医者が高報酬なことは規制産業であることだけでは説明しきれない」と考えています。しかしそうは言っても規制産業の従事者は一般的に報酬が市場価値よりも高くなります。代表的なものは弁護士ですが、社保庁の職員の方が分かりやすい例でしょう。社保庁の業務は法律によって「社保庁しか行ってはいけない」と規制されているためにその職員にはあのような仕事振りに対しては過大と言うべき報酬が支払われています。
この理由の中に「労働時間・拘束時間が長いこと」が抜けているかと思われるでしょうが、僕はこれに関してはノーブレス・オブリージュに含めてしまってます。医者の報酬を時間単価にしたとしても医者の高報酬は揺るがないからです。長大な労働時間は医者の報酬にたしかに影響を与えていますが、これは常識レベルを逸脱していることが理由なので、時間の長さだけで説明してしまうとかえって本質を見過ごしてしまうのではないかと考えています。
他にもNATROMさんが「医者の報酬に大きな影響を与えている」と考える理由があれば挙げてもらえるとありがたいです。4も同様にお願いします。
5はNATROMさんがどうかというよりも、一般的な医者がどうかということで答えてください。


問答の他にもいくつかコメントをいただいているのですが、これに関しては問答という前準備がある程度完了した時点で議論を展開していきたいと考えています。


しかし一点だけコメントさせてください。


>「インフォームドコンセントすら知らない人の提案は机上の空論にしか聞こえない」
これは至極普通の感覚で有効な対処方法なのですが、多少の問題点があります。僕的に言うと「典型的な信用醸成の罠にはまっている」です。
まず最初に「インフォームドコンセント以外の論点でも机上の空論に聞こえるのか」です。実際はNATROMさんはいくつかの論点では僕の提案を有効かもしれないと受け入れてくれています。つまりは僕がどれだけ馬鹿なことを言ったとしても、僕がまともなことを言っている部分ではそれを評価してくれなければすべての議論が無駄になってしまうということです。もちろん僕も「NATROMさんなんてインフォームドコンセントに関してこんな意見を持ってるよ。こんな人の言うことは何ひとつ信用できないね」なんて態度はとりません。合意できるところは合意して、理解できる部分は理解して、納得がいかない部分は議論を重ねるという面倒くさいですが価値のある議論を作り上げたいと思っています。
次に「インフォームドコンセントの論点は永久に平行線なのか」です。後日の話とはなりますが、僕はこの論点の論理を分解して説明していきたいと考えています。多分論理のいくつかの部分は簡単に合意にいたるでしょう。そして論理を展開していった結果、「インフォームドコンセントの価値が低い」という命題に関してNATROMさんが納得してくれるかもしれません。逆に僕が「いやあ、NATROMさんの言うとおりでしたよ。わけの分からないことを言ってごめんなさいね」となるかもしれません。現時点ではNATROMさんはNATROMさんが正しくて持論の撤回などありえないと考えているでしょうが、それは僕も同じです。しかしその確信は変化する可能性があります。絶対にどこかに合意地点があるとは限らない命題なのですが、現時点での確信が将来において変化する可能性があるという覚悟は互いに持っていたいと思います。
最後に僕は営業という仕事を専門職にしています。しかも、自分で言うのもなんですが凄腕です。この仕事は顧客に「商品の情報を伝えて理解させて合意にいたれば購入させる」というものです。つまりはインフォームドコンセントです。医療におけるインフォームドコンセントとの違いは扱っている商品が違うことだけです。もっとも扱う商品が違うと、そこで要求される方法論もまた変化するのですが。
僕は「顧客の特質・需要を分析し、それを満たすための商品を選択し、その商品を使用することで得られるだろう顧客の利益を顧客に説明し、それを納得させた上で購入させ、代金を回収する」ことのプロフェッショナルです。その僕が「インフォームドコンセントに関してまったく見当はずれのことを言ってる」と言われてしまうと少し困ってしまいます。


もっとも僕がどのような人物でどのような知識やスキルを持っていようとも、ここで重要なことは「僕の文章が論理的に正しいかどうか」だけです。もしかしたら僕は大病院の院長かもしれませんし、厚労省の官僚かもしれませんし、医療経済専門のシンクタンクのメンバーかもしれません。医療事故で親を亡くして復讐に燃える孤児かもしれませんし、実物の医者を見たこともない無医村の林業従事者かもしれません。匿名のネット空間では論理だけが意味を持ち、人格は意味を持ちません。なので僕が「凄腕の営業マン」なことも話半分で聞き流してください。
そうは言っても僕の人格に関して一つだけ心に留めておいてほしいことがあります。それは「僕はストップウォッチを使って医療現場の動作分析を行ったことがない」ことです。それをしたからといって完璧な改善提案ができるとは限らないのですが、それすらしていない人間が改善提案をしたところで完璧なものができることは到底できません。きっと僕が今していることは、動作分析をするための事前準備です。この事前準備がいい加減なままで動作分析を行ってもいい加減なデータしか集まらず、結果的にいい加減な改善案ができあがります。適切な動作分析計画を立てるためには高度な経済学と経営学の知識が要求されます。
でも実際の社会ではそこまで高度な知識は要求されないことが多いです。なんとなくの知識でなんとなく計画を立てればなんとなくうまくいくものです。なぜこんなにいい加減なやり方でかまわないかということは今後のお題としてとっておきます。

*1:このため選挙権を有しない外国人には権利の行使方法が確保されないことになる。